徒然名夢子 -33ページ目

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

治承四年
 十一月大

  二日(庚戌・かのえいぬ)
   今日、小松少将平惟盛朝臣以下の平氏方諸将が、何の功も上げずに帰京した。

  四日(壬子・みずのえね)
   源頼朝が常陸国府に到着した。佐竹氏は、その権威が国外にまでおよび、国中が郎従に支配されている。そこで、源頼朝は軽率な行動をせず、よく計略を練って討伐できるように、千葉常胤、上総広常、三浦義澄、土肥実平以下の宿老達が話し合った。まず佐竹が考えている事を確かめるため、縁者である上総権介広常を遣わして、事情を問うたところ、佐竹太郎義政は、すぐに参上すると言った。佐竹冠者秀義は、その従兵は佐竹義政より多勢であり、父の佐竹四郎隆義が平氏方に味方しており、考えるところがあり、すぐには参上できないと言って、常陸国の金砂(かなさ)城に引き籠もった。佐竹義政が上総広常の誘いによって、大矢橋(おおやばし)の辺りに来たところ、源頼朝は佐竹義政の家人等を外に退かせ、佐竹義政一人を橋の中央に招き、上総広常に誅殺させた。とても素早い処置だったので、従っていた家人のある者は首を垂れて降伏し、ある者は早々に逃走した。その後、佐竹秀義を攻撃するために、軍兵を送った。下河辺庄司行平、下河辺四郎政義、土肥次郎実平、和田太郎義盛、土屋三郎宗遠、佐々木太郎定綱、佐々木三郎盛綱、熊谷次郎直実、平山武者所季重といった者達である。彼らは数千の強兵を率いて競うように向かって行った。佐竹冠者秀義は金砂山に城壁を築き、要害を固めて以前からの防戦の備えをしていたので、少しも動揺せず、戦いをはじめて矢石(しせき)を放った。その城郭は高山の頂上に構えていた。源頼朝方の軍兵は、山麓の渓谷を進んだので、双方の位置は、まさに天と地に隔てがあった。
   そうしているうちに城から矢石が飛んできて、多くが源頼朝軍の兵士に当たった。源頼朝軍から射た矢は、ほとんど山の上に届くことはなかった。また巌石が道を塞いで、人も馬も進むことが出来なかった。これにより兵士の心労はつのり、戦う方法がわからなくなった。そうはいっても撤退することもできず、やむなく矢を番えて様子を窺っているうちに、日が西に沈み、月が東から昇った。

  五日(癸丑・みずのとうし)
   寅の刻に、土肥実平、土屋宗遠達が源頼朝に使者を送った。
   「佐竹が構えている要塞は、人の力で破ることはできません。その中に籠もっている兵士は、一人が千人にもあたるものです。よくお考え下さい」
   との知らせで、源頼朝は老将達の意見を聞くと、上総広常が言った。
   「佐竹秀義の叔父に佐竹蔵人義季という者がおります。佐竹義季は知謀が優れていて欲心は人並み外れています。そこで恩賞を授けるという約束があれば、きっと佐竹秀義を滅亡させる計略を練るでしょう」
   源頼朝は上総広常の提案を許可し、すぐに広常を侍中佐竹義季のもとに遣わした。佐竹義季は上総広常の来訪を喜び、急ぎ広常と面会した。上総広常は次の様に言った。
   「最近東国の親しき者も、疎き者も、源頼朝に従わない者はいない。しかし佐竹秀義は単独で仇敵になってしまい、まことに考えられない状況だ。親族でありながら、あなたはどうして佐竹秀義の不義に味方されるのか。はやく源頼朝方に参じて、佐竹秀義を討ち取り、その遺跡(ゆいせき、過去の領地)を手にすべきでしょう」。
   佐竹義季は、たちまち帰順した。もとより事情をよく知っている者であったので、上総広常を連れて、金砂城の背後に回り、鬨の声をあげた。その音は城郭一帯に響き渡った。これを予測していなかったため、佐竹秀義とその郎従達は防衛する術(すべ)を失い、慌てふためいた。上総広常は、さらに力を得て攻め立てたので、城の兵士は逃亡し、佐竹秀義も跡をくらました。

