家人が入院している。

コロナ禍で今は週一度のライン面会が精一杯だ。
前回は、11月院長面談のさい、特別な配慮で会うことが許された。面会は厳重に制限され、その病院は院内が清浄に保たれ、いつでも綺麗に整えられている。
季節が感じられる装飾が常に施され、職員の方の気遣いや、温もりが感じられる場所なのだ。
ベテラン看護師の方も頼もしく優しい。
自然豊かで、朝には鹿が、時にはカモシカや猪も姿を見せるという。東京に居ながら東京ではないような。雨の後には山裾にもやがかかる。夕暮れには山々の稜線が染まる、そんな場所に病院はある。


ある時、その稜線を眩しそうに見ながら「尾根を狼の群れが走って行く」と家人は言った。わたしはその頃遠野物語の台本に四苦八苦していた時だったが、本人にはこの事を伝えていなかった。
台本ラストは、北(早池峰の尾根)に向かい狼の群れが疾走していくシーンを心に描いていた。
教えてもらいたい事、話したい事はたくさんあったのだが、疲れさせてはならないので話題にした事がなかった。
娘とその言葉を聞いたときに、はっと顔を見合せ、胸が熱くなった。

研究者である家人は、若い頃、柳田折口民俗学を引用したある論文を執筆し、その清書を手伝った事がある。当時は手書きであった。
〈イエ空間〉分析序説というタイトルの専門的な難しい内容ではあったが、何故か文章に澄んだ美しさを感じていた。
対立項として山の神 田の神を置き、さらに暮らしを司る神々の記述が続く。オカマサマ(カマド神) 荒神様 アエノコト儀礼 産霊神 そうした単語を初めて知った。その過程で、オシラサマ オクナイサマ 祖霊ということばの響自体にやさしさを感じたものだった。
私の中に長らく仕舞われていたその記憶。


遠野物語を音楽と語りで、森の音舎なら出来るんじゃない?と勧めて下さった方がおられる。
小泉八雲翻訳家、英文学の池田雅之先生。森の音舎小泉八雲シリーズの際には、たいへんお世話になり、貴重な資料や先生の文章をお送りいただきサポートを続けて下さった。その池田先生のとある講座で、柳田國男遠野物語が取り上げられたときに参加させていただいた事があった。
幼少期間~青年期~詩人から役人へ....と来歴に触れ、遠野物語がどのように誕生したのか、若き松岡國男のどういった生い立ちが、体験が、思考が、遠野物語に結びついていったのかを先生は説かれた。興味深い内容だったが、その時には「題材として難しく無理だと思います」とお答えした記憶がある。

小泉八雲は、すぐれた作家であり池田先生の名訳がある。そのまま、テキストになりうる。長編の場合(牡丹灯籠など)は、部分的に削ったが、池田先生のご了解とご教示を受け、慎重に行った覚えがある。
文体や、文章そのものを手直しした事は無い。
遠野物語は、研ぎ澄まされた硬質な文章だが、一話一話が短く起承転結がある『物語』の体をなすものではない。
不可思議な話が前後の脈絡なく119話収められた説話、逸話集なのだ。全て実話であるとされ、遠野の山々、原、風物を描きながら時に無惨な描写がある。そこここに死が無造作に置かれ、のどかな野良の風物詩ではないのは一読すればわかる。人も獣も、生きとし生けるものの命のせめぎあいが綴られていく。
全体を通して物語られるものとは....
これは....どう構成したら2時間の舞台に出来るのか全く見当がつかなかった。そのまま月日がたった。
遠野物語、遠野に関連した書物を手当たり次第読み込むうちに、徐々に頭の中に遠野神話~炉端の風景~里と異界~山人という道筋で記憶が集積されていき、漸く1年後に台本を書き始める事となった。


「尾根を狼の群れが走っていく」
きっと共振が起きたのだろう。
水源は目には見えないところで水を湛え、語らずとも地下水脈で、揺るぎなく繋がっている、その水の揺らぎが、波動となって時に干渉しあって。今はそう思える。
不思議な事だけれど、あの時温かな流れがこちらへ注がれているように思えた。
たまもの、ということばがふさわしいのだろうか。

狼とは....何かを表しているのだろうか。
そして、それは何処に向かおうとしているのか。


直に触れあえなくても、その事は重要ではなく、例えば、その人の大切な場所を綺麗に整える事でも物理的に離れたその人の無意識下の水脈を通じて伝わる、それからは思えるようになった。
家人が体調を崩している報せを病院から受けた時も、だからといって会うことは叶わずにいたが、黙々と家人の実家の手入れをし、庭の落ち葉を掃き、ほどなくすると回復の知らせがあった。

愛猫もお見舞い可でした(面会制限前)


来週、この病院から別病院へ移動しエコー検査を受けることになっている。病院まで自家用車で行き専用タクシーに乗り換え1時間、その病院に行く道すがら、何を話そうか、手足をマッサージしようか、生姜くず湯をポットに作っていこう、あるいは揺れが心地よくて眠ったらそのまま寝かせてあげよう、などと次々思い浮かんでくる。
何にせよ、会える1分1秒はかけがえのない時になるだろう。