百人秀歌・狂歌解題改 百一 入道前太政大臣 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

百一 入道前太政大臣

花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは 我身なりけり

 

入道前太政大臣は西園寺公経(さいおんじきんつね)で、鎌倉期の公卿・歌人。西園寺家の祖である。父は内大臣・藤原実宗。最終官位は、従一位・太政大臣である。鎌倉幕府第四代将軍・藤原頼経、関白・二条良実、後嵯峨天皇の中宮・姞子(きつし)の祖父にあたる。また四条天皇、後深草天皇、亀山天皇、第五代将軍・藤原頼嗣の曾祖父でもある。公経の姉は藤原定家の後妻なので、公経は定家の義弟にあたる。なんとも、ものすごい血脈だ。

公経は頼朝の姪を妻としていたため、鎌倉幕府とは近しかった。そのために実朝暗殺後、外孫の藤原頼経を将軍とするために朝廷、鎌倉で運動する。承久の乱で後鳥羽上皇側に一度は幽閉されるが、情報を鎌倉方に流し、幕府に勝利を導いた貢献者である。処世に長けていて、幕府に追従していたため、朝廷内からは「奸臣」扱いされていた。公経の後、西園寺家は鎌倉期、関東申次(または関東執奏)という京の六波羅探題とともに、朝廷・院と幕府間の連絡・調整役となった。

定家が公経の歌を百人一首のオプションとして最後に持ってきたのは、武門と朝廷の橋渡しである彼の言葉こそ、当時の歌壇に必要なのだろうというメッセージだと考える。

初句「はなさそふ」は、「桜の花のつぼみがほころびはじめた」という意味と、「話さそふ」、すなわち「打ち解けようではないか」という誘いかけの二重の意味がある。「嵐の庭の」というのは、初春の風強い日でもあり、武家の戦乱の後でもある。「ゆきならて」は「春雪が舞って」という意味と、「多くの者が死んでしまった」という意。下句「ふりゆくもの」は「幽かな雪」であり「自分自身の年齢がふけゆく」のである。そして結句「わかみなりけり」は「雪が私に触れて消えていく」と「私ももうすぐ死ぬのだろうか」という意味。

結局、この歌は鎌倉幕府創立によって朝廷と幕府に別れ、その過程で滅び、死んでいった者達への鎮魂歌である。彼らのためにも、自分は仲介の労を惜しむことは無い。いつ死んでもかまわない。だから「はなさそふ」ではないか。というメッセージである。訳してみよう。

 

「さあ、もう打ち解けようでは無いか。春の花も咲こうとしているのに、春の嵐が吹きすさぶ庭に、珍しく花のように雪が舞ってきた。その降る雪も私の体に触れると、溶けてしまう。だから話し合おうでは無いか。私も老い先が短いのだから。」

 

折句もできている。

冠・はあゆふわ

沓・ふのてはり

「ばあ、ゆふわ、ふの、てはり」で「もう勇はよくわかった、もう武士の博打は終わったのだから」

 

この歌のもう一つの暗喩としては、定家は百人秀歌を歌合として左右で競わせている。だから、この公経の一首をもって、締めくくりとしたい。溶けていく春に舞う雪片のように、幽かな余韻を残して、歌合を終わろうとしたいのだ。

 

狂歌には次の歌を選んだ。

百一 平秩(へずつ)東作  万代狂歌集

狂)はなし出す 人の尻馬 口車 いづれ調子に 乗り合ひの舟

 

題「乗合の舟にのりて」とある。馬、車、舟、駕籠(かご)で近世の乗り物である。この歌には駕籠が無い。馬は尻に、車は口に、舟は乗合、駕籠は舁(か)き。だから駕籠が欠けているのだ。詠わない部分に意味を持たせるネガのような狂歌。万代狂歌集の中でも秀逸な歌である。

 

 

主な参考文献

・「百人秀歌」、斎藤茂吉、岩波新書、一九六八年

・「古今和歌集」、奥村恆哉、新潮日本古典集成、一九七八年

・「新古今和歌集」上・下、久保田淳、新潮日本古典集成、一九七九年

・「狂歌鑑賞辞典」、鈴木棠三、角川書店、一九八四年

・「狂文狂歌集」、日本名著全集(非売品)、一九二九年