毎日乗っている中央線に乗った。いつもと違うのは、Sが隣にいること、終点の高尾まで行って、さらに知らない電車に乗り換えて遠くに行くこと。都心を離れるにつれて、山が増え、田んぼが増え、車内の人が減っていく。Sと二人、幼稚園児みたいに車窓に鼻をくっつけて外の景色を眺めた。私はませた子供で、そういうお行儀の悪いことはしてはいけないと思って育ったから、「子供に戻った」というのではなくて「子供に変身した」気持ちになる。Sと二人で外の山を見てはしゃぐのは、とても楽しかった。

 旅行と言うより、冒険みたいだ、と思った。

 大好きな友達と二人で、行ったことのない所に、ほとんどなんの計画もなく、手描きの地図だけ持っていく冒険。荷物は、本当に着替えとお財布と、FABBOX上映會のチケットだけだった。完璧主義の私は大抵どこかに行く前にきっちり予定を立てる。何時の電車で、こことここに行って、ここであれを食べて、とにかく不安だから全部決める。それでもこの旅はあえてなんにも考えずに行った。ひとつは、Sがいきあたりばったりで行こうと自信満々で言ったから。もうひとつは、志村くんがきっと案内してくれると思ったから。これは非常に正しい判断だったと思う。


 私は、多分、子供時代にコンプレックスがある。一番親に甘えたい年頃に、親が離婚審議中だった。誰にも甘えられなかった。だから誰かに褒められたくて、「大人に褒められる子供」を必死に目指していた。すごくませた子供だったと思う。家族で旅行は疎か外食に行ったこともないし、愛されていると感じたこともないし、そういうわけでとにかく、大好きな友達、家族みたいな(私は家族に対して愛はないので、家族みたいと言うのは語弊があるけど)なんの根拠もなく信頼出来る人と、怒られたり見捨てられたりする心配なしに遠くへ出かけるという行為は、私が子供の時に欲しくて欲しくて、それでもどうしても得られなかったものを私に与えてくれた。本当に欲しかった日から10年以上も経ってしまったけれど。


  富士吉田の街は、セピア調だった。どこもかしこも、「赤黄色の金木犀」や「桜の季節」のPVと同じ色合いだった。大きな山々は霞みがかって大きなゴジラの背中みたいで、綺麗だけど恐ろしくて、志村くんは同じ景色を見ていたのかな、何を感じたんだろう?と思った。

 街には至る所に小さな用水路が流れていて、水はすごく澄んでいて、用水路なのに小川みたいに感じた。苔蒸したコンクリートがやけに綺麗だった。雨が降っていて良かったと19年生きてきて初めて思った。

 上映會は、ホームビデオを見ているみたいだった。志村くんが故人だなんてことは少しも思い出さなかったし、この映像が終わったら志村くんが幕間からギターを持って、妙な照れ笑いを浮かべながらふらりと出てくるに違いないとさえ思った。それくらい、画面の中の志村くんは生き生きとした死人だった。命を燃やしていた。絶対に泣くと思って覚悟していたのに、みょうちきりんな踊りを踊る志村くんやシンバルを素手でめちゃくちゃに叩く志村くん、楽しそうに歌う志村くんをみたらにこにこすることしかできなかった。展示会には、志村くんがライブで着ていたTシャツ、帽子、写真、ギターが沢山あった。でもそれらはどれも生きていて、中野の志村會で参列したファンの人が書いた手紙だけが志村くんは死んだんだと伝えていた。それでも、どうしても志村くんがこの世にいないとは思えなかった。泣いているお客さんもいたけれど、写真の中の志村くんはすごく楽しそうな顔をしていた。全然悲しい気持ちになれなかったのは、私が生きている志村くんに会ったことがないからか、志村くんの死に方があまりに生き生きしていたからか、彼の歌がまだ私の中で「生きている人の歌」だからか、あるいはその全部だからかもしれない。

  もらったてくてくマップを手に、翌日は下吉田の街を駅から順番に回った。変な細い路地裏、ボロボロの廃墟、用水路に生えた綺麗な苔、畑を歩くキジ、そういう地図にない素敵なものも沢山見た。本当に冒険みたいだった。それから、たくさんの神社。志村くんが通った学校、よく行ったうどん屋さん、歩いた街並み、友達のやっているお店、全部1つも無駄がなくて、美しくて、見たことの無いものばかりだった。下吉田は、本当に素敵な街だった。

