瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
崇徳(すとく)天皇は平安後期の天皇で、父・鳥羽天皇、母・中宮・藤原璋子(待賢門院)の第一子である。崇徳天皇は関白・藤原忠通の娘の聖子を中宮に立て、夫婦仲も良かったのだが、子供が生まれず、女房の兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)との間に第一皇子が生まれる。これで中宮と忠通は崇徳天皇に不快感を抱く。
父・鳥羽上皇は院政開始直後から崇徳帝へ譲位を迫り、寵愛している藤原得子(美福門院)との子・体仁親王(近衛天皇)が即位した。崇徳天皇にとって近衛天皇は弟であり、自身が院政を敷くのには大きな障壁となるのはあきらかで、遺恨を残した譲位となる。実際、上皇とはいっても実権もなく、和歌の世界に没頭していたようだ。だが、二つの貴種があり、摂関家の対立も含めて、崇徳院の譲位は、一時期の均衡を保つには必要だったのだろう。しかしその要であった鳥羽法皇が崩御すると、自体は急激に悪化する。それが保元の乱(保元元年・一一五六年から)である。
保元の乱は、前にも少し述べたように、王家では皇位継承における崇徳上皇と後白河天皇が対立し、摂関家では、藤原頼道と忠通が対立する。崇徳上皇と藤原頼道は、源為義と平忠正の武門を味方に付け、後白河天皇と藤原忠通には源義朝と平清盛の軍がついた。王家の皇位継承問題は、鳥羽法皇が藤原璋子(待賢門院)との皇子である崇徳天皇を退位させ、寵愛する藤原得子(美福門院)との体仁親王を即位(近衛天皇)させたところにある。体仁親王は崇徳天皇の中宮(皇后)藤原聖子の養子で「皇太子」だったはずなのだが、崇徳帝が譲位する宣命には「皇太弟」と書かれており、鳥羽法皇は崇徳が上皇になって院政を行えないようにしたのだ。また後宮では、璋子が得子呪詛の嫌疑で出家に追い込まれ、崇徳の外戚である藤原北家・閑院流(かんいんりゅう)は衰退していく。一方で得子の周辺人は藤原北家・中御門流、村上源氏流の公卿が接近し、得子の従兄妹で藤原家成という鳥羽法皇の近臣を味方に付けて、璋子の待賢門院派と、得子の美福門院派に、政界・後宮・王家が二分される。
事態の悪化は、対立構造を招いた鳥羽法皇の崩御後に始まるのだが、それ以前にも派閥の拮抗による政治の停滞は多々有り、近衛天皇の崩御(近衛天皇崩御後、父・雅仁親王が立太子しないまま即位する。後白河天皇である。)、そういった事件が人々の不満や不安を極大にまで膨らませていた。そこで鳥羽法皇の崩御は、膨らみきった風船を破裂させる針のようなものだったわけだ。
鳥羽法皇崩御後、後白河天皇は近臣の信西(しんぜい・藤原通憲(ふじわらのみちのり))の策で、上皇の軍乱の風聞対応として、検非違使・平基盛(清盛の次男)・源義康が消臭され京の武士の集結を勅命で阻止する。法皇の初七日には、藤原頼長(東三条殿・藤原家の長者の住む邸宅)に蔵人・高階俊成、源義朝の兵が乱入し、没官(ぼっかん・謀反人として財産没収する刑)となる。これにより、いよいよ崇徳上皇の地位があやうくなり、崇徳院は京を脱出することとなる。
さて、崇徳院の歌を理解する上では、歴史的な事件を振り返るのは、この辺りまででよいであろう。
この歌は、落語にも取り上げられるほど有名である。初句の「せをはやみ」の冠「せ」、二句「いわに・せかるる」の「せ」が掛かり合って「たきかわの」の三句につながる、名調子だ。「せ」を「瀬」とするならば、通常は川などの流れが少なく、水量も少ない場所、一般的に「淵(ふち)」という。別の意味では、川の流れが急になる場所をいう。この歌の場合、前者であろう。「いつもは渡れるほど浅い瀬が、今日は急に流れが強くなっているではないか」という解釈だ。「瀬」を「急流」と訳してしまうと、「急流の流れは速い」といった当たり前の情景しか描けない。
また、「瀬」には崇徳院の「立場」を意味している。「立つ瀬」のことだ。「立つ」は表面に見えないが、「川」に掛かっていて、「竜田川」を暗喩させる。竜田川は生駒山麓の紅葉で有名な川であるが、この時代に崇徳院がのこのこ奈良まで出かけることなどできようもなく、「瀬」といっても院内の蓬莱池の流れであろう。そこに紅葉を散らしてみれば、そこは「竜田川」となる。
二句「いはに・せかるる」の冒頭詞は「岩」である。水の流れを塞き分けて、流れる紅葉をも分けていく、存在が嫌な「岩」である。ゆえに「異は」、「違背(いは)」という縁語が連想される。それらによって、「せかるる」=「割かれつつある」となる。「たきかわの」は水の縁語で「滝川の」である。しかし崇徳院の寵愛を受けた藤原得子(ふじわらのなりこ)は音読みで「とく・こ」、「立つ瀬」と「たき川」で「竜田川」ができるので、のこりは「たき」である。ここは「とく」と読み替えよう。すると二句は、「異なる意見の者どもに、割かれてしまった得子と私だが」という意味になる。事実、後白河天皇即位で、得子やその父・藤原忠実と弟・頼長の対立が、後宮にまで及び、崇徳院はこの歌にあるように「岩」を厭い、寵愛が崇徳上皇・皇太后・聖子から兵衛佐局へと移る。
崇徳天皇にとって、鳥羽法皇の妃達の織りなす政争は、自身の院政の妨害にしか移らなかったのかもしれない。だから、政争で、皆が「われても」、「末に」=「いつかは」、「逢はむ」=「合うだろうと」=「会えるにちがいないと」、「思う」と言いながら、それは単純に「思い」でしかなく、それがかなうのはなかなか「重い」事柄なのだということだ。
全体を訳してみよう。
「院の池は、急に降り出した雨で、紅葉が散り、溢れる池水が、急流となり流れていく。そこに丁度、岩があって、紅葉を分けて流れていく。亡き鳥羽法皇の待賢門院や、その取り巻きの連中と私とは、同じ池の水なのだが、なんだか近頃は別れてしまっているように思える。何事もうまくいかないのは、この岩のように立ちふさがる、あの者達の思惑なのではないだろうか。それに時間が経てば、やがては末世でわかり合えるかも知れない、そう思うのだが、はたしてできるであろうか。それほどまでに事態は、余裕がないほど急に動き始めている。」
狂歌では「われても」という詞が引用されやすいようだ。
七十七 ばくち打ち 東北院職人歌合
狂)我が恋は 片(かた)後(おく)れなる 双六(すごろく)の われても人に 逢はんとぞ思う
歌合なので、相方は「巫女(みこ)」で、その歌は次のよう。
狂)君とわれ 口を寄せてぞ 寝まほしき 鼓も腹も 打ちたたきつつ
鼓を打ち、巫女が踊る様子と、「われ」=「あなた」の掛けで、唇が接するほど近づいて、夜を共にしましょうか、と誘っている。一方、博打打ちは、「われ」が双六の数字の「われ」と、「われ」=「儂(われ)」で自分を掛けている。