故郷から東京へと戻る列車に乗り込んだ喜一郎は窓辺から今しがた自分が滞在していた農村を見下ろしていた。東京からここまで来るには新幹線で大きな駅まで行き、そこから鈍行列車を乗り継がなくてはならない程の田舎なので帰省は久々であったが、父母共に健康であり、家業を継いだ友人とも久しぶりの再会が出来たので喜一郎は大変満足していた。一本しかない路線に乗って列車はゆっくりと動き出す。周りは収穫を間近に控えた田園がひろがり、その間にぽつぽつと小さな家屋が身を寄せ合うかのように2,3並んでいる。トラクタに乗ったおじいさんが収穫をしている姿も見える。東京に住んでいるせいか、ここでの暮らしはひどくのんびりしたように感じられた。東京に帰ればまた忙しなく繰り返す毎日に戻ってしまうのかと喜一郎は陰鬱な気持ちになったが、この晴れ晴れとした空を見ているとそんなことはどうでも良くなった。白銀に輝く雲が10か20か、ゆっくりと低い空を飛び、この村を取り囲む大きな山々にいくつも濃緑の影を落としこんでいる。かと思えば、薄く引き延ばされた雲がとても高い所で、あたかも床に敷いた白いカーペットのように悠々と広がっている。その姿を見ると季節が夏から秋に移ろいでいるのがすぐ分かる。真夏の空に浮かぶ綿菓子のような大きな積乱雲と秋に広がる鱗雲の共演は喜一郎の心を和ませた。

 再び目線を落とすと、空の青とは打って変わって沢山の緑が喜一郎の目を賑わせた。収穫済みの田んぼは若草色のような明るい緑色を湛え、収穫前の稲穂は金色に輝いている。そして奥の山々は深緑の威厳に満ちている。近くを流れる小川には幾人かの少年が川遊びをしていて、同じように遊んでいた自分の姿が重なった。喜一郎はいよいよ東京に帰りたくなくなったが、数年前、親の反対を押し切り故郷を飛び出して都会を目指したのは他でも無く自分自身なのだ。今回のような短い期間の帰郷ならまだしも、今更戻れる訳もない。

 かたたん、かたたんと列車が揺れる度、首に掛けているネックレスが音を立てる。喜一郎には東京に婚約者がいた。今回の帰省は結婚の報告でもあったのだが、都会育ちの彼女は喜一郎の故郷に行きたくないと言った。こんな田舎には興味が無いらしい。そんな彼女と結婚したらこれからの人生で再び故郷で暮らす事は無くなってしまうだろう。自分はこれからもずっと灰色のビルが立ち並ぶ東京で暮らさなければならないのか。婚約者は喜一郎の上司の娘なので喜一郎は今まで彼女の言いなりだったが、このままだと一生後悔してしまう気がした。列車が揺れる。ネックレスも揺れる。彼女からのプレゼントは喜一郎を縛る銀の首輪だった…。

 窓を開け再び空を見上げると、上空に白い鳥が二羽、三羽と隊列飛行をしていた。彼らは空を駆け巡り、散り散りになったと思えばすぐにまた列を作り飛行を続けていた。そんな彼らの自由さが喜一郎の手を動かし、首輪を引きちぎって窓から投げ捨てさせた。喜一郎の顔から一切の憂いは消え去り、冴え冴えとした決意に変わっていた。

 大きな山々に囲まれた農村に一筋の風が吹く。その風は秋を告げに廻る白い鳥を乗せて、静かに彼らを運んでいった。




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さっそく次の日ジュンク堂へ足を運び、本のタイトルを見ながら文章を考えた。

「アナタガスキデス」…ストレートすぎるだろ。

「オチャドウデスカ?」…ャと?どうすんだ。

「カワイイデスネ」…これじゃただの変態だ。

「ハイケイ、オゲンキデスカ」…手紙の書き出しみたいになってる!何冊買う気だよ!

店内をうろうろしながら悩んだ結果、「デエトシマセンカ」にする事にした。

まあ可もなく不可もなく、と言ったところであろう。

文を決めた私は、頭文字が「デエトシマセンカ」になるように本を物色した。

「デキる男の交渉術~みんなこの本を読みました~」
「エクソシストの育て方 洗礼からクロスチョップまで」
「トトロのいる森百選」
「篠田麻里子 1st写真集」
「マイマイカブリの生態」
「先生、あのね ~教師と生徒のアブナイ放課後~」
「ンジャメナの正しい発音」
「関東大震災から学ぶ、正しい避難の仕方」

とりあえずいくつか物色してみたは良いものの、何冊か危ない本が混じっている事に気付いた。

一番、まさにアブナそうな「先生、あのね」を「センスを磨く秘孔入門」に変えた。

ちゃんと文字通りにレジを打たせるために、上から順番に本を乗せ、彼女がレジをしているところへ持って言った。

レジの上に並べるといつものように
「いらっしゃいませ」
と爽やかな笑顔を振りまいて本をレジに通していく。

8冊全部通した後、お金を支払い、カバーをしてもらい、袋に入れてもらったあと、運命の時間は訪れた。

「レシートのお返しです。」
と言われ、レシートを受け取とろうとした。

いやまてよと、この瞬間、生まれてから最速のスピードで頭が回転した。その時クルー時代に聞いた話の続きを思い出したのだ。

「でも結局、先輩はそのメッセージに気付かなかったらしい。」
「え、そうなんですか」

「だって考えても見ろよ、レシートなんかまじまじ見ないだろ?しかも縦読み。気付く奴なんかほとんどいねーって…」

いねーって…
いねーって…
いねーって…


レシートを受け取ろうと伸ばした手を止めようとしたが、一瞬遅かった。

もうすでにレシートは私の手の中に滑り込みあとはそれをポケットにいれるただそれだけの動きのみを待つ状態で私は制止した。

「あ…」

思わず声をあげ、彼女を一度見、そしてもう一度レシートに視線を落とした。

彼女も「え?」という顔をし、レシートを見た。

私は恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら
「レシート、いりましぇえん!」
と早口で噛みまくりながらレジを後にした。

レシートはレジの上に叩きつけて置いてきた。


また計画の練り直しか…と肩を落として、全く読みたくもない本8冊を抱えながらカメより遅いスピードでとぼとぼと歩き、店を出ようとしたその時、
「おきゃくさま!」
と後ろから声をかけられた。