  吉田うどんを食べに入ったうどん屋で、同じく志村くんに会いに来た女性と出会った。店主のおじさんが、「さっきそこに座ってた人も、あそこに座ってた人もみんなフジファブリックだって」と教えてくれた。「どの道も、志村くんが歩いていたと思うとドキドキしちゃいますね」と話した。吉田うどんは太くて、「東京のうどんは甘っちょろい」っていうのは本当だな、と思った。

 「月光」というカフェに行った。Sと、人間は何で構成されているかという話をした。Sと私は全然違うところで生まれ育った人間だし、性格だってほぼ真逆だから、知らないことを沢山教えてくれるし、理解できないことも沢山ある。相手のことをよく知らないけどそれが心地いい感じ、通学路で会う野良猫によく似ている。話していて、語弊が他の人に比べて極端に少なくて、生まれてこの方ずっと一緒に暮らしてきた人みたいに思える。この冒険が、Sと2人で本当に良かったと思った。

 志村くんのお墓に行った。コーラがいっぱい置いてあって、お花もいっぱいお供えしてあって、志村くんが死んだことを悲しいと思う人がこんなに沢山いるんだ、と思うとつられて悲しくなった。昨日見た映像ではあんなに楽しそうにしていた志村くんが、こんな石の下に埋まっているなんて到底思えなかった。Sが「ここにいるんだ」と言ったから、咄嗟に「ここには居ないよ」と返した。天国にいる、とか生まれ変わった、とかそういうことは思わないけど、それでも、ここにはいないと思った。何の気配も感じなかった。

 最後に、「いつもの丘」で、「会いに」と「茜色の夕日」を歌ったことが鮮やかに脳裏に残っている。霞がかった霧雨の降る富士吉田の街を見下ろしながら、私もSもびしょびしょで、なんだか無性におかしくて、「浮雲」を歌いながら楽しく登ってきたのに、丘の上のベンチまで来た途端、「ああ、志村くんはここで浮雲を書いたんだ」というのが鮮明に分かってしまって、手すりに触れた瞬間に、そこにいたに違いない志村くんが私の体を透き通っていった感覚が確かにあって、歌いながら泣きそうになってしまった。6時のチャイムをSと2人で口ずさんだ。Sがいつになく饒舌で、野良猫が取った雀をプレゼントしてくれたみたいな気持ちだった。「雨が降っていて良かった」とSが言った。Sは、本当に私と同じことを考えるヤツだなぁと思った。


  帰りの電車に乗る。帰りたくないな、と本気で思った。幼稚園児みたいに素直な気持ちだった。朝八時から夕方の六時まで歩いてクタクタだったけど、寝てしまったら本当に楽しかった時間が全て夢になってしまう気がして、怖くて頑張って起きていた。トンネルが長くて、夜が更けていって、あぁ、夜汽車を書いた志村くんはここに座っていたんだ、と思って涙が出た。中央線に乗り換えると、途端に現実に帰ってきたように思えて、寂しい気持ちになった。

 今これを書いていても、あれは全部夢だったんじゃないかと不安になる。それくらい、よく出来た行き当たりばったりだった。故人に対して何か分かったようなことをいうのはとても失礼だと思うから、「これが志村正彦の育った街だ!」みたいなことは言いたくないけれど、あのセピア色の街には確かに桜の季節のあの少女達が住んでいて、赤黄色の金木犀が咲くんだろうなあと思えた。

  また志村くんに会いに行こうと思う。辛いことがある度に、茜色の夕日の「無責任でいいな ららら そんなことを思ってしまった」というフレーズで泣いてしまうことを、きっと志村くんは知っていると思う。線香花火に元気づけられていることも、夜汽車を聞いて好きな人のことを考えていることも。志村くんは、曲の中できっとまだ生きている。私が志村くんのDVDを見て泣く度に、またこいつ泣いてるよ、と思っているかもしれない。富士吉田っていい所だね、と言ったらきっと志村くんは喜んでくれるから、きっとまた遊びに行く。