  六日(庚寅・かのえとら)
   丑の刻に上総広常は佐竹秀義が逃亡した跡に入り、城壁を焼き払った。その後軍兵等を方々の道路に手分けして派遣し、佐竹秀義を探したところ、深山に入り、奥郡の花園城(茨城県北茨城市花園)に向かったという噂を得た。

  七日(乙卯・きのとう)
   上総広常の軍兵が源頼朝の宿所に帰参した。合戦の経緯や佐竹秀義が蓄電したこと、城郭に放火したことなどを報告した。軍兵のうち熊谷次郎直実と平山武者所季重には特に勲功があった。各所で真っ先に進み、さらに自らの命も省みず、多くの敵の首を取った。そこで、彼らの恩賞は他の武士よりも厚くするようにと、源頼朝から直々に命令された。また佐竹蔵人義季が参上し、配下に加わりたいと望んだところ、源頼朝はすぐに許した。功があったからである。
   今日、志太(しだ)三郎先生(せんじょう)義弘と源十郎蔵人行家達が常陸国府に参り、源頼朝と面会した。

  八日(丙辰・ひのえたつ)
   佐竹秀義の所領である常陸国奥七郡と太田、糠田(ぬかだ)、酒出(さかいで)などを収公し、軍士の勲功に対する恩賞に宛てられた。また逃亡していた佐竹の家人が十人ばかり現れたという噂が流れたので、上総広常、和田義盛に生け捕らせ、すべて庭中(ていちゅう)に召し出された。もし外を加えようとする不届き者がいたならば、顔色を見て心中を察しようとしたところ、紺の直垂の上下を着た男が頻りに顔を伏せて泣いているので、理由を聞いた。
   「死んだ佐竹の事を思うと、首が繋がっていても、何も出来ません」
   と答えるので、源頼朝は、
   「そう思うならば、佐竹が誅される時に、なぜ自ら命を絶たなかったのか」
   と問うと、
   「主人が殺されたとき、我々家人はその橋の上には行かず、ただ主人一人が橋の上に呼び出されて、首をとられたので、後日の事を考えて逃亡したのです。そして今、このように参上しているのは、兵士としての本意ではありませんが、是非とも拝謁の時に申し上げたい事があったからです」
   源頼朝が重ねてその旨を尋ねた。
   「平家を追討するという計画を差し置いて、一族である佐竹を滅ぼされるとは、全くあってはならないことです。国敵の平家に対しては天下の勇士が一致団結すべきです。しかし過ちのない一門を誅されては、御身の敵は誰に命じて退治されるつもりですか。また御子孫は誰がお守りしてゆくのでしょうか。この事をよくよく思案されるべきです。今のような状態だと、人々はただ恐れをなすだけで、心から服従する志を持つことはなくなり、きっと誹りを後代に伝えるだけでしょう」。
   源頼朝は何も言わず、奥に入った。上総広常が言った。
   「この男が謀反を起こそうとしているのは疑い有りません。早く殺すべきです」
   源頼朝は、
   「それはだめだ」
   と言い、佐竹の家人を許したばかりか、御家人に加えた。この男は岩瀬与一太郎(茨城県筆致大宮市上下岩瀬の住人)といった。
   今日、源頼朝は鎌倉にむかった。その途中にある小栗十郎重成の小栗御厨(おぐりみくりや)の八田(はった、小栗氏の館、現在の茨城県筑西市八田、後の常陸守護・八田知家はこの地を領して家名とした)の館に入った。

  十日(戊午・つちのえうま)
   武蔵国丸子(まりこ)庄を葛西三郎清重に領させ、今夜清重の宿所に源頼朝は泊まった。葛西清重は妻女に源頼朝の御前を準備させた。ただし葛西清重はそのことを申さず、お気に召して頂こう問う余所から若い女を招いたと申し上げたという。

