母は89歳だったので、家族葬にしようと言うことになりましたが、

父と私の家族と弟の家族の9人で済ませることも出来たのだが

子どもたちにそれぞれの家庭もあり、葬儀場を決めた翌日には、

14人に膨れ、母の亡くなる前後にお見舞いに来てくれた

母の弟夫婦も増え、そうなると、兄弟に一応は電話をしなければならないと

言うことで、母の姉妹にも電話連絡し、18人に前日、夫の弟にも

連絡を取ったところ20人に膨らんだ。

これでも母の兄弟の総てではなく身体が不自由な兄弟と

母より先に亡くなった弟の家には連絡をしていない。

施設関係者には、ご遠慮いただいての式だったのだが、

母の遺影を選ぶために、ひっくり返した写真の数々。

20年前までOKと言われたが、約8年半ほど前の甥の結婚式の写真にした。

認知症が始まっていたが、そういうところで母は、きちんと挨拶も出来て

りっぱな態度だった。

家族といると顔が和むのでそういう写真がいいと言われ

そう言われてみると一人で写っている写真より何かのお祝いの写真が

いくつか候補に挙がった。

おととしくらいまで、父は母必ず結婚記念日を祝っていたし、

誕生日もちゃんとやっていたので、それなりの写真はいくつも

あったが、やはり結婚式の写真が

きちんと化粧もしているし、きれいな服も来ているので

良かったと思う。

背景に大勢写っているので、それを消してもらう作業に何日か費やしたけれど

費やした分だけ、ちゃんと母らしい写真になった。

候補に挙がった写真をアルバムにして飾ろうと言うことで

アルバムが10冊くらい出来た。これも、みんなが夫々の

エピソードを語るので増えた分だけれど、その分、知らなかった母の

素敵な話が聞けた。

孫娘とふいにイタリアの青の洞窟に行った写真、姪っ子の金管コンクールのために

北海道まで夜行列車で行った写真。

モントリオールの水泳マスターズで2位になった写真と記事。

義父と同い年だったので、合同で父の傘寿の会を泊りがけでした写真。

母の傘寿の会と父の米寿の会も弟家族と泊りがけで行った写真。

などなど、

圧巻だったのは、父が母に送った俳句

「苦労をかけた妻へ」と言うものだったが、

結婚4か月で父の姉が亡くなり、高齢の両親と

同居しているのに、お姉さんの子供たちを引き取ったと言う俳句だった。

いきなりの大所帯。可哀想すぎて涙が止まらなかった。

 

父はその世話をした人たちを呼ばなかったことで私たちを

責めたが、いい思い出だけで送りたかった。

 

来てくれた人たちには、形見分けとして

母が最期を過ごした部屋にあった母の作品や持ち物を

貰ってもらった。

部屋のぬいぐるみもお花も持ち主が出来たが、

残ったのは、なぜかハンカチが二枚入った化粧バッグ

何年か前の誕生日プレゼントだ。

なぜか、タンスの横にかけられていて、いつも母を見守っていた品だ。

あとは、祭壇の横には飾ったが、弟と二人で分けようと決めた

母のちぎり絵の作品。

みんなが欲しいといい、家にまで押しかけると言った親戚もいたが、死守しなくては。