こんにちは、なむら(@michipokomichi)です。
今回、新しい試みでブログの書き方を変えてみることにした。次からどうするかはまだ決めていない。
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訪問看護、利用を辞めた。前のブログにも書いたが、新しい人に変わったが思うことがあった。
まず、距離が近い。わざと遠いところにクッションを置いてるのに10cmほど近くに来る。圧迫感である。もう話したいことなんて吹っ飛ぶ。
そして、ファーストネームで呼んでくる。前の担当さんは4年ほどの付き合いだったので違和感なかったが、始めてしばらくしてもう気が付いたら下の名前で呼ばれていた。これにはかなりイラッとしたものだ。向こうは親近感を持たすためにやってるのかもしれないが、こちらからしたら馴れ馴れしいにも程がある。(過去事例があったとしてもそれには過程があるだろう)
そんなこんなで口数も少なくなり、毎週の訪問看護が負担になっていた。前日は「明日か…」と落ち込むし、朝起きないとと思うしストレスは溜まって行っていた。
そういえば前に保健所の担当さんに相談した時は「頻度を減らしてもらうのはどうでしょう」という案が出たなと思い、申し出たことがあった。「正直毎週話すことはない」と。担当看護師は確かに私は安定してるように見えるしそうしてもいいかもですねーと言い、事務所に報告しますねとその日は帰った。しかしその報告はないまま翌週は来た。「事務所とも話したが主治医の先生の指示でこちらも来てるので、はいそうですねとはいかない」ということだった。
前に今の主治医に訪問看護の不満を話した時は「そもそも必要?」と言われていたのだが…と思いつつ仕方ないのでその週に受診した。事情を話すと主治医は「訪問看護が来ることでストレスになり症状悪化したら意味ないから中止にしようか」とあっさり許可がおりた。隔週に減らすでもなく完全に中止の許可だった。
会計が終わりすぐ訪問看護の事務所に電話した。どんなことが嫌だったとかありますか?と聞かれたので正直に話した。「担当看護師を変えるとか…」と言われたので「もう部屋に誰も入って欲しくない」と言って半ば無理やり電話を切った。
こんなに簡単だったのかと、ホッとした。それから何週間か経っているが特に何もない。快適である。週1日、用事から解放されたのである。予定はないに限る。
まぁ、代わりに今は手話講習会に通うことになったわけだがこれは自分のやりたかったことなので良い。願わくば手話の日は雨が降らないことを祈る…。(自転車で15分、徒歩で30分の距離)
最近は眠くて仕方がなくて、前は昼寝ができなくて苦痛だったのが昼寝をしないといけない身体になってしまった。(生理前も関係しているかもしれないが)代わりに夜に起きる頻度は増えたなと感じるし夢を見ることも増えた。
なにが正解なのかは分からない。これから私はどうしたらいいんだろう。ただ毎日を過ごしていていいのだろうか。生きていていいのだろうか。まだ50で死ぬ予定はそのままになっている。それを言うと諭吉は「ミチが成人になるところ見れないじゃん」と言う。私は心から、本当に申し訳ないが「それが?」と思っている。正直子どもの成人式は子どものためにあるのか?親の自己満足ではないのか?なんでもそうだ、入園式、卒園式、入学式、卒業式…自分の人生の中で残っているものはひとつもない。当時は覚えていたかもしれないが何十年も経ってまで覚えていることはない。
「子どものために」なんて言うけど本当だろうか?
親の自己満足でしかないのではないか?
これはおそらく私の子ども時代に影響していると思う。うちは父方の祖父母と同居していた。家事と育児は実母が全てしていた。父は何もしない人だった。休日にどこかに連れて行ってもらった記憶もない。姉が2人いたが、長女は7、次女は4離れている。上2人で結託していたのだ。末っ子は邪魔者だ。そもそも3人目は男児を望んでいただろう。
母はよく缶チューハイを飲みながら夕飯を作り、「あんたはビール飲みながら授乳していた」なんて言う人だった。そうしなければやっていけなかったのだろう。義父母と同居して、家政婦のように扱われ、そしてパートもさせられる。人権はなかっただろう。よく酔ってリビングで泣いていた。そして「あんたたちがいればそれでいい」と溢していた。
中学生くらいの時に書類が詰まっている棚から離婚届が出てきた時は驚いたのを覚えている。それほどまでに実母は悩んでいたのだ。誰にも言えず、元に戻した。
そんな家だから姉たちは1人暮らしをしたがった。しかし古い昭和の考えの家の女の1人暮らしは認められなかった。そこで姉達は次女の高校卒業のタイミングで2人暮らしを強行した。末っ子は置き去りにされたのだ。私が中学を卒業する頃だったと思う。そんな訳で私は姉達が好きではない。姉妹で仲良しとか聞くと吐き気がする。
その頃には祖母は亡くなり、祖父も入院をしており遠からず亡くなった。父は相変わらず家にはいなかった。祖母の葬儀も、祖父の葬儀もなんの感情も抱かなかった。人はいつか死ぬ、それを意識したのはその頃だと思う。
そして父は脱サラをして昔から夢だったと言うコンビニ経営に手を出した。おそらく母は反対しただろう。私に知らされたのは決定事項だった。
2年ほど経ち、今家が建っている土地が道路になるので撤去するよう立ち退き命令が出た。反対するご近所さんがいる中、我が家は1番に出て行った記憶がある。
古い一軒家から新築のマンションに住めるのだ。私は嬉しくて仕方なかった。もう高校も卒業していた。最寄駅は変わらない。なにも不便はなかった。ただ充実はしていなかった。デザインの専門学校に通っていたが、授業についていけず落ちこぼれた。落ちこぼれた仲間と学校のホールで遊戯王カードをして遊んでいた。win98の時代だ。iMacである。とりあえず両方触れる。それなりに使える。それだけだった。私には情熱がなかった。当然就職もできなかった。卒業生の紹介の会社でフリーターをしていた。適当に過ごしていた。
そんな私には密やかな夢があった。
「素敵な家庭のお母さんになること」
決して自分のような経験はさせず、全力で子どもを愛する。そう信じていた。
しかし現実は甘くなかった
できなかった
結果は今現在ご覧の通りである
私の人生で誇れることはただひとつ
ミチを産んだこと、それだけ
いつかミチ本人に「産んでくれなんて頼んでない」と言われるだろうか
それでもね、私が誇れることはそれしかない
それしかないんだよ
自分で育てられないのにね
ミチが幸せでいてほしい
それだけ
ほら、やっぱり親の自己満足
自分で育てたかったなあ
学校から帰ってきたら「おかえり」って言いたかったなあ
いつか叶うと信じたかったけど、おそらく不可能だろう。そこまで私も馬鹿じゃない。
週末や連休の時だけ会える母親、それを演じて生きていく。私の残りの人生はそれだけ。いつかミチに質問されて真実を伝える。その日までのカウントダウンが始まっている。
でもまた働けるようになりたい。大好きな仕事をしたい。仕事は辞めることになってしまったけど、子どものせいで…とは思っていない。思ったことがないと言えば嘘になるけれど、少なくとも今は思っていない。
だからいつも言っていることだけど、私は今できることをやる。自分のできることをやる。
自分を整える
それだけ