さっきの店員さんだった。はぁはぁと少し息を乱せつつ、走ってきたからだろうか、顔を少し紅くしてこう言った。

「レシート、忘れてますよ。」
「え?」

そう言って受け取ったレシートを見ると、表は何の変哲もないさっきのレシートだが、裏を見ると数字が羅列していた。

「…連絡、待ってます。」

そう言って僕を見上げる顔ははにかんでいて、真っ赤に染め上がっていた。

私もそれが伝染したように顔が真っ赤になった。
「ど、どどどうして…」

自分で起こした事なのに、悪い事がばれてしまった子どものように気が動転して上手く喋れなかった。私はここがどこなのか、自分とは何者なのかもわからなかった。

店員さんはエプロンの裾をぎゅっと握りしめて

「だって…だって、変な本ばかりだったから。気になるじゃないですか。それでレシートでタイトルを見てたら…」

こんな事が現実に起こりうるとは、無神論者の私でさえ、神に感謝したくなった。

いや、ここで感謝しなくてはいけないのは先輩(26)だろうか。

結局あの話もこんな風にして発覚したのではないかと思う。あれから時間が過ぎ、晴れて彼女と正式なお付き合いが出来るようになったあと、彼女に言われた。


「いくらなんでもンジャメナは無いよ」
「そうか?」
「あと、センスを磨く秘孔入門ってなんだったの?あれが一番意味不明だった」
「あの時買った本、一度も読んでないからわからん」


いかがわしい官能小説の「先生あのね」にしなかったことに心の底から安堵した事を、彼女は知らない。

とまあ出会いは最悪だったわけだが、幸か不幸か、いやきっと不幸だろう、彼女は私の本当に好みの女性だった。

小柄な体も、肩まですとんと落ちた髪も、くりくりした瞳も。

私は自分でも愚かだと思ったが、なんとかして彼女と仲良くなれないだろうかと策を練った。

とりあえず何度もジュンク堂へ足を運び、彼女と何度も顔を合わせる事で『あ、あの時流星の絆買った変な人』という記憶を彼女の脳にとどめる努力をした。変な記憶でも、忘れられるよりマシだと思ったからだ。

その努力が功を奏して、店内で彼女と会うと、彼女は笑顔で僕に会釈してくれるようになった。

先に言っておくが、私はけして巷で噂されてるような悪の権化、女の敵、社会不適合者…のストーカーの類ではない。

彼女と私の関係はジュンク堂の店内だけで構成されているもので、彼女のバイト終わりに家まで尾けたりとか、アパートを見て「ああ一人暮しなんだな」と思ったりだとか、そういう事は一切していない。

具体的すぎる?これはすべて妄想である。

もしかしたら一戸建ての犬小屋付きの家に住んでるかもしれないし、その犬の名前はジョンと言うかもしれない。もしかしたら猫かもしれないし、何も飼ってないかもしれない。

とにかく、私は彼女のストーカーではないのだ。ご容赦あれ。

彼女に私の存在という全くもって無駄な情報を植え付ける事に成功し、狂喜乱舞した私は、次のステップに行動を移そうと思った。

そう、デートに誘うのである。

先程、「彼女と私の関係はジュンク堂の店内だけで構成されている」とのたもうたが、それは私が一方的に彼女を慕っている時の場合であり、彼女が僕の存在を認めたその瞬間から彼女と私の関係はジュンク堂からという束縛から解き放たれ、さらなる高みへと望む事が出来るのである。

要するにこれ以上仲良くなるにはジュンク堂じゃ役不足、という勝手な解釈なのだ。

ともあれ、中高大とほとんどオナゴと話した事が無い私は(別段小学生の時分もオナゴと話した事はなかったが)、この次どうすればいいか全く見当もつかなかった。

三日三晩悩んだ挙句、ソビエトの地ではオオカミが遠吠えをあげているだろう頃、私は急に妙案を思い付いた。というより、某コンビニでクルーとして働いていた頃、バイト先の先輩(26)に教わった事を思い出した。


「たまに籠いっぱいに物入れてくる客がいるだろ、そういう時、俺は思わず期待しちゃうんだよ。」

鼻を鳴らしながら先輩は言った。

「へえ、なんでですか?」

「昔な、俺もまだ新人だった頃、先輩で超美人な人がいたんだよ。お客さんの中にはその先輩のレジにしか並ばないのもいたくらいにな。その先輩が、ある時、いつも通りレジを打っているとある事に気付いたんだ。なんだと思う?」

