今さらですが、僕のブログは、
読者の方を意識してきれいな文章を書くというよりは、
世界を旅している26歳の頭ん中をちょっとのぞいてもらう、
といった感じで書いてます。
なので、表現が雑だったり、学が足りなかったり、
間違ったことも多いとは思いますが、そんなときは、
『あぁ、こいつはそんなことを思ったんかー(アホだなー)』
と、思いながら読んでもらえたら嬉しいです。
先日、イタリアの車窓からまた小難しいことを考えていました。
もんもんとした記事ですがよかったら読んでみてください。
旅をしていて、海外の人と接しながら、
良く言えば、
『相手を思い遣る自分』や『譲る自分』、
悪く言えば、
『遠慮している自分』や『意見をハッキリ言えない自分』
を発見する。
多くの日本人にも似たようなところがあると思うが、
このような日本人の国民性はどうやって培われて来たんだろう。
単純に、日本の『思いやれる』、逆にいうと『意見をハッキリ言えない』国民性は、
農耕民族としての歴史から来ていると考えていた。
でも普通に考えて、海外の人だって農耕してたし、
意見をはっきり言えないっていうのも、世界大戦時には違ったんだろうな。
ハッキリものを言ってバリバリと強行してたんだろう。
(ヨーロッパに来てから、世界大戦のことを考えさせられることが多い。)
だとしたらそれらの国民性はどこから形成されたんだろう。
それとも、世界大戦時にバリバリと強行していたのは、
一部の軍人さんの暴走と、例外的に片付けていいのかな。
それとも元来、日本は国を動かす一部のバリバリ型のトップと、
それに従う大勢の我慢型の民、という構図だったのかな。
(だとしたら、今の日本人の国民性は、大勢の我慢型の民の国民性を世襲している?)
でも、たぶん他の国でもこの構図は一緒だろうな。
じゃあ、日本人の国民性はどこから?
それを知ること、考えることが、
日本人を、自分を知ることにつながり、
今の日本をさらに良くする為のヒントへつながるんだろう。
日本では、『個』よりも『全体』を尊重する。
それができる国は世界の中でも本当に少ないと思う。
もちろん弊害もあると思うが、21世紀はそんな国民性を持った日本の時代が来るはずだと密かにワクワクしている。
環境問題など世界レベルの問題では、日本はもっと存在感を示せるはずだ。
話が逸れてしまったが、日本の『個』よりも『全体』を尊重する国民性は、農耕、村社会が影響してきたこと(手分けして作業する。収穫をみんなで分ける。などから)に間違いはないだろう。
それプラス、旅をしていて、『気候』が国民性に与える影響もとても大きいのだろうと思った。
北欧フィンランドは、水、緑が多く、冬は寒さが厳しい。
そんなフィンランド人の感性は、とても日本人の感性に近い気がした。
スペイン人のラテン系の陽気さは、
眩しい日差しと気持ち良い地中海に育まれたんだろう。
オーストラリア人の大らかさは、
カラッとして気持ち良い晴れの日が多く過ごしやすい気候から生まれたんだろう。
インド人のマイペースさや開き直ったしつこさや、たまに見せる憂いの表情は、
焼けるほどの猛暑が作ったんだろう。
同じように、日本の儚く厳しくも豊かな四季、自然への畏敬の念から、
日本人の忍耐、謙虚さ、礼儀正しさ、慎ましさ、奥ゆかしさなどが生まれて来たんだろう。
もちろん宗教や文化が国民性に与えてきた影響はとても大きいと思うが、
それらは哲学的な生き方だったり、物事の考え方だったり、理性の部分を作ってきていて、
その土台の感性を作っていたのは、やっぱり自然なんだろうなと思った。
違うかもしれないし、確証はないけれど、旅をしていてそんな風に感じた。
そう思ったら、夏じめじめと蒸し暑く、冬は大雪でとても寒くなる地元の気候が、
前よりちょっと好きになれた気がした。
イタリアの線路は白い。最初、雪かと思った。新潟の雪景色が懐かしい。