徒然名夢子 -32ページ目

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

治承四年
 十二月小

  一日(己卯・つちのとう)
   左兵衛督(さひょうえのかみ)平知盛が数千の官兵を率いて近江国に下り、源氏の山本前兵衛尉(さきのひょうえのじょう)義経(近江国の反平氏)と弟の柏木冠者義兼と合戦した。山本義経をはじめとして、身を棄てて命を忘れて臨んだが、平知盛軍は多勢の利を活かし、火を放って山本義経、柏木義兼の館や郎従の宅を焼いて回ったので、二人はなすすべも無く逃亡した。去る八月に東国で源家が義兵を挙げた事を聞いてからこれまで、京の近くの住人であるにもかかわらず、関東に味方しようと思い、頻りに平相国禅閤(へいしょうこくぜんこう)清盛の威に逆らっていたため、今回攻められたのだった。

  二日(庚辰・かのえたつ)
   今日、蔵人頭(くろうどのとう)平重衡(しげひら)朝臣、淡路守平清房、肥後守平定能らが、東国に向かい出陣した。源家を襲うためである。しかし道中から引き返し帰洛した。

  四日(壬午・みずのえうま)
   阿闍梨(あじゃり)定兼が命令によって、上総国から鎌倉に参上した。定兼は、去る安元元年四月二十六日に上総国に流されてきた流人で、仏法知識が深いという評判があり、今の鎌倉にはそのような徳の高い僧がいないので、源頼朝は上総広常に命じて、定兼を鎌倉に送らせたのだった。今日、すぐに定兼を鶴岡供僧職(ぐそうしき)に補任された。

  十日(戊子・つちのえね)
   山本兵衛尉義経が鎌倉に到着した。土肥次郎実平が取り次いで次の様に言った。
   「日頃から関東のことを考えていると平家に知られてしまい、何事も関東に味方にする行動をとっていたため、去る一日(十二月)にとうとう城郭を攻め落とされたので、かねてからの想いに従って参上しました。かの凶徒(平家のこと)を追討される日には、必ず先陣を承ります」。
   源頼朝は、
   「真っ先に参向するとは実に神妙(しんびょう、感心)なことだ。今、関東(頼朝軍のこと)に仕える事を許可する」
   と述べた。この山本義経は刑部丞(ぎょうぶのじょう)源義光から五代の跡を嗣いでいて、弓馬の両芸の腕前は人々が認めるところである。しかし平家の讒言により、去る安元二年中二月三十日(1177年)に佐渡国に配流され、去年たまたま赦免となったのだが、今また平家の攻撃によって所領を失ったことから、平家を討つという前々からの恨みを強くしたことを、源頼朝はまったく疑わなかった。

  十一日(己丑・つちのとうし)
   平相国禅閤(へいしょうこくぜんこう)清盛は平重衡朝臣を園城寺(おんじょうじ)に派遣し、寺の衆徒を襲った。これは当寺の僧侶が、去る五月頃に三条宮以仁王に伺候(しこう、貴人の側に仕えること)したからである。南都も同様に滅ぼされるだろう。この事については、日頃は全く問題にされなかったが、前武衛(さきのぶえい)源頼朝は以仁王の令旨によって関東で挙兵を遂げられたので、衆徒もきっと味方するだろうと平清盛も考え、園城寺を攻めたのだった。

  十二日(庚寅・かのえとら)
   晴れて風は静かだった。亥の刻に源頼朝が新造の御邸へ移る儀式が行われた。大庭景義を担当にして去る十月に工事始めがあり、大倉郷(現在の鎌倉市二階堂、西御門、雪の下三丁目の辺り。嘉禄元年十二月二十日に幕府が宇津宮辻子に移るまで、この場所に幕府と将軍居所が置かれていた)に建てられた。定刻に源頼朝が上総権介広常の邸宅を出発し、新邸に入った。源頼朝は水干(すいかん、脇あけの装束、狩衣に菊綴の部分があり格調高い)を着て、石和の栗毛馬に乗った。和田小太郎義盛が最前を行き、加々美次郎長清が頼朝の馬の左につき、毛呂冠者季光がその右についた。北条時政、北条四郎義時、足利冠者義兼(頼朝の母の妹の子、挙兵時から仕えていた)、山名冠者義範、千葉介常胤、千葉太郎胤正、(千葉)東六郎大夫胤頼、安達藤九郎盛長、土肥次郎実平、岡崎四郎義実、工藤庄司景光、宇佐美三郎助茂、土屋三郎宗遠、佐々木太郎定綱、佐々木三郎盛綱が付き従った。畠山次郎重忠が最末に従った。寝殿(しんでん)に入ってから、お供の者達は、十八間の侍所に入り、二列に向かい合って座った。和田義盛はその中央にいて、そろった者達を記録した。出仕した者は三百十一人になった。また御家人達も同じ様に居館を建てた。これより以降、当国の人々は皆、源頼朝の徳のある道を進むのを目にして、鎌倉の主として認めるようになった。鎌倉は元々辺鄙(へんぴ)な場所なので、漁師や農民以外、居を定めようという者は少なかった。それでこの時に、巷の道を真っ直ぐにして、村里に名前を付けた。それだけでなく家屋が建ち並び、門扉が軒をめぐらすようになった。
   今日、園城寺が平家によって消失させられた。金銅以下の堂舎や塔廟、それに大小乗の経巻や、顕密の聖教(しょうきょう)のほとんどが灰になってしまった。

  十四日(壬辰・みずのえたつ)
   武蔵国住人の多くに、元から知行(ちぎょう、土地を支配していること)している地主職(これは後の地頭と職位が同じ)は、今まで通り執行するように、命令が下された。北条時政と土肥次郎実平が奉行となり、藤原邦通が文書を作成した。