「わかりませんよ。」

ふふんと満足気に俺を一瞥した後、遠い昔を思い出すように左斜め上方を見ながら先輩は言った。

「レシートだよ。」
「レシート?」

「レシートのな、頭文字だけを縦読みにすると、文章ができるんだ。その時は『アナタガスキデス』になったらしい。」
私は思わず嘆息して、心の底から睥睨した。

「あほらし…」

「お前にはロマンが無いのか!ともかく、沢山物を買いに来た奴がいたら、縦読みを…」


これだ、これしかない。私はこの妙案をすぐに行動に移すことにした。

この話はまだ続きがあったような気がしたが、思いだせない。

しかしどうでもよい。一番大切な事を思い出したのだから。

ありがとう先輩(26)。あの頃から就活すると息巻いてましたが、今でも時折「いらっしゃいませこんにちはー」が聞こえるのが嬉しくもあり悲しくもあります。

頑張りましょう、お互いに。

ジュンク堂。今日もまた、ここへ来てしまった。

大して買いたい本も無いくせにこの一ヶ月、足繁く通うようになってしまった。それもこれもあの娘のせいだ。

今まさにレジ番をしているあの女の子―――


 初めは不純な動機など一つも無く、ただ好きな作家の文庫本が出たというからジュンク堂に足を踏み入れたのだ。

この新しく出来たばかりのジュンク堂はやたらめったら広く、文庫本コーナーに辿り着くのも苦労した。

しかし一番の苦労はここからで、様々な出版社の様々な著者の本がずらりと並び、あたかも日本中の文庫本が勢ぞろいしました、と言わんばかりの品揃えである。

その中からたった一つの本を見つける事は遠いアフリカ、ないし南米の地で宝石を掘り当てることと同義であった。言いすぎか。

ともかく必死に探してもどうにも見つける事が出来なかったので、近くにいた店員さんに声をかけたのだ。

「あのー、東野圭吾の『流星の絆』を探してるんですけど…」
「流星の絆ですか?こちらです。」

店員さんについて行くと、文庫本コーナーを通り抜け、歴史、化学、参考書コーナーも通り過ぎ、入口まで戻ってきた。

「こちらですねー。」

と示された場所には店に入ると同時に目に着くぐらい大きな看板が設置されており、「『流星の絆』待望の文庫化!」とまで銘打たれていた。

私は思わずぽけーっとして呟いた。
「俺の目は節穴か…」

それを聞いた店員さんはきょとんとして、その後堪え切れない笑みをこぼしながら

「どんまいです」

と言って失礼しますと頭をぺこりと下げて別のコーナーへ消えていった。

私は店の入り口に堂々と掲げられた看板を見落とした事よりも、心の中の呟きを店員さんに聞かれた事の方が恥ずかしく、もう今すぐにでもここから抜け出したいと思った。

でも本来の目的を達成しなければ家には帰れない。

深呼吸して一度心を落ち着かせ、素早く本を手に取り空いているレジに転がり込んだ。

お金を置き、商品をもらって立ち去ろうとしたが、声をかけられた。

「あ、お客様」
「あえ?」

気の抜けた炭酸のような返事をしながら、初めてレジを打っている店員さんの顔を見た。

それまで俯きがちだったので顔を見てなかったのだ。それは紛う事無くさっきの店員さんだった。

彼女は明らかに不自然な笑みをたたえながら聞いた。

「レ、レシートはご利用になりますか?」
「結構です!」

私はその場からいち早く抜け出したかった。競歩並に小走りで店を出た。彼女前で沢山恥をかいた事も、彼女の容姿がどストライクだったことも全部まとめてコンクリート詰めにして大阪湾に沈めたかった。

5少年は丘を上がった後、昨日と同じく森に入って行った。私は正直「また森か…」とうんざりしたが、彼を捕まえない限りは、私は帰れないのだろうと感じていたので彼を追いかけざるを得なかった。そうして森に入り、背の小さい少年を追いかけていると、進行方向から、かーんかーんと何か金属音が聞こえてきた。そして音を聞きながら走っていると森を抜け、いきなり都市に景色ががらりと変わった。村を出た時は朝だったはずなのに空はもう真っ暗で電灯の明かりだけが道を照らしていた。もう何が起きても驚かない、私は少年を追いかけることだけに専念した。レンガの床は走ると小気味のよい音をたてた。どうやら工業都市らしいこの街は、暗くなっても職人が作業していて、常にどこからか物を叩く音やらよくわからない音が聴こえてきた。街をかけていると正面にトンネルが迫ってきた。少年がトンネルに入ると私も追いかけトンネルに入った。トンネルの中で私は様々な景色がコロコロと、変わっていくのを見た。田舎の風景や高層ビルの立ち並ぶ都市、海や川、宇宙や大きく開けた道。それら全ての景色に私は見覚えがあった。記憶がフラッシュバックしていく。でもどこで見た景色かどうかは思い出せなかった。でもそれらの景色が私に何か訴えていることは分かった。それから沢山の景色が私の周りを駆け巡り、夢中でその景色の中を駆けていくと私はふと立ち止まって、気付いた。

「あれ、ここは…先斗町?」

そこは紛れもなく京都阪急河原町から徒歩数分で辿り着く、先斗町であった。大通りを見回すと、そこは確かに河原町で、脇には鴨川が穏やかに、のっそりと流れていた。
再び先斗町に目をやると、そこには少年の姿はなく、かわりに一人、黒髪の乙女が立っていた。その美しい黒い髪は薄暗い先斗町の中でも一際輝いていて、思わず私はその髪に見とれてしまっていた。私はもう少年のことなんてどうでもよくなって、その乙女に話しかけようと思った。私が近付くと乙女も私に気付いて、こちらを見た。私がお辞儀すると、乙女はぱぁっと笑顔になって小走りでこちらに近づいてきた。

「先輩!久しぶりですねえ!」

と彼女は自慢の黒髪をふわふわさせながら笑顔で話しかけてきた。しかし生憎だが私はこのように美しい乙女を知らなかった。もし知っていたならすぐに恋に落ちていただろう。それほど美しい乙女を私が忘れるはずないのだから。
だから私は不思議に思って

「はて、僕は君に会ったことがあったかな?」

と紳士よろしく尋ねた。すると彼女は不思議そうに

「何言ってるんですか?大学でよく会うじゃないですか!この前は先斗町や古本市でもお世話になりました!その節はあ…」

「いやちょっと待った。君は誰かと間違えてるんじゃないかい?」

「先輩こそ何言ってんですか。頭でも打ったんですか?」

「えー、いやぁ、ううん…どうなんだろう。」

それでも私は思い出せなかった。しかし黒髪の乙女が私を先輩と慕ってくれるのは悪くない。このまま先輩とやらを演じて私がそのまま乙女を恋人に…。
などという姑息な考えを見抜いたのか見抜いてないのか、乙女は怪訝な顔をしながら

「…どうしたんですか?先輩。」
と聞いてきたので軽く咳払いをしてから、

「いや、なんでもないよ。」

と何事もないように答えた。


「そもそも先輩はこんなところで何をしているんですか?」
てくてくと先斗町界隈を散策していると乙女がぽつりと聞いてきた。私はどうしようかと思ったが本当のことを話したところでどうにもならないことを知っているのでうまくはぐらかすことにした。上手くはぐらかせたかどうかは微妙だが。

「へぇ、そうですか」
と元々あまり興味もなかったのか、私の下手なはぐらかしにも納得したようだった。

先斗町は京都の中でも独特の雰囲気を街全体から醸し出していて、道沿いに軒を連ねる店はいかにも高級店、というか一見さんお断り、みたいな感じで、歩いている私はすこし不安だった。私はそもそも先斗町にはあまり来ないのだ。
そんな私と乙女がどこを目指してるかというと、つい先刻乙女が
「先輩もしかして暇ですか?ならちょっと付き合ってくれません?」
と私を誘ったから彼女に付き合っているのだ。当然私には少年を探すという用事があったわけだが、黒髪の乙女のお誘いとあれば断われはしない。すぐに了承した。
そして先斗町を乙女と歩いて行くうち、乙女は細い裏路地の方へ曲がった。あまりに細いので二人並んで歩くことができず、したがって乙女が前を、私が後ろを歩くことになった。
裏路地はそれこそ別世界に迷いこんだような錯覚を覚えさせられるほど独特な雰囲気を持っていた。暗い道を照らすのは小さな小さな豆電球一つだった。数メートル先はもう真っ暗な闇でいっぱいだった。暗闇と乙女の漆黒の髪はうまいぐあいに溶けあって、乙女の姿は見えなくなっていった。私は不安になって乙女の名を呼ぼうとしたが、その時に気付いたのだが、私は乙女の名前を知らなかった。当然だ、さっき初めて会ったのだから。
私は走って乙女を追いかけた。しかしついに乙女の姿を認めることはできなかった。私はまた一人になってしまった。一人ぽつぽつと歩いていると視界の先に顎が異常に長く、じんべえを着た男が立っていた。男は私を見るとニタァっと笑って、

