母は三人兄妹の三番目
お兄さんも2011年ころから、何年かおきに次々に亡くなり、その度に
子供世代が集まっておりました。
ただ、下のお兄さんの奥さんが亡くなったのが、2022年コロナ禍だったので、その時はお花だけ遅らせてもらいました。
そんな経過もあり、年末だったのもあったのか、夫は義母の息子たちとその家族だけの葬式をすることにしました。
私は義母が亡くなった日に喪中ハガキを注文しましたので、夫の親戚にも送ろうとしましたところ、送れば葬式に間に合ってしまうと思ったのか、送るなと言われてしまいました。遠くなので、ホテルも予約しなければならないと思ったのでしょう。
そんな訳で松が開けてから、寒中見舞いを送りました。
すぐに電話があり、小田原のお兄さん(義母の上のお兄さんの息子さん)夫婦が来てくれることになりました。
私は、その人のお父さんのお葬式には、伺ったのですが、お母さんのお葬式には、
湯本の旅館を予約するというので夫たちだけ送り出しました。
この時に私たちが行かなかったのは、義母が病院にいたのかもしれません。
その後、大阪の伯父さんのお葬式にも夫たちが出かけて行きました。
義弟たち夫婦は、ちょうど10年くらい前から義母と同居を始めていたので、義母が元気であれば、私たち女性陣がついて行ったと思います。
そんな訳で、私はその人の事がすぐわかるのか心配だったので、大阪のおじさんが亡くなった時の写真を見て、解るようにしておきました。
夫が仲良しのいとこさんにもお会いしたかったのですが、夫たちの判断でしたので、
それと私と息子を義父や義母が小田原に連れて行った時の写真も持っていきました。
そのあたりから話がほぐれて、義弟が同居し始めた時に
いきなりお兄さんに会いたいと言い出して、電話もせずに会いに行った話も出て来ました。
義母は、同居してから、一人暮らしの緊張から解かれたのか、一人で映画に行ったり遊びに出かけたりしていたようです。
義父は、20年も前に亡くなっていましたから、一人住まいは大変だったろうと思います。私は義父が子供が小さい頃月に一度遊びに来てくれていたので、月に一度は伺っていましたが、行くと中々帰らせて貰えない事を除けば、一人で頑張って生活していました。
そうやって、割と知っているつもりでしたが、
小田原のお兄さんの話によると、この義母の家の近くに今は大阪に住んでいるもう一人の伯父さん一家が住んでいて、そのせいで、うちの夫はいとこたちと仲が良かったのだと初めて知りました。
多分、小田原のお兄さんも親に連れられて、あそびに来ていたのでしょう。
ここに井戸があったとか、色々な話に発展しました。
もう人との話に興味がないのかと思っていた夫がスマホを出して、次に会う事を約束していましたし、家に遊びに行くこととも言っていました。
義母は、映画だけでなく、同居を始めてから漢検に挑戦して、一級も取ったそうです。
元々、教員一家ですし、義弟の息子の一人も教師をやっているので、教育界の話も出てきました。
教員ばかりの親戚なのに、義母の息子たちは、そういう道に行かず、立場が悪かったかもしれません。私の事を認めてくれていたのも父が将棋や俳句の趣味があったからかもしれません。
夫は孫が御託ばかりならべるので話を合わせるのが苦労だとこぼしていましたが、
私の息子がよく連れて行っていましたが、ひ孫の存在を、義母が喜んでくれていたのかもしれないと思いました。
義弟に息子が生まれた時は、将棋盤を送ったらしいですが、親たちは興味がないので一人で二人分の駒を進めていたらしいです。
うちは父がいたので、遠慮されたのかな。
初めて義母と会った時から眼鏡をしていましたが、伊達メガネだったそうです。
確かにおしゃれなフレームの眼鏡でしたが、改めて写真を見てみると効果的にかけているのが解ります。
よく手紙をくれて、目立たずに色々と手伝ってくれた思いがありますが、口はかなり直接的にズバッという方でしたので、義妹は、義母がちょっとボケた方が扱いやすかったみたいです。
でも、お勉強もよく出来て、施設に入ってからやるペーパーテストが面会に行くと山のようにあって、次々に解いていたのだろうと思いましたし、夫は「数学が得意なんだ」と確認していました。
晩年、あまり話をしなくなりましたが、ちゃんと色々解っている様子でうちの子供たちも忘れられないくらいの頻度で会いに行っていましたが、反応があるので、次の面会に繋がっていたのだろうと思います。
そんな義母だったのに、夫はほとんど実家によりつかず、子供たちもパパと行くと
30分もいられないと嘆いていましたが、
夫のいとこの訪問で、そんな実家に6時間以上もいて話が途切れなかった夫。
義母がつないでくれた人間関係が新たに始まろうとしています。



