ベッドに仰向けに寝転がって、洗ったらボロボロになってしまったカーテンの隙間から覗く青い空を眺めていた。雲ひとつない青さと、日光の中で眩しく揺れるベージュとピンクの縞模様のカーテンが、なんかドラマのワンシーンみたいでいいなぁと思う。そう言えば、美大に進学した友達が撮った映像を見ようと思ったまま見ていなかったことをふと思い出す。いや、嘘だ。ことある事に思い出していた。私を置いて遠くへ行くあの人の作品を見るのは怖くて、見たらいよいよ遠くに行ってしまいそうで、大学に受からなかった私を、妥協せずに頑張ろうと思うこの心を、私が行かなかった大学に行って学歴なんか気にせずさっさと作品で実力勝負に出ていくあの人が、どんどん大人になって、知らない人になっていく妄想を、これ以上膨らませたくなかった。だから、何かに躓く度に脳裏をよぎるあの映像を、YouTubeのリンクを指先で軽く触るだけで見ることの出来る映像を、いつまでも見る気になれなかった。
見よう、と思った。今なら、見ることが出来る気がする。怖いけれど、それを乗り越えたら少しだけ前に進めるような、そんな気がする。いや、正直なことを言うと、今日までずっとそういうふうなことを繰り返してきた。あの人の好きな曲を聞いたら、あの人と一線を越えたら、あの人の大切な人になれたら、あの人を忘れられたら、あの人を受け入れられたら、何か変わるんじゃないか。毎日毎日あの人のことを心のどこかに溜めたまま生きている。もう一年近く。なかなか気持ちが悪いな、と自分でも思うし、だから、結局そんなことをしても何も変わらないこと、乗り越えられないことも分かっている。でも、私の指は決意を持ってそのYouTubeのリンクに触れていた。

  私は、文を書くのが好きだ。絵を描いたり、音楽を聞いたりするのももちろん大好きなのだけれど、文を書くのはそれとは少し違って、これを失うと生きられないという気がする。文を書いている時に、あぁ、自分は生きていたんだなという実感をなんとなく持つのだ。私は、そういう意味で、彼を尊敬していた。彼は、いつも何かで生きているという実感を持っている人だった。彼は、いつも生きていた。ある意味人間的ではないとも言えるかもしれない。野良猫とか、カラスとか、そういう生きるためのガツガツした何かを、物静かに感じさせる人間だった。そういう所がなんとなく気に入っていて、どこに行くのかついて行きたくなるような、そういう不思議な雰囲気が好きだった。

動画は7分弱続いた。薄暗い雰囲気、ストーリー性があるような、ないような、目を背けたくなるような、それでいて最後まで見届けなくてはと思うような、私立の美大生の好きそうな安っぽいエログロナンセンスと言えばそれまでのような、しかしもっと深いものがあるような、(これは私の彼に対する無意識の贔屓かもしれない)変な作品だった。再生数は100ちょっと、評価はグッド1つのバッド3つで、なんだか、拍子抜けした。私が思っているよりずっと小さい世界の話だったことを、今更思い出したようだった。

ずっと怯えていたものは、確かに今も恐ろしいままで、きっと私はもうしばらくこの彼にかけられた呪いを解くことができないと思う。何か上手くいかないことがある度に、思い出して泣いたりもすると思う。SNSで彼を見かける度に居心地の悪い気持ちになったり、劣等感に駆られたりするかもしれない。それは多分、彼が生きているからだと思う。他の人を見た時には味わわない劣等感を感じるのは、彼がいつも生きているなと感じられてしまうから、線香花火みたいで近づくのが怖いから。

生きないといけないな、と小さく呟いて、私はベッドから起き上がった。カーテンの隙間から射す日は、やっぱりドラマみたいで美しくて、私は彼の変な映像作品を思い出していた。