徒然名夢子 -19ページ目

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

新潮日本古典集成別巻 三
南総里見八犬伝第六輯
巻之三

 

(この4 ここから)

 時は四月(うつき)の下旬で、夜はとても短くなってきた頃なので、夜明けには鐘の音は響かないものの、東側から白み始めていた。小文吾は、田楽の俳優の演劇が終わると、主夫婦に別れを告げて、退こうとしているところ、常武は頻りにそれを押し止めて、

 「どうしてそのようにお急ぎなのでしょうか。ここもあそこも私の家の中です。特にこの新邸(にいちんざしき)は、なかなかの眺望の場所に建てています。あそこの窓を押し開けば、隅田川の流れがとても良く見られますから、それでここを臨江亭(りんこうてい)と名づけまして、また楼上から眺めれば、牛島葛西の海辺まで、すべて眼下にありますから、対牛楼(たいぎゅうろう)と名づけました。さあ、こちらへ。薄茶を一杯いかがでしょうか。」

 と言われて小文吾は断ることもできず、傍らに置いていた脇差しを手に取って立とうとすると、白銀(しろがね)で造った桃花の釵(かんさし)が、いつのまにか、落ちかかっていたのか、刀の緒に挟まっていた。

 「これは、どうしたのだろう」

 と訝りながら、側に居た婢児供(おんなこども)を振り返って、

 「これは誰が落としたのだろうか。あなた達ではないのですか。」

 と問いながら差し出すと、ひとりの女子が受け取って、

 「これは旦開野(あさけの)の物でございます。先程の紊(みだれ、乱)を舞っていたとき、振り落としたのがわからなかったのだと思います。」

 こ答えるのを小文吾は、頷いて、

 「そうならば、あなたに渡しておこう。しっかりと届けてください。」

 と言いながら、素早く身を起こして、誘われて対牛楼に登っていけば、常武は婢児等に、雨戸をすべて開けてさせていた。

 その時、小文吾は、まず頭を回して、あちらこちらと見返ると、楼上の東向(ひがしおもて)に、僧一山(そういっさん)の款印(かんいん、落款、落成款識のこと)がある、

 「対牛弾琴(たいぎゅうだんきん、牛に琴を聞かせる、ということから、何の意味も無いこと)」

 という四大字の額を掲げて、左右には唐の王勃(おうぼつ、唐代初期の詩人)が、

 「蜀中九日(しょくちゅうきゅうじつ)[1]」

 の詩を白字(はくじ、凹んだ彫刻)に彫りたる竹簾がある。時は今、夏と秋の違いこそあれども、犬田の為にはここもまた、望郷の台上であり、北地より来たる鴻雁(かりがね)はいないが、

 「いざ、亊は問わん」

 と詠まれた都鳥(みやこどり)は、今もいるのでしょう。そして、欄干(おばしま)に身を寄せながら、よくよく見渡せば、空はもはや明けようとして、横雲が色紙のように描く筆は無いが、誰かが硯でといた墨田河(隅田川)、向かいに黒き牛嶋は、あたかも水に臥せっているように見え、向こうには青い柳嶋、糸より波になびくように見える。

 「世の中を、何にたとへむ、朝びらき、(漕ぎいにし船の)跡なきごとし」

 と満誓(まんぜい、俗名は笠麻呂、万葉集に撰歌のある飛鳥・奈良期の歌人)が詠んだ歌は、白波に漁翁(ぎょおう)が生涯一艘の笹舟で東に漕ぎ、西に係ることがある。葛西村落の数戸の煙が、南からおきて、北に消えていっている。鎌田、浮田、行徳の浦々、あの辺りかと思って見ていると、昇る旭が古里の方からかと見ると、翁は淋しく、父のこと、親戚のこと、胸に思い出してきて、刀剣の頼みもなく、身を浮橋のように中絶えて、この石浜の真砂(玉塵、まさご)から様々積もってきた艱難憂苦(かんなんゆうく)は、これからも続いて絶えることはないだろう。