  十二日(庚申・かのえさる)
   源頼朝が武蔵国に到着し、荻野五郎俊重を断罪に処した。荻野俊重は日頃源頼朝の御供をし、その功績はあるものの、石橋合戦の時に大庭景親に味方して人の道から大きく背いたので、今その非を糺さなければ、後に同様の者を処罰できなくなってしまうからである。

  十四日(壬戌・みずのえいぬ)
   土肥次郎実平が武蔵国の寺社に向かった。これは多くの人が清浄の地に乱入し、狼藉をしているという訴えがあったため、それを停止させるよう命じるためだった。

  十五日(癸亥・みずのとい)
   武蔵国の威光寺(現在の神奈川県川崎市多摩区長尾にあった寺、現存しない)は、源家数台の御祈祷所なので、院主の僧増円が伝えている僧坊や寺領に対して、源頼朝は今までのように年貢を免除した。

  十七日(乙丑・きのとうし)
   源頼朝が鎌倉に帰った。
   今日、曽我太郎祐信が、ご厚情により赦免された。また和田小太郎義盛が侍所別当に補任された。これは去る八月の石橋合戦の後に、安房国に向かった時、源頼朝の安否も明確で無い時に、和田義盛がこの職を望んだので、その際許諾されており、今日、上位の者を差しおいて、命じられたのだった。

  十九日(丁卯・ひのとう)
   武蔵国の長尾寺(威光寺のこと)は、源頼朝が弟の禅師全成(ぜんじょう、頼朝の異母弟、義経の同母兄、父・義朝の死で醍醐寺で出家)に譲渡され、今日、本坊を全成に安堵した。先例の通り祈祷の忠を尽くすよう命じられたたえ、慈教坊増円、慈音坊観海、法乗坊弁郎らを召し出した。

  二十日(戊辰・つちのえたつ)
   大庭平太景義が波多野右馬允義常の子息(有常)を連れて参上し、源頼朝の音声で赦免を望んだ。しかし、大庭景義の外甥であるため、しばらく景義に預け置くと命じられた。波多野義常の遺領の内、松田郷(現在の神奈川県足柄上郡松田町の辺り)は大庭景義が拝領した(後に波多野有常に返還された)。

  二十六日(甲戌・きのえいぬ)
   山内首藤滝口三郎経俊を斬罪にすべきだということを内々に決定した。山内経俊の老母(源頼朝の乳母)はこれを聞き、愛息の命を救うために、泣きながら参上した。
   「山内資通入道(三河国住人首藤資清の子、平治の乱で源義朝に最後まで付き従った鎌田正清は山内資通の孫)が八幡源義家に仕え、廷尉禅室源為義の乳母となって以来、代々の間、忠を源家に尽くしてきた事は数えきれません。特に山内首藤俊通は平治の乱に戦場に臨み、六条河原に亡骸を晒しました。そのようなことですから、山内経俊が大庭景親に味方したというのは、その科は責められるべきですが、これは後に平家の耳に入ることを憚ったためです。およそ軍陣を石橋の辺りに張った者は、多くが恩赦をいただいています。山内経俊もまたどうして先祖の功を考慮されないのでしょうか」
   源頼朝はこれを聞いて特に何も言わず、預けておいた鎧を持ってくるよう、土肥実平に命じた。実平は鎧を持ってきて、唐櫃(からびつ)の蓋を開けて、鎧を取り出すと、山内尼の前に置いた。この鎧は石橋合戦の日に山内経俊が射た矢がこの鎧の袖に突き刺さったものである。その矢の口巻(矢柄のこと)の上に『滝口三郎藤原経俊』と書かれていた。この字の際(きわ)より矢柄を切り、鎧の袖に矢を立てたまま、今まで保管してきて、その字はとても明確だった。そこで直接、その名を山内尼に読み聞かせると、尼は再びあれこれ言うことは出来なくなり、両目の涙を拭って退出した。源頼朝は後々の事を考えて、この矢を残されていたのだった。山内経俊の罪科は刑罰を逃れる事が出来ないものだが、老母の悲歎を考え、先祖の功労を重視して、さらし首になる罪は許されたのだった。