「やあ、君が。そうかそうか。久しぶりだね。」
と話しかけてきた。私はもちろんこんな男は知らない。こんな強烈な顔をしてる男なら一度見たら忘れるわけがない。

「あの…」

「あぁ、いい、いいよ喋らなくて。わかってる。私は仙人だからね。なんでも知っている。」

この人は完全に電波だ…。本気でそう思った。でもなんとなくこの男が冗談で言ってるようにも聞こえなかったし見えなかった。なぜだか自信に満ち溢れていたからだ。

「じゃあ…僕はどこへ行ったら良いのですか?」

「君はこの道を真っ直ぐ行けばいい。」

「なるほど…」

仕方ないのでお辞儀をして言われた通りその道を真っ直ぐ道なりに進んでいくと路地の電球が大きく瞬いて、周囲を明るく照らし出した。振り返るともうその男の姿はなかった。私は道に1冊の本が落ちていることに気がついた。その本を拾ってみると、カバーはボロボロで、でも文字はちゃんと読めた。そして気付いた。私はこの本を知っている。この本は――――

「エリーゼと夢の旅人」

後ろで声がしてハッと振り返ると、少年が立っていた。少年は俯いていたから、やはり顔は見えなかった。

「やっと思い出した?」

思い出した。少年を追いかけて最初に見た風景、金髪の女性、ジャックにシチューにパンは、全て、この本に書かれている、お話だった。父さんが好きだったおとぎ話。エリーゼが動物たちと花を摘んでいると突然旅人があらわれて…。そんな話だった。僕が初めて読んだ本でもあった。父さんにはじめてもらった本で、父さんも僕もこのお話が大好きだった。

「すぐに気がつくと思っていたよ。」

僕は何も言えなかった。言われてみれば、あの職人たちの街も田舎の風景や高層ビルの立ち並ぶ都市、海や川、宇宙や大きく開けた道も全て見覚えがあったのも当たり前だった。あれは幼い頃から今に至るまで僕が読んだ本のお話だったからだ。僕が読んだお話の風景を想像したその通りの形が今まで見えていたんだ。それなのに気がつかなかった。

「君は…やはり、古本市の神様、なのですか?」

「僕は…僕は、君だよ。かみさまなんかじゃない。君は、覚えてる?君のお父さんが最後になんて言ったか」

「……」

「君のお父さんは、君に最後にこう言ったんだ。」

「『いいか、紘希。よく聞け。お父さんは、お前が本を好きになってくれて本当に嬉しかった。お父さんが死んでも、本を愛することを忘れてはいけないよ。むしろお父さんの分まで、もっともっと本を読むんだ。』」

「もう一度聞くよ?君は、どうして本が嫌いなのに古本市に来たの?」

僕は何も言えなかった。質問の答えは持ち合わせていなかったし、父さんとの約束を守ることもできなかった。それどころか僕は自分勝手な感傷を本にぶつけていた。私はずっと黙っていた。すると少年はふっと笑って

「わかるよ。でも、それが正しいことじゃなかった、ってこともわかるよね?」

僕は大きく何度もうなずいた。今度は僕が俯く番だった。大きな涙の塊がぼろぼろと地面に落ちては地面に消えていった。

「さあ、帰ろう。友達が待ってるよ。」

少年はそう言うとどこかへ歩いて行った。僕は立ち尽くしたままでいた。すると急に視界が歪んで暗闇にフェードアウトしていった。意識が飛ぶ直前、

「もうここに来るんじゃないよ。」
と後ろから声がした気がした。



終章
目を覚ますと私はセミの輪唱を聞きながら大きな木の下のベンチに座っていた。周りには沢山のテントが軒を連ね、沢山の人が蠢いていた。ぼーっとそれらを見ていると急に冷たい感触が私の頬を撫でた。

「ひぁっ!」

と叫ぶと二階堂がニヤニヤしながらサイダーをくれた。

「お前、話しかけてもぜーんぜん反応ねぇから死んだんじゃないかと思ってさ、サイダーを肌に当てたら帰ってくるんじゃねえかなと。」

「おかげで違う所に行くところだったよ。まったくロクなことしねぇ」

もらったサイダーをごくごくと飲んでそんなしょうもない話をした。

「結局、神様には会えなかったよ。」

「そうか…。ま、精進が足りねえってことだろ」

「何だそれ」

ははは、と二人で笑いあうと、さっきまで僕がいたセカイは嘘なんじゃないかと思うほど、今自分がいる世界は現実だった。でも、嘘ではなかったと思う。その証拠に、僕は、覚えている。少年のことも父さんの言葉も。自ら忘れようとしていたことも。でもそれじゃ駄目なんだよな。本当は僕は、本が大好きなのだから。


「なあ、二階堂?」

だから、僕は、

「なんだよ?」

「ちょっと付き合ってくれねえか?買いたい本が沢山あるんだ。」

これまで読んだ本も、これから読みたい本も、全部古本市で買い揃えてやろうと思った。
それこそ、古本市の神様の思う壺なのかもしれないな。

「くっ」

後ろで少年の笑い声が聞こえた気がしたけど、気にしない。

古本市は、まだ、始まったばかりだ。

「紘希は本当に本が好きなんだな。」
そういって父は僕の頭を撫でた。僕は笑顔で頷いた――――

小さい頃、僕の父は病気で死んだ。癌だった。
物心ついたときから父は田舎の病院に入院していたので、父とどこかへでかけたりキャッチボールをしたりという思い出はない。今も思い出せる父の記憶は、病院のベッドの上で本を読む姿だった。そんな父の影響で、幼いころ僕は本を読むのが大好きだったのだが、
他にも理由は二つある。一つは父が読んだ本を僕が読むことで、父と沢山話ができたことだ。父も共通の話題を僕と共有できることは嬉しかったらしい。もう一つは病状が悪化して辛そうな顔をしている父が僕を見つけると、その顔が少しほころび、
「紘希、あの本読んできたか?」
と嬉しそうに語りかけたこと。幼い頃の僕は、少しでも父の気持ちを良くさせようと本を読んだものだった。
そんな父はとてもよく病気と闘った。医者も驚くほどの努力と、忍耐で闘った。でも、病魔についに負けてしまった。父が死んでからは、それまでの反発があったのか無かったのかはわからないが、ぱったりと本を読まなくなった。本を読むと父の姿が浮かぶからだ。脳裏にこびりついた父の弱々しい姿を僕は出来るだけ思い出したくなかった。
だからできれば、古本市にも行きたくなかった。でも父が死んでもう十年以上経った。だからここ数年は本を読むことにも抵抗が無くなってきたし、友達のお願いをそんな過去のセンチメンタルで拒否することはできなかった。
父の姿が再び瞼の裏に浮かんできた。笑顔の父が小さい僕に何か言っている。ああ、でも聞こえない。何を言ってるのか全然聞こえない。なんて言ってるの?父さん――――

