先日は、母の一周忌でした。

 

この一年、あっという間だったとも言えるし、

起こったことや自分自身の変化を考えると、

それなりに長い時間だったとも思う。

濃い時間だったことは確かだと思います。

 

母は心臓が悪く、80代で心筋梗塞を起こし、

ステント(血管を広げるもの)を心臓に入れていました。

ここ何年かは、入退院の繰り返し。

塩分、水分、タンパク質の食事制限があり、少し油断すると心臓に水がたまって、

息苦しくなって入院していました。

主治医は母の年齢を考えると、食べたいものを我慢して暮らすよりも、

制限は緩やかにして好きなものを食べた方が・・・と言う考え。

この頃、食べることは、母の数少ない楽しみのひとつだったので、

私もなるべく美味しいものを食べて欲しいと、

苦心しながら母に食事を作っていました。

 

昨年の3月に母は95歳になりました。

お誕生日の食卓で、「100歳まで生きたい。」と言いだし、驚かされました。

「私よりよっぽど生きる意欲が強い。あと5年かぁ。私の方が持たなかったりして。」と、

母の強気に反比例して、私はちょっと弱気になったものです。

 

4月入ってすぐ、母はまた入院しました。

この時は主治医から、

「心臓の水がうまく抜けなければ、今日明日と言うことも、覚悟していてください。」

と言われました。

コロナの影響で、付き添いはできず、自宅でただただ回復を祈っていました。

2日後、主治医の先生から呼ばれ、

「心臓の水はとりあえず抜けたが、心臓の機能自体がもう弱っている。

今月もつかどうかといったところだ。

ご本人は退院を強く望んでいるし、病院はコロナで面会できない。

最期は自宅で、ご家族で過ごしてはどうか。」と。

 

母は兄と2人で暮らしていました。

私は実家に通う生活に戻りました。

 

母が家に戻ると、母方の親戚が会いに来てくれました。

母の妹夫婦、甥、姪。

お花や母の好物をもって来てくれました。

母は終始ご機嫌で、持ってきてくれた和菓子や、

来客にとったうなぎや天ぷらも、一緒になって食べていました。

一人前をぺろりと食べ、みんなを驚かせていました。

 

そうこうしている内に、母は主治医も驚くほどの回復をしていきました。

それまでつけていた酸素がいらないくらい。

あの食事をしていたら、当然悪化するだろう心臓も、

不思議なことに落ち着いていました。

 

母の生命力に驚かされました。

「人間最後は気力だ。」と言うけれど、

みんなに会って、「もっと生きたい!」と、

母は思ったのではないでしょうか。

私は母が長生きしてくれるのは、もちろん嬉しいけれど、

ゴールテープが急に目の前から消えた気がして、

これには戸惑いました。

 

結局母は8月に亡くなりました。

亡くなる前日、私はたまたま仕事が休みで、

もう話すことも食べることもできなくなった母に、スープを作りました。

ほんのひと口ですが、口にしてくれました。

それが母との最後の思い出。

良い思い出になりました。

 

実は、私は長年母との関係に、悩んでいました。

自分と母との境界がひけず、息苦しさを感じていました。

カウンセリングを受けたり、心理学系の本を読みあさったり、あがいて、もがいて。

ここ何年かでようやく、母との適度な距離感がつかめるようになっていました。

 

母が弱っていく中で、このせっかくつかんだ距離感が、

また曖昧になっていきました。

自分軸を保つことはできなかったぁ。

母は最後まで、頭がしっかりしていたので、

それがまた・・・。

 

誰に頼まれたわけでもないし、

終わりが近い事はわかっていし、

そうした自分を今は理解できるけど、

母に自動反応しているような感じは、しんどかったなぁ。

自分と同じ様に、母を最優先しない兄弟達にも、

不満をためたりしてね。

 

今の私が、あの頃の私に声をかけるとすると、

なんて言うのだろう?

「もう少し、肩の力抜いた方が良いよ。」かな?

 

あとは

 

    

「やっぱり,お母さんの事が、

大好きなのね。」 

かなぁ。
まあ、これは今だからそう言えるのだけどね。
当時はこんな事を考えるようになるとは

思ってもいなかったな。