「下流志向
学ばない子どもたち 働かない若者たち」
という題名で、要するに何で学級崩壊が起きたり、ニートが増えたんだろうね?という疑問を、内田氏なりに検討したもの。
一言でいうと、
その原因は経済合理性が生活のすみずみまで行き渡ったことにあるんだということ。
つまり、
幼い頃から、お金さえあれば何でも手に入る、という法外な全能感を感じたことにある。
就学以前において、消費主体として、自己を確立しているのである。
それゆえに、学校の現場においても、労働の現場においても、
自分が[不快](黙って60分間授業を聞くという不快感)という対価を払う代わりに、一体どんな素晴らしいサービスを提供してくれるのか?と問う。
そこで、自分が[不快]という対価を支払うに値しないなと思うと、授業を聞いたり、働いたりすることをやめてしまうのである。
それは、合理的経済人としてはとにかく合理的な行動なのである。
子どもたちは、怠惰ゆえに授業を聞かないのではなく、
合理的経済人としてつとめて授業を聞かないようにしているのである。
(だって、怠惰な子だったら、うっかり先生の授業聞いちゃったよ!ってこともあっていいはずでしょ。)
これを、「等価交換」という。
それゆえに、「何のために勉強するの?」という問いが発せられるのである。
しかし、
等価交換というのは本来は、無時間モデルである。
つまり、消費者はお金を払ったらすぐに商品を手にできる(コンビニでもなんでも。)
それに対して、勉強とか労働というのは、支払った対価に対するリターンは、時間を経ってから、得るものである。
つまり、勉強は始めるときは何を勉強するのかを知らず(だから勉強するのだ)、終わったときにあ~そういうことを学んだのか、と分かるものである。
普通、消費者は今から買うものが何であるのか、それを知っている。
しかし、勉強の場合、不快を提供して買うものが何であるかを知らない(勉強を始めていない段階で、学ぶ内容を知っているというのはありえないのだ)。
消費者がこれから買う物の内容を知らないという点で、等価交換があてはまる前提がない。
だから、無時間モデルはあてはまらないはずなのだ。
そうなんだけど、等価交換を勉強にあてはめようとする。
不快を提供するんだから、それに見合った教育サービスを提供してよね、と。
それに見合った教育サービスですか?という問いが、「何のために勉強するんですか?」という問いにあたる。
なんでこういうことが起きるかというと、
お金を払うと何でも買えるという経験は、子どもにとったら、法外な全能感を味合う衝撃的な経験なのだ。
なんだか、お金を払うだけで、人よりも上に立ったような気になるのだ。
そんな衝撃的な経験をしたもんだから、教育現場でもそれをやってしまう。
確かに、合理的な考え方って、経済取引社会においては当然だけど、
勉強とか、労働とかにおいてあてはめると、なんか気持ち悪い。
他方で、これだけ経済合理性が進んだ今現在において、そうじゃない考え方ってなんだろうって思ってしまう。
将来の夢だって、将来経済的に安定する職業とか、役に立つもの、とかいう基準で選んでる。
(現に、医薬系大学の人気は年々あがっているらしい。)
そうやって来て、じゃあ何を基準にするんだっていうのは、よくわからないんだけどね。
少なくとも、学級崩壊やニートの問題は、そこに帰着するんじゃないかっていうこと、である。
なんで学級崩壊が起きるんだ?とか言ってる、ワイドショーの評論家を見るより、これを読んだほうが面白いに違いない。
学力低下に関心があれば、オススメ。
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