「父さん…」

目を覚ますと私はベッドの上にいた。上半身を上げると頭に鈍痛が響いた。ああそうだ、私は殴られたんだった。

「あ、起きられましたか」

声を掛けられ、そちらを見ると先刻の女性が椅子にすわってこちらを見ていた。白いタオルを私のおでこに貼ると、

「まだ寝ててください。今立つと頭がくらくらしますよ」

と再び私をベッドに横たわらせた。
天井を見るとオレンジ色に柔らかく光る電球が部屋を優しく包んでいた。私はおでこのタオルに触ろうとして目元が濡れているのに気がついた。その雫をさっと拭うと女性に向かって

「ここはどこですか?」

と初めて会った時と同じ質問をぶつけた。彼女はふっと笑って

「あなたは自分の居場所が気になって仕方がないようね」

と言った。でもその後すぐに顔を赤くして、

「ごめんなさい。当然よね、いきなり後ろから襲われて連れてこられたようなものですものね。ここは私の家。ロトの村よ、覚えてる?」

「そう言えば、ノースイェストエーカーとかロトの村とか色々聞いたな。その直後に殴られたんだったか。」

「そう。本当にごめんなさい。ジャックが妙な勘違いをしてしまって…」

「いえ、構いませんよ。それで、私の容疑は晴れたのですか?」
「ええ、もちろん。」

女性は笑顔で答えた。彼女は本当に申し訳ないと思ってくれて、だから見ず知らずの私を自分の家まで連れてきてくれたのだろう。彼女の心遣いは私の心にも響いた。

私がどれだけ気を失っていたのかはわからないが、体内時計で大体の時間は把握できた。つまり、腹が減っていた。
彼女もきっとわかっていたのだろう、目が合うとにっこり笑って部屋を出て行った。そしてまた入ってきた時には木のお盆にクリームシチューとパンを乗せて持ってきてくれた。シチューには大きなニンジンとジャガイモがごろごろしていて、肉は羊のものを使っているらしく、濃厚でとろとろだった。こんがり焼けたフランスパンはシチューの味を引き立てた。私は満足いくまで食事を堪能した後で、彼女に感謝した。

「やっと落ち着けました。本当にありがとう」

「お口に合ったみたいでよかったわ。もう、頭、痛くない?」

「ああ、もう大丈夫。」

「よかった。ねえ、よければ旅のお話を聞かせてもらえないかしら?」

私は日本のことを話した。特に京都のことを多く話した。京都には美しい自然がたくさんあること。鴨川にはカップルが多くいること。神様を祀る神社がたくさんあること。京都の自分が好きな景色のこと―――

「京都、とは素晴らしい都なのね。私も一度行ってみたいわ。」

「機会があれば来てください。いつでも歓迎しますよ。まぁ…僕自身、帰れるかどうかわからないのですが…」

「まあ、そんなにここから遠いの?」

「ええ、まあ…。でも、僕は帰らなくてはいけない。だから、明日にはこの村を発ちます。」

「明日?もっとゆっくりしてもいいのに…」

「いえ、急いでますから。でも、ありがとう。本当に感謝しています。」

「いいのよ。」

それから私達は、色々な事を話した。家族のこと、友人のこと、好きな事、嫌いな事…幼いころに父が死んだことも話した。彼女は私の話をちゃんと聞いて、理解してくれた。私はもう、それだけで嬉しくなった。

気付くと、もう外は白んでいて、空を飛ぶ鳥が朝の訪れを告げていた。夢中で話していた私達はそれほど長く話していたとは気付かなかった。

そしていくらかして、旅の準備を終えると――と言っても体一つ以外なにも持ち合わせてはいなかったのだが――彼女に別れを告げた。
別れる時、彼女はとても残念そうに、最後まで「もう少しいればいいのに…」とぶつぶつ言っていたが「私には行かねばならぬ所があるのですよ…」と私は無駄に紳士を気取った。
今思えば大変もったいないことをしたのではないかと思う。

村を離れ、一人とぼとぼと「どこに行けばよいのだろうか…」といきなり村を離れたことを後悔し始めたその時、丘の上に少年が立っているのが見えた。
間違いなくそれはあの時の少年だった。少年は私をじっと上から見下ろしている。いくらか目線を交差させた後、少年は走っていった。私は、はっとして少年を追いかけた。

少年を追いかけるのはいいが、その少年の姿を見失っては元も子もない。
私は探す目標を完全にロストしてしまい、また一人になってしまった。

俯きながら森の中をとぼとぼと歩いていると、急に視界が開けてきた。
森が終わり、車道に出たのだろうと思っていたが、どうも違う。
というより、どう見ても違う。

開けた森のその先には、薄い茶色のワンピースに身を包んだ女性と、彼女を取り巻く動物たちがいて、その近くに小川が流れていた。彼女が歌うと動物たちは嬉しそうに踊り始めた。彼女が野花を摘んでリングをつくり、うさぎの頭に乗せてやると、うさぎは嬉しそうに彼女のまわりをぴょこぴょこ跳ねた。まるでおとぎの国の世界のようだった。

「…な、なんだこれ…」

私は愕然とした。今日何回目の愕然だろうか。

ぽかんと口を開けながら、彼女を見た。彼女の美しい白金の髪は今まで見たどの女性の髪よりも美しく輝き、彼女の横顔は幼さを残しつつも、女性の妖艶さも兼ね備えた美貌を讃えていた。

私が立ち尽くしたまま彼女に見とれていると、彼女は私の視線に気づいたのだろうか、こちらの方に目をやった。
私の姿を見た彼女は一瞬とてもびっくりして、しかしその後すぐにっこりと笑い、立ちあがってこちらの方にやってきた。

