こんなこと、誰にも言えない・・・

そう思っていた。

親として、そんなこと言った自分を認めたくなかった。

それが本音だとしたら自分って最低だと思った。

 

知人と喋っていた時・・・

ちょっと調子こいて・・・

雰囲気やノリもあったんだけど・・・

こう言っちゃったんだ

「やっと娘がいなくなったんだから」って。

 

たとえ「軽口」としても、言った瞬間に「ハッ」とした。

私、そんなふうに思っていたの?

いや、今のはノリで言った軽口だから・・・って思ったけど。

いや、そういうときのほうが本音ってポロっと出るのでは?

 

それから毎日毎日心の中がモヤモヤ。

 

たまらなくなって、友達に話した。

彼女は、私とは価値観も考え方もなにもかも正反対でお互いに相容れないと認識する存在でいつも全く共感してくれないけど、

私が話したことをきちんと記憶していて、それを論理的に整理してくれる。

 

彼女はこう言った。

「やっと・・・」

そう思っているのも真実かもしれんね、だってこれまでが壮絶すぎたんだから。

あんたは、ナナの対応をするためにいろんなものを失っただろうし・・・

我慢もしてきただろうし、つらい思いを13年もしてきたんだから。

それに、その「やっと」という言葉の中にはナナがもうこれ以上生きるのにつらい思いをしなくてもすむようになったという

「やっと」という意味も含まれていると思うよ。

その親子の苦しみからお互いに「やっと」解放されたという言葉だったのかもしれんね。

ナナが死んでも泣き叫んだりヨレヨレにならない自分はなに?ってあんたは自分のことを思っているみたいだけど

13年かけてじわじわと「いつかこの子はこういう結末を迎えるかもしれない」と自分に刷り込んできたからってのもあるだろうし、その間もあんたは自分の感情を持たないようにして自分を守ってきたんだろう。

そうしないとやって来れなかったんだろうなと思う。だからその苦悩は計り知れないほど深いんだと私は感じているよ。

親も人間なんだから、いろんな感情があってもいい。

ナナがいなくなった悲しみもあり、どうして?という怒りもあり、助けてやれなかったという自責の念や後悔も・・・

そして「やっと」という気持ちも持ってたっていい。

 

ナナが眠ってから来月で2年が経つ

周囲の人たちは、少しずつ娘のことを忘れていっているんじゃないか?と悲しくなる
この世にいないということは新しい記憶が生まれないわけだから、仕方ないのかもしれないけど・・・
ナナのことを知っている人とは、もっとナナのことを話したい
たとえ過去の思い出話だったとしても、ナナはそこにいたんだということを感じたい
 
忘れないでほしい
 

日々、私はひとりで心の中でずっと考えている

ナナのことを忘れる日なんてない

毎日、つじつまの合わないようなモヤモヤした考えを持ちながら生きている