『箱男』安部公房 | ななほん

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読書が好きなわたしの、日々の読書記録です。
お仕事では身体を、読書では頭もしっかり動かしたい。
文学が好きですが、ジャンルとらわれずまんべんなく読むようにしてます。
たまに映画。

 

 

自作段ボール箱を頭からかぶって外をうろついて、中からじっと覗いているしお風呂に入ってなくて不潔だし、状況だけみれば気持ち悪い箱男ではあるけど、ただ社会的一般的に「陽気だ」「ポジティブだ」とされるものとは方向がちがうだけで、全く陰気でもネガティブでもない感じ。

自分の考えに耽ったり、社会的には何の生産性もないし何なら他人から気持ち悪いとされる行動をとるのは、ある意味強さがないとできないと思います。


 自分の箱にどんな工夫がされているか饒舌に語って自慢げだし、「あいつは贋の箱男で俺は本物の箱男」という自負もあるし、箱の中から覗く風景がどんなに素晴らしいかを語ってみたり、自分が箱男であることを恥ずかしがるどころか誇らしく思っているように思える。

弱気で受け身な印象のあった「覗く」行為も、「覗いている自分を知られたくない」ということを考えれば、「覗くこと」に対しても自信や強さが必要かなのかもと思い直したり、逆に自信や強さがあるから「見られる」ことも平気なのかと思いきや、「こっそり覗かれて隠したいものを不本意に暴かれるという状況が怖いから、見せたいようにして見られる」というある意味の弱さを感じたり。

たとえば背徳感や好奇心からの高揚感やドキドキとか、箱男になったのにはそういうきっかけもあって欲しいと思ったら、もう箱男を肯定的にしか読めなくなった気もします。


 ただ、箱男になるきっかけは自分の中からでなく箱から始まっていて、まずは装備から始まって、どんどん自分で箱男としての純度や精度を上げていく(贋の箱男から本物の箱男になっていく)箱男ゲームなんだと想像したら取り組みがいがあるようにも思えるし、かといって不潔というのが一番のネックでわたしは箱男には絶対になりたくないです。

箱男肯定派とはいえ、人間の奥底を表現するのに一番適しているのは性、という感じがわたし的には年々ピンとこなくなってきていて、ある面では事実だと思うし否定はしないんだけど、性を絡めて人間やテーマを表現することに、もう別にそこじゃなくてもよくない?というか、作品としてインパクトはあるかもしれないけど、ある一面だけが強調されすぎてすこし分かりにくくなっちゃうんだよなーと思ったりもします。

箱男と看護婦の2人は恋愛関係か?という件に関しては、わたしは全くそんな風にこの小説を読まなかったので、「え!そうなの?」という気持ち。
補い合うような独特なつながりではあると思うけど、独特であるぶん別に恋愛関係でなくても成り立つ場合もあると思うし、何なら人間でなくても例えば物とか文化とかに対してにも成り立つ感じ。
わたしにとっては、性衝動も恋とはすこし違うんだよなー

「自分の外見を見られたい」「自分の内面を見られたい」は、別に理想論とか言うわけではなくわたしは同じ気がする、とか。

ちなみに、今公開中映画『箱男』も見に行くつもり!