焦った私はオロオロとしていたが、目線は彼女から外すことができず、結局彼女がやってくるまで、やはりその場に立ちつくしていた。

彼女は目と鼻の先まで近づくと、にっこり笑って

「こんにちは。あなたはどこからやってきたのかしら?」

と聞いた。私はただ、

「あ、あう、あ、あ、あの」

と挙動不審にどもることしか出来なかった。すると彼女はくすっと笑って

「落ち着いて。深呼吸、深呼吸」

すーはーすーはーと目の前で胸を上下させた。私も同じように深呼吸してみる。すーはーすーはー。

深呼吸をしたことで少し落ち着きを取り戻した私は、

「ここは、一体どこなんです?」

と彼女に聞いた。すると彼女は後ろを振り向きながら

「ここは、ノース・イェストエーカーの森の中にあるデールの丘。この丘を川沿いに下るとロトの村に着きます。あなたはどこ出身の方かしら?見たところこの辺の方ではないようだけれど…」
と不思議そうにこちらを窺う彼女を横目に私は

「ノース・・・イェストエーカー?」
と一人ごちた。

日本にはカタカナの地名があったのか。初めて知った。
北の端や南の端にはカタカナ由来の土地があるのは知っていたけれど、本州の、かつての日本の中心だった場所にノース・イェストエーカーなる森が存在していたとは。私の知識不足であろう。

…と納得できるはずもなかった。

「ちょ、ちょっと待ってください。ここは京都の下鴨ですよね?」

「キョウトノシモガモ?キョウトノシモガモってなんですか?」

私は完全に青ざめてしまった。ここは一体どこなのだろう。私は狂ってしまったのだろうか、それとも長い間眠り続けて、今、目覚めたのだろうか…。確かに「京都に狂人在り」と言われればそれはまさしく私のことなのだろうが、生憎、私は本当に頭がイカれている
類の人間ではない。つまりだ、今この現象はこの一言で落ち着くことができる。

・・・これは夢だ。

私は神社で少年を追いかけていたはずだがいつの間にか眠ってしまったのだ。そして今私は夢を見ているのだ。ノース・イェストエーカーの森に迷い込む夢を。きっとそうに違いない。そうと決まれば私がすべきことは一つしかない。この、意識のある夢を堪能してやろう。

「いえ、私の勘違いだったようです。すみません、お嬢さん」

先刻とはうってかわって、私はあたかも英国紳士の如く爽やかな笑顔を伴って金髪の乙女に謝罪した。

「私は旅人なのです。海から海、山から山を体一つで旅し続け、今ちょうどこの森にやってきたところなのですよ。」

よくもまあこんな嘘八百がすらすらと口から出るものである。

「まぁ、旅人さんなのね。よければ村へ降りて、体を休めてください。旅のお話などお聞きしたいですわ。」

金髪の乙女は目をきらきらさせてこちらを見ている。上目遣いが妙に艶めかしい。やめてください、お嬢さん。私はあなたの気持ちに応えることができないのです。なぜなら私は旅人だから…

と妙に体をくねくねさせて身悶えていると、突然視界が真っ暗になった。
そして体が浮いたかと思うと上下左右にゆすぶられた。
どうやら大きな袋に入れられたらしい。
袋越しから会話が聞こえてきた。

「ジャック、どうしたの!?この方は旅人なのよ!?」

どうやら私をこの袋に入れた本人がジャックらしい。

「いーや、こいつは旅人なんかじゃない。きっとババルの山から来た魔法使いに違いない。だって考えても見ろ、こんな服装、見た事ねえ。手ぶらだしよ。旅人がこんなふざけた格好で旅ができるわけねえだろ。こいつは村の広場に連れてって、縛り上げる。」

不思議な事に、私はババルの山なるところから来た魔法使いらしい。確かにこんな恰好で旅人はおかしかったかもしれないが、突然背後から忍び寄り袋をかぶせて村に誘拐するなんて紳士がすべきことではない。しかし私は慌てない。なぜって、これが夢だとわかっているから。私はこれから颯爽と袋から抜け出し、金髪の乙女と甘いランデブーに走り出すのだ。夢の中の私は無敵であることは幼小時代からの経験で立証済みである。

「おいこらっ、さっさと私をここから出しなさい!」

バタバタと両手両足を動かすと、袋越しから

「うるせぇっ!」

と怒鳴られ、その数瞬後、頭に衝撃が走ったかと思うと私の意識は急速にフェードアウトしていった。

「ジャック、乱暴はよして!」

「だってしょうがねえだろ、こいつが暴れるんだから。」

薄れゆく意識の中私は…

これが夢ではないことを、悟る。

読者諸賢は、「古本市の神」というものを知っているだろうか。私は知らない。
この隣にいる彼、二階堂が目を輝かせながら
「古本市にはなあ、神様がいるんだぜ」
なんて残念なことを私に言うのだ。嗚呼、御歳二十の男が言う台詞ではない。

「古本市の神様はな、」

「聞いてない」

「まあそう言うなって。古本市の神様は、古本を買いに来た人達に、その人に必要な本を探して、届けてくれるんだ。ばれないように、こっそりとね。」

私はニヤリと笑って、
「ほう。だとしたら俺に必要な本なぞないから意味ないな。」
と言うと二階堂は真面目な顔をして、
「違うって。お前に必要な本は神様が決めるんだ。だからお前が偶然手に取ったその本こそ、今お前に必要な本なんだぜ」

と自慢げに言った。
とんだオカルトである。どうせ古本屋のじじいが本を売るために作った世迷言だろう。本を手に取ったいたいけな黒髪の乙女に
「その本こそ古本市の神様が選びなさった本に違いない!さあ買いなされ!買いなされ!」
と迫ったに違いない。とんだじじいである。
純粋な乙女はじじいの言葉を信じてその本を買っていったに違いない。
ああ可哀想な乙女。私が慰めてあげようか。

