百人秀歌・狂歌解題改 八十四 藤原清輔朝臣 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

八十四 藤原清輔朝臣

ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき

 

藤原清輔朝臣(ふじわらのきよすけのあそん)は平安末期の公家・歌人である。藤原北家魚名流、左京大夫・藤原顕輔の次男。最終官位は正四位下・太皇太后宮大進である。父は崇徳院に寵愛され、勅撰集「詞花和歌集」を編纂したが、清輔も手伝ったところ、ことごとく対立し、父には疎まれていたようだ。だからながいこと官位が昇進せずにいた。

しかし、二条天皇には重用され「続詞花和歌集」を撰し、後年、父から人麻呂影供(ひとまろえいぐ)を伝授され、六条家を継ぎ、御子左家(みこひだりけ・藤原北家道長の六男・長家を祖とする流)の藤原俊成に対抗した。太皇太后宮大進となり藤原多子に仕え、平経盛(たいらのつねもり・清盛の異母弟。敦盛の父)とは同僚で親友だったという。

歌道については上古に通じ、特に厳しい父の対応に対抗するように勉学に励み、その結果、父をもしのぐ能力を身につけて発揮した。結果として六条藤家歌学を確立し、平安期の歌学を大成したと評価されている。

新古今和歌集に撰歌されたこの和歌は、第八十三番、導因法師の下句「憂きにたへぬは涙なりけり」と同様に、「命と気持ち」がテーマである。詞遊びも導因法師と比較して楽しめるように、定家は撰歌したのだろう。

歌意は、次の通りである。

 

「永いこと生きていれば、あの頃の事を、なつかしく思う事が何度もあるのだろうか。その時には苦しかった世が、今は恋しく感じられるとは。」

 

まず、三句切れである。そして、おもしろいのは下句で、「うし」「みし」「こいし」という詞のリズム感が、記憶を呼び起こす感じに仕上がっている。ゆえに、この歌には「憂し」時代のことは、楽しい思い出になってしまっていて、悲愴感が無い。「憂し」時代とは、父に疎まれ厳しくされ、官位も上がらず苦学していた頃である。上句の「しのばれむ」は「偲ぶ」で、父・顕輔への想いだろう。というのも、折句が次のようにできているからだ。

冠・なましうい

沓・はやむそき

三句切れなので、「うい・なまし」「そきは・やむ」とひっくり返すと「きっと、愛してくれていただろう」「そのような気持ちになってしまう」という意味になる。「なまし」は「な・まし」で完了の助動詞「ぬ」の未然形+推量助動詞「まし」の合成で「きっと〜していただろう」という句である。「うい」は、時代劇で良く「ういやつよのう」と使われる「愛い」のこと。「そきは」は「そ・気・は」で「そのような気持ちを抱く」という意味で、「やむ」は「や・む」で感嘆の「や」に推量・希望の助動詞「む」である。

父と子が同じ歌道に生きると、親子というよりも師匠と弟子の関係に近かったのだろう。そこに愛憎が加わって、人生をより深いものにしてくれたという、子から父への感謝の歌なのだ。

 

狂歌

八十四 一路居士

狂)ながらへば 大蟇目(おおひきめ)をも 負ふべきに 早くこの世に いぬぞかしこき

 

作者が犬の絵がみごとだったので詠んだ歌である。「蟇目」とは大きな鏑矢(かぶらや)のことで、合戦の開始の合図、流鏑馬や神事で使われた。すなわち「長居をすれば蟇目にあう」という故事があり、ぐずぐずしていると蟇目が飛んできて酷い目に会う、ということである。実隆公記に出てくるこの歌は、あまりにも犬の絵がよく画けているから、速く逃げようという歌意である。

一路居士はもともと身分の高い貴人で、仁和寺の門主の一休とは親交があったのだが、なぜか草庵を和泉の摂津に結んだ。大徳寺の末寺だったともいう。とにかく、この一路居士の世捨ぶりはみごとで、多くの逸話が残されており、当時の世間から憧憬されていたという。この歌も何時頃詠まれたのかは容易に想像できる。下句の「いぬ」は「去ぬ」と「犬」が掛かっている。「蟇目」は「かぶらや」だから、「犬がかぶりつくぞ」との暗喩である。「をも」は「尾も」で、「かしこき」は「賢き」、「畏き」、「恐れ多いところ」=「将軍の居る江戸城」に掛かる。

こちらも見事な狂歌である。