 常武は、これを慰めようと、

 「犬田殿、犬田殿、いつまで物思いに浸っておられるのか、シャクトリ虫が伸びようとするとき、まずその身を縮めなければなりませんが、窮達(きゅうたつ)の時は、運によるのです。あそこのあの舟が見えますか。久しく水際に繋がれたままです。また、真帆(まほ、順風を浴びて進むこと)を揚げることもあるでしょう。繋げた舟は走ることはできません。走る舟は止まるのが難しい。貴方の今の待遇も、ただこの理屈でお考えください。これは私が思うには、貴方は舟です。臣である私は水です。水はよく舟を浮かべて、またよく舟をひっくり返します。自胤は暗愚の弱将でした。菽麦(しゅくばく、マメやムギ)さえもわかっていませんでしたので、どうして貴方が知るべき武将でありましょうか。かの隣国の敵によって、滅ぼされた可能性は間違いない。私もまた、千葉一族、馬加光輝(まくわりみつてる)の甥ですので、(自胤に)代わって治めたとしても、誰が咎めるでしょう。そうであれば享徳の例[2]にならって、自胤に詰め腹を切らせて、我が息子の鞍弥吾常尚を、当城の主にしようと思うことはあるのですが、いまだ智勇の軍師がおりません。貴方がこれから私をたすけていただけるのであれば、事が成れば葛西のうち半分を宛がいましょう。引き受けていただけますか。」

 と膝を少し進めて、また他の事も囁くと、小文吾はこれを聞いて、体を正して、

 「これは思いがけもない、密議をお話になるのですね。私はもとより学問もしておらず、聖の教えはよく知りませんが、誓いよりも利害を考える。貴方はただ水と舟の反覆(はんぷく)をお話されましたが、順逆の理に暗いのではないでしょうか。それはなぜかというと、水の上に舟が浮かぶのは普通のことです。その舟が覆えるのは、異変の時です。仮にも、その異変を自分の利益として、その普通をとらないのは、乱臣賊子(らんしんぞくし、国に背く臣と親に背く子のこと)の考えそのものです。いったん、その利を得てしまえば、滅亡することは疑いもありません。昔から臣として、その君を殺害してしまう者は、誰がそのことを長く伝えるでしょう。請い願わくば、非義(ひぎ、道理に外れたこと)妄想を取り除いて、千葉家の諸葛(しょかつ、諸葛孔明のこと。優秀な家臣)と言われることが、徳義が後世まで言い伝えられて、子孫はますます慶ばしいことになると、請け負いましょう。私は武芸を好みますが、短才(たんさい、才能が無い)で文学には通じておりません。(このような自分が)どうして人の助けとなるでしょうか。私の望みは、忠信(ちゅうしん、真心を尽くし、偽りのないこと)に尽くして、乱離(らんり、国が乱れて人々が離れていくこと)の人にはならないということです。これ以外には思っていません。」

 と憚る様子も無く答えると、常武は勃然(もつねん)と怒りが顔にあらわれて、次の手を考えて言葉がでなかったが、すぐににっこりと微笑んで、

 「おっしゃるように道理は、確かにそうです。私もそのように思うだけです。先程の言葉は戯れでして、そぞろに貴方を試したのでして、思ったよりもとても頼もしいと感じました。お忘れください。それでは、まず朝飯を差し上げますので、こちらにいらしてください。」

 と言い、まず、楼下(したや)に誘うのを、小文吾は後方(あとべ)に立って、梯子を下って別れを告げて、また九念治に送られて、離れ座敷に帰っていったのだった。



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用語解説
[1] 蜀中九日:王勃の漢詩
  九月九日 望郷台   |九月九日の重陽の節句に、故郷を望んで望郷台に昇った。
  他席他郷 客を送るの杯|そこは余所の国余所の宴席で、旅立つ人を送る杯を

             |酌み交わしていた。
  人情已に厭う 南中の苦|私はもう南の地での暮らしに嫌気がさしているというのに、
  鴻雁那ぞ 北地従り来る|あの鴻と雁の群れはなぜ、北ではなく南に飛んで行くのだろう。

 蜀中とは成都のこと。客は旅人。南中苦はこの蜀の国の侘しさのこと。鴻雁はオオトリとカモガネのこと。

[2] 享徳の例:享徳の乱のこと。
 享徳の乱は、享徳三年12月27日(1455年1月15日) - 文明十四年11月27日(1483年1月6日))までの間に断続的に発生した戦乱。発生した時期は室町幕府・将軍足利義政の時。鎌倉公方・足利成氏が、関東管領・上杉憲忠を暗殺し、里見氏、武田氏などの鎌倉公方派が、長尾実景・憲景父子も殺害。憲忠の弟が京都で関東管領に就任し、従弟の上杉房定(越後守護)とともに、上野平井城を拠点に鎌倉と戦端を切った。
 永享の乱、結城合戦、嘉吉の乱とともに、鎌倉での武力政権の確立を目指した、戦乱である。

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