「おい小田、どうした」

ハッとして二階堂の方を見ると、少し怪訝な顔をしてこちらを見ていた。
ああ、どうやら妄想の海にダイブしていたらしい。

「で、そのカミサマがどうしたって?」

「もう、信じてないなコイツ。俺はな、今日、神様に会うんだ。」

…とうとう頭がおかしくなったらしい。こんな暑い中歩き回るからだ。さあ、私もこうならないうちにさっさと帰ろう。帰ってクーラーの効いた部屋でサイダーでも飲もう。

来た道を引き返そうとして腕を掴まれた。なんだね君ィ。私は帰るのだよ。

「帰んなよ!信じてくれよ、俺達親友だろ?」

こんな時に友達のランクを上げる奴に、ロクな人間はいない。

「お前神様がそこらへんに転がってるわけないだろ?な、冷静になろうぜ?」

私は精一杯の優しさを持ってして、彼を引き戻そうとした。しかし二階堂はこちらの世界に帰ってくるのを拒否したのだ。

「いーや、神様は絶対いる。きっとそこここに、姿を変えて俺達を見てくださってるに違いない。俺は探すぞ。神様を。もちろんお前もだよ?いいな、小田。」

私は昼飯を奢ってもらう権利を放棄して今すぐ家に帰りたかったが、こいつを一人にしておくと何をしでかすかわかったもんじゃない。
溢れんばかりの友への愛をこんなところに使うことにし、私は愚かにも一緒に神様とやらを探すことにした。いや、探すふりをすることにした。断じて昼飯の為ではない。念のため。
本当に私は優しい。自分でもそう思う。

二手に分かれた私達は、1時間後に大きな木の下のベンチで待ち合わせることにし、古本市の散策に出た。

目に付いたテントを覗くと、何百冊もの本がぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。あまりにも本が多いので私は戸惑いを隠しきれなかったが、その中に私でも知っているタイトルの本があったのでちょっとホっとしてその本を手に取った。

懐かしいその本は、黒髪の乙女が夜の先斗町を駆け巡る青春ファンタジー小説で、黒髪の乙女に目が無い私は、本嫌いにも関わらず、つい買ってしまったのを覚えている。もう1年も前のことだが、今でも内容を覚えている。しかしいつの間にか、部屋にあったその本は忽然と姿を消したのだ。探し回ったが、結局見つけることは出来なかった。

「森山富彦かい。それだと250円だね」

テントの奥でふいに声がした。声のした方を見るとテントの奥、仄暗いところに老婆が座っていた。どうやら店主らしい。

「いや、別にこれを買う気は…」

「いーや、これはきっと古本市の神様からお前さんへの贈り物に違いない。あんた、それ買った方がいいよ。」

やはり私の考えは正しかったようだ。古本市の神様なぞ存在しない。あるのは資本主義にまみれた守銭奴の姑息な悪知恵だけだ。

私はため息をつき、本を戻して店を出た。

店を出るとき、後ろから
「後悔するよー」

という言葉が聞こえてきたような気がするがそんなことどうでもよかった。

それから数カ所のテントを覗いたがこれと言って有益そうな本はなく、待ち合わせの時間にはまだ早いがベンチに行くことにした。
ベンチの近くにはサイダー屋が瓶のサイダーを売っていて、この暑さに喉がカラカラだった私はサイダー屋の思惑通りサイダーを一本買ってしまった。

泡が底から湧き出る透明な液体は、喉を颯爽と通過すると私の体を灼熱の業火から救い出してくれた。
まるで天国から湧き出た水のようにすら思った。

天国の水を一気飲みしたのち、私はベンチに座りながらセミの声を聞いた。
目をつぶるとセミの声は一層大きくなって、わたしを責め立てた。セミの声を聞くとどうにも体が熱くなってしまうのは私だけだろうか。

どれほど目をつぶっていたのだろう。
妄想の世界に逃げ込んでも暑さだけは忘れることができはしない。
しかし、気付けばセミの声は聞こえなくなっていた。それどころか人々の喧騒も、車の音も、なにもかも聞こえなくなっていた。

私の耳はとうとうおかしくなったのかと、目を開けた私は愕然とした。
空はもう夕暮れ時で、青から赤、紫、へと変わり、群青の色となっていた。

神社に続く道にあったたくさんのテントはすっかり姿を消していて、薄暗い森の歩道には何者の息遣いも感じられず、この世界には私ただ一人なのではないかと思ってしまうほど静かであった。

さっきまでの古本市はどこへいってしまったのだ。テントもサイダー屋も沢山の人も、二階堂もいない。セミの声も聞こえない。なにもない。

すっかり動転してしまったわたしはキョロキョロと周りを見渡してみたが有益なものはなにも見つからなかった。

携帯を開くと圏外であった。しかしディスプレイは確かに今日の日付を示していた。

とりあえず帰ろう。帰って落ち着いてから二階堂に謝ろう。

そうおもって踵を返し、歩道の出口へ向かって歩いていると、

「ねえ」

と背後から声をかけられた。突然話しかけられた私は吃驚したが、人がいた安心感がその直後に私を包みこんだ。
振り向くとさっきまで私が座っていた所に少年が立っていた。

少年は目深に帽子をかぶり、顔がよく見えなかったが、口元だけ見ると笑っているように見えた。

「ねえ」

もう一度声をかけられた。私は精一杯の大人の余裕を見せて、かつカジュアルに話すことを心がけて、

「なんだい?君も、一人なのかい?実は僕も」

「ねえ。どうして?」

私の話を遮って少年は語りかけてくる。私のカジュアルトークは一瞬で幕を下ろした。私は正直むっとしたが相手は子供なので受け流すことにした。

「どうして、とは?なにがどうしてなのかい?」

「どうして、きみは本が嫌いなのにここに来たの?」

「そりゃ昼飯につられて・・・って」

少年は私の話を最後まで聞く前にぷいっとそっぽを向いて走り去っていった。
私は不思議に思ったがもういいや、家に帰ろう、思いまた出口へ向かおうとしたそのとき、ふと違和感を覚えた。

「どうして俺が本嫌いだって知ってるんだ…?」

少年が走り去って方へ振り向くと、少し遠いところから彼はこちらをじっと見ていた。

そこで私は一つの考えに行き当たった。

「古本市の神様…なのか…?」

そんな馬鹿な、とは思いつつ、少年の方を見ていると、再び彼はそっぽを向いて走り去った。なぜだかわからないけれど、追いかけなくちゃいけないような気持ちになった。

「待てよ、少年!」

気付けば走っていた。彼を追いかけることで何か分かるかもしれないと思った。その何か、が何なのかもわからないまま。

今思えば、これが分岐点だったのではないかと思う。
でも不思議と、家に帰ったとしても、こういうことになっていたのではないか、と今では思う。
真夏の太陽が責め立てる午後に、汗だくになりながら神社の石畳を歩いていると、一人の男がこちらの方へ手を振りながら走ってくる姿が見えた。この暑さの中走ってくるとはただのアホ、もしくは心頭滅却すれば火もまた涼し、と悟りを開いているかのどちらかであろうが、彼はどうやら前者らしかった。
もう10分もセミの輪唱を聞きながら石畳をうろうろしていた私は
「遅いぞ二階堂」
とやってきた男に言った。
二階堂は噴き出る汗を拭いながら
「わりっ」
と一言だけ言った。

