S side




「おはようございます。本日の会議で使う資料です。お目通しお願い致します。」



会社では松本がいつも通り、秘書として俺を待っていた。



「わかった。会議は10時からだな?」

「はい、それまで何かお飲みになりますか?」

「いや、いいよ。」

「それでは私はこれで・・・」

「待て松本。これ、良かったら使って。」



社長室から出ていこうとする松本を引き止めて

小さな紙袋を手渡す。



「社長、これは・・・?」



社長・・・か。

やっぱりもう、翔とは呼ばないよな。


当たり前の事なのに、そんな事すら寂しく感じる。



「抑制剤。松本が普段飲んでるのよりキツいけど、効果も速効性も強いらしいから。医者の友人に頼んで特別に出して貰った。いざって時の為に持っとけよ。」



俺の知らない所で、この前みたいな事があったら困る。目の届かない場所であんなヒートを起されたら助けに行ってやれないのだから。



「でも、これって凄く高価な薬なんじゃ・・・、貰えません。」



松本は遠慮して、受け取ろうとしない。

出回っている数種類の抑制剤に、価格の違いはあって、一般的によく服用されているものは保険適用で割と安く手に入る。

それでも風邪薬だとか、鎮痛剤の数倍の金額にはなるらしいが。


俺が松本の為に用意した抑制剤は、更に効果に見合う金額ではあるけど、それは俺の安心したい気持ちの対価でもあって。

この程度で松本が危険な目に晒される確率が下がるのなら、絶対に常備させておきたい。

この薬だって場合によっては、100パーセントの効き目がある訳でもないんだから。



「いいから取っとけ。それとも、松本がまた俺に鎮めて欲しいってんなら返して貰うけど?」

「いえ・・・っ、そういうんじゃ・・・」



素直に受取りそうにない松本が、受け取らざるを得ない様、わざと意地悪く言ってやると、松本は頬を赤らめ困った顔をした。



「それなら二宮さんが新薬を開発するまで、お守り代わりに持っとけよ。彼には言ってないんだろ?この前の事も。婚約者に心配掛けない為にも、これは受け取れ。」

「でも・・・っ」

「俺も気になって仕事の妨げになる。社長がそんな状態なのは会社にとったら大きな損害だ。だから素直に受け取れ、これは社長命令だ。」



少しふざけて、ビシッと松本を指差しながら伝えると、ふふっと笑って



「わかりました。社長命令には背けません。有り難くいただきます。」

「わかれば宜しい。」



可憐に微笑む松本に、俺も頬が緩む。


ヒートでもラット状態でもないのに

胸の奥がトクンと高鳴り

松本を見つめるだけで

鼓動が速くなるのを感じる。




「・・・っ社長・・・」

「少し黙って」



ダメだって分かっているのに

俺は松本の顎に手をかけ、顔を傾け近づける。


松本の瞳は動揺するように揺れるけど

俺を突き飛ばす事はしない。



俺が社長だから・・・?

それでも構わないよ。



お前の唇に、触れたい



そっと目を閉じた松本の長い睫毛に

ふっくらとした唇に

見とれながら更に顔を近づけると



「翔君、この後の・・・って・・・お取り込み中だった?」



唇が重なる直前、わざとなのか偶然なのか

智君がノックもせずドアを開けた。



「で、では後ほどまた参ります。」

「あ、ああ・・・よろしく」



その瞬間、バッと俺から離れた松本は

逃げるように社長室から出ていった。



「あららー、やっぱりそうなるわな。邪魔して悪かった。」



智君は少しも悪いと思っていない表情で

ニヤニヤしている。



「はぁーっ・・・。会社だぞ。ノックしろよ。」

「八つ当たりすんなよー。周りに人が居ない時はたまに俺こんなんだけど、ノックしろなんていつもは言わねぇだろ。」



・・・確かに。

いつもなら幼なじみの間柄、他の社員の手前さえ無ければ、そんな事気にもしていなかった。


でももう少しの所を邪魔されたんだ、文句を言いたくなっても仕方ないだろ。




松本に触れたくてたまらなかった。


あいつを近くにすると

触れたい、慈しみたい、守りたい、挙句に俺だけのものにしたいって想いが溢れてくるんだ。


だけど・・・



「とっとと、婚約者から奪ったら?もうあと1ヶ月後ぐらいだろ、松本が結婚すんの。」



松本には決まった相手がいる。

松本も彼との結婚を望んでいる。



「・・・ああ。ヤバいよな。」

「早く手を打った方がいいぞ。」

「だよな。」





『それでも・・・二宮さんがいいのか?』
『・・・彼がいいです。』


あの時俺に松本は、はっきりと断言したんだ。





「素早くうなじを噛んでだな、番に・・・」

「智君!」

「はいっ!!」



大きな声で呼ぶと、智君もつられて大きな声で返事をした。



「前に言ってた、松本が結婚してから増員しようか迷ってた秘書、早めに探しといて。」

「へ?」

「それからさ、俺に合いそうな番どこかに居ねぇかな。」

「は?」

「贅沢は言わない、少しでも気が紛れる相手ならそれで。」

「翔君・・・」

「何?仕方ねぇだろ、あいつは二宮さんと結婚するって決めてるんだ。智君が言うみたいに無理矢理俺の番になんてしたくないんだよ、だから・・・」

「そんなに松本が好きか。」



早急に話を進めようとする俺を、智君は全て理解し受け止めるような優しい眼差しで見る。




「・・・ああ、好きだよ。好きで、好きで

手に入れたいのに、他の男と結婚が決まってるなんて・・・嫉妬で焼け死にそうなくらい、松本が好きだ。」

「・・・だろうな。」

「だけどそれと同じくらい、あいつには幸せになって欲しい。松本が好きだから・・・好きな相手と誰にも邪魔されず、あいつの望む幸せを手にして欲しいって思ってる。」

「うん。」

「だからさ、俺がそれを横から邪魔しちゃダメなんだよ。痩せ我慢だって言われても、自分の欲望だけで俺は動きたくない。なのに好きすぎてもう限界でさ、早くどうにかしないと俺の身が持たない・・・正に苦肉の策ってやつだよ。」

「・・・そうか。わかった。」



翔君は、不器用でくそ真面目な上に頑固だからなぁ


智君はボソッと呟いてから



「任せとけ。松本には及ばないだろうけど有能な秘書と、翔君が気に入りそうな番を探してやる。

俺が全部何とかしてやるから。

だからそんな切なくて苦しいって顔すんな、な?」



俺の背中をバシバシ叩いて、柔らかく微笑んだ。