2009年2月中旬

主治医から、余命宣告があったその日の夜星空


 

病院には間に合わなかった兄も実家に合流し、母と兄妹の4人で話しました気づき

 

看護師さんからは、本人にはっきりと余命を伝えるのではなく、例えば「今年が最後の桜になるかもしれない」という言い方の助言はありました。

 

しかし、父が元気な時に話していた「病名は知りたいけれど、余命は知りたくない」という思いを尊重し、病院には「余命については伝えないこと」でお願いすることにしましたえーん

 

翌日の家族旅行当日

事前に父からは、母の還暦祝いなので、赤のバラの花束を準備して欲しいと言われていました赤薔薇

しかし、生花だと枯れてしまうので、赤いバラが入っている、プリザーブドフラワーを購入しておきましたウインク

 

昼過ぎに父を迎えに行き、自家用車で温泉地に向かいました車

両親、兄一家4人、妹一家4人、私は主人が仕事だったので1人で、当時の家族、総勢11人笑い

やせ細ってしまった父を兄と義弟が温泉では手伝い、部屋食で食卓を囲み、楽しい時間を過ごしましたキラキラ

 

父への誕生日に写真とメッセージを書いた色紙を送り、私からのメッセージには

「5年後、10年後も一緒に誕生日祝いをしようね」と書きましたおねがい

父は「希望はそうだけど」と真面目な顔で答え、でも「お母さん(父にとっては妻)を一人にするわけにはいかない、これから恩返しをしたい」とも言ってくれていましたキラキラ

 

余命宣告後であり、これからの治療を思うと、複雑な思いはありえーん

涙もありましたが、家族写真を撮ったり、いい思い出になりました乙女のトキメキ

 

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この時の写真は今も実家のリビングにありますニコニコ

父は痩せて、顔色もあまり良くないけれど、笑っていますラブラブ

まだ歩ける時に、みんなで過ごす時間が持てたことは本当に幸せでした飛び出すハート

 

そして、ここからの半年間は色々ありました泣

段々弱っていく父を見ながら、戸惑いながらも、生きたい!という父を支えたい一心でしたえーん

 

しかし、余命を伝えなかったことは正しかったのか?

本当は知りたかったかもしれない。

 

母の「必ず生きていて」

私の「5年後も10年後も一緒に誕生日祝いをしよう」

何気なく話していた一言が、父の弱音を吐けない環境を作ってしまったかもしれないえーん

 

タラレバの話をしても仕方ないし、答えはないけれど、余命宣告からの色々に全てを納得できる…と言うのは、本当に難しいことかもしれません泣