「大体なんだ、いきなり呼び出して。俺を神社に呼び出していいのは黒髪の乙女、もしくはそれに準ずるなにかだけだぞ。」

「なんだそれ。まぁ今日お前をここに呼び出したのは他でもない…というより見たらわかるだろ?」

二階堂は周りを見回しながら言った。

当然、わかっていた。
この神社周辺の森の歩道には所狭しとテントが張り巡らされていて、そのテント一つ一つに、やれ「大久保書店」や「清堂書店」など、色々な書店の名前が書かれたのぼりが立っていた。

今日は年に一度の「納涼古本市」である。
何万冊もの本が一カ所に集まり、新しい主人を求めて店頭に並ぶ。
しかし生憎私は本なんぞ一切読まない。古本ならなおさらだ。どうして他人の手垢がついた記号の羅列が書かれたもんなんぞ読まにゃならんのだ。だったら画集の方がまだマシだ。
だからこそ、私がここに呼ばれた理由がわからなかった。

「なぜ俺がお前と古本市に来なければならんのだ二階堂よ」

責めるように問いかけると、二階堂は、にへらっと笑いながら

「まぁそう言うなって。ちょっと荷物持ちになってくれれば今度昼飯奢るからさ」

と肩を叩いてきた。昼飯ごときで貴重な夏の一日を潰してしまうのもどうかと思うが、ちょうどその日は、たまたま、偶然、空いていたので仏のごとき寛容な心で二階堂の古本漁りを手伝ってやることにした。


この時は、まさか古本市であんなことが起こるとは思わなかったのだ…

と、仰々しい書き口で、この物語は始まる。

先に言っておくが、私は現実主義者でありお化けやUFO、妖怪などという類は全く信じていない。断固それだけは主張させてほしい。

てくてくとまた歩き出す。今度は目的地をちゃんと設定した。港が近いから、海と夜景を見に行くことにしたのだ。対岸に光る建物の光と赤くそびえるタワー。駅から近いわけではないからいつもは行かないのだが、今日は特別に少し遠出することにした。梨子も笑顔で賛同してくれた。
そして歩くこと数十分、港に着いた。ここまでくるとさすがに人も少なく、同じような事を考えているカップルが数組、ちらほらと二人寄り添って海を眺めていた。僕も彼らに倣って近くの海が見える階段に腰掛けた。12月の海は昼に見ると物悲しい雰囲気を醸し出しているが、夜に見る海はなんとなく神秘的で、小さく聞こえる波の音は二人の距離をさらに縮めさせた。
「寒くないか?」
そう問いかけるとすぐ近くにある梨子の顔がふわっと笑い、
「ううん」
と言った。
「あったかい。裕ちゃんとくっついてるから。」
「そっか。俺も。」
すぐ近くには梨子の形の良い頭とつやつやの髪があった。頭を撫でると梨子は幸せそうに眼を瞑った。
僕はもう今しかないと思った。やるなら今だ。
「梨子」
「なに?裕ちゃん」
「プレゼントがあるんだ。」
「えっ、なになに?」
僕はくすっと笑って、言った。
「ポケット」
「え?」
「ポケットの中、見てみ?」
梨子は不思議そうにコートのポケットを探った。するとすぐに何かに気付いたのか、小さな箱を取り出した。
「開けてみ?」
小さな箱を開けると、小さな銀色の指輪が入っていた。これは、僕が2か月前から頑張って貯めて、買ったものだった。決して高くはないが、高校生が買える精一杯の物だった。そう、やはり僕にとっても、クリスマスは大変重要なイベントだったのだ。
「裕ちゃん…」
「つけてみ?」
促されるままに梨子は、指輪を薬指に入れた。それは見事にぴったりだった。数日前、ジュエリーショップの店員さんに
「こんくらい、こんくらいです!」
と指で輪っかを作ったのは無駄ではなかったようだ。僕はとても安心した。
「ど、どう…かな」
「すごい・・・ありがとう、ありがとう裕ちゃん。私、これ一生大切にするね」
「おう、よかった。喜んでくれて。でも、その指に入るもっとちゃんとした指輪を、いつか渡す…から。」
梨子は自分の左手を見た。左手の薬指に光る銀色の指輪。もっとちゃんとしたもの。それの意味することはひとつ。
「裕ちゃん…」
僕の顔は火の出るくらい顔が熱かった。それくらいクサい台詞だったのはわかっている。でも、これがビギナーの僕にできる精一杯。明後日の方向を見ていたので梨子の顔を良く見えなかった。というより見れなかった。
おそるおそる梨子の方を見ると、梨子も顔が真っ赤で、瞳は熱く濡れていた。僕の心臓も大きく、早く鼓動を打っていたが、梨子の心臓も音が聞こえるくらい大きく鳴っていたに違いない。
それから数秒二人は見つめ合い、どちらからともなく目を瞑り、口づけをした。僕にとっては初めての、きっと梨子にとっても初めてのキス。手を繋ぐよりも、体を寄せ合うよりも、お互いの温かさを共有できた気がした。それは数秒かもしれないし、数分かもしれない。少なくとも、その時世界は僕達の為に廻っていた。今も過去も未来も僕達の為に存在していた。今の僕なら、なんでもできるような気がした。
そっと唇を離すと、僕たちはおでこをこつんとくっつけた。僕は思った。きっと、僕たちは大丈夫。何があろうと僕達は引き裂かれたりはしない。それこそ、死が二人を分かつまで。今の僕には死、なんて遠い、遠い、本当に存在しているのかわからないくらい実感がわかないものだった。だからきっと大丈夫。僕達は何にも負けはしない。
それから梨子も僕にプレゼントをくれた。これもベタだが、手編みのマフラーだった。僕と梨子のは色違いでお揃いの柄だった。もちろん指輪も二つで一組だから、僕達は共有するものが二つ増えた。おんなじだね、と梨子は笑った。そうだな、そう言って僕達は再び口づけをした。僕は神に感謝した。ありがとう、イエスさま。今日生まれてくれて。あんたのおかげで俺は今世界中で一番ハッピーだよ。ありがとうな。

その半年後に起こる悲劇は、当時の僕達には全く関係ないことである。