百人秀歌・狂歌解題改 七十三 権中納言国信 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

七十三 権中納言国信

春日野の 下萌えわたる 草の上に つれなく見ゆる 春の淡雪

 

権中納言国信(ごんのちゅうなごん・くにざね)は本名・源国信(みなもとのくにざね)で、延久元年(一〇六九年)生まれの平安後期の公卿・歌人である。村上源氏で右大臣・源顕房(あきふさ)(六条右大臣)の四男、最終官位は正二位・権中納言だった。

堀河天皇の即位と同時に蔵人に任ぜられ、堀河朝の近臣として活躍した。政治同様に歌壇でも活躍し、「堀河百首」を編纂した。また、康和二年(一一〇〇年)に主催した「源宰相中将家和歌合」は有名である。

さて本歌を見ていこう。この句切れの無い歌は、物語が初句から結句(最後の句)まで、流麗に繋がっている。このような歌をどのように見ていくかというと、

「かすかのの・した」

「した・もえわたる・くさ」

「くさ・の・うえに・つれなく」

「つれなく・みゆる・はるの」

「はるのわたゆき・かすか」

というように、句毎の連なりを意識して分析していく。句が次の句の冒頭単語に掛かるというように考える。

一方句切れのある和歌は、そこで物語が途切れるので、そこに感嘆的な、想いがこめられていると考えていく。句切れとは句の沓が「り・し・つ・ぬ・ず・む(ん)」で終わる句があることである。その句が何番目の句かで、それぞれ初・二・三・四・五・句切れと呼ばれる。結句の沓が「りしつぬずむ」であっても、これは句切れ無しである。たとえば、七十二番

「高砂の 尾の上の桜 咲きにけり とやまの霞 立たずもあらなむ」

は「さきにけり」の三句目で句切れているので「三句切れ」という。これは覚えておいて欲しい。

しかし、本歌の七十三番は句切れ無しで、先ほど述べたように見ていくと、それぞれ前の句が次の詞に掛かっていることがよくわかる。

 

「春日野」〜「野の下」〜「下萌え」〜「萌えわたる」〜「わたる草」〜「草の上に」〜「上につれなく」〜「つれなくみゆる」〜「見ゆる春の」〜「春の淡雪」

 

まず風景を映すカメラがあるとすると最初に、春日野全体を映し、そこから野にズーム・インしていくと、野に芽吹き始めた草原が広がっている。そのせっかく萌えた草の上に、平らな何かが見える。さらにズーム・インしていくと、どうも冷んやりとしたもののようだ、おかしいな春だというのに、ああこれが春の淡雪、というものなのか、と感動するというストーリーが表現されている。

 

実は今日(平成二十四年三月二十六日)の晴天時に、雪が舞った。丁度私が外出しているときだったが、少し大きめの海のような雪が空からゆらゆらと落ちてきて、ああ、これが淡雪か、と思った。

閑話休題。本歌が景色を詠んだだけの歌なのかと考えてしまう。争乱の時代に、実に呑気ではないか。折句をみてみよう。

冠・かしくつは

沓・のるにるき(逆によむ)

すなわち、「かしくつはきるにのる」となり、「下賜された沓を履いたところ、体がのけぞってしまった」という意味である。おそらく王家の貴人、天皇か上皇あたりに沓を下賜されたという名誉が、自分が偉くなったように思え、態度に出てしまうということである。しかし歌の表意にあるように、それは春の淡雪のように「つれなく」=「はかない」ものだと指摘している。ここで「はかない」と「沓を履く」の「履く」が表裏で掛け合わさっている。それに二句の「下もえ」と三句の「草の上」で「上下」が掛け合っている。なので「草萌ゆる」という詞が浮かぶ。また初句「春日野」は春の暖かい日差しで霞んでいる様子と、奈良の地名を掛け合わせている。

歌意は次の様になる。

 

「春の暖かい日は、奈良の春日野一帯の野原では、春霞で野焼きでもないのに、靄が燃えるように揺らいでいるだろう。草原も芽吹きだし、いよいよというときに、不思議にも淡雪が舞っている。うっすらと草野に積もる雪はさぞや冷たかろう。大君から下賜された沓を履いて、その様子を見に行ったのだが、皆が霞で見えないものとおもって、つい偉くなった気分で胸をはってのけぞってしまった。思いがけない淡雪のおかげで、赤面した顔を冷やしてくれた。これからは、慢心すること無く政治に望まなければ、良い世にはならないのだと、改めて反省したのだ。」

 

国信は、堀河朝を支えた近臣だ。極めて有能な官僚でもあった彼が、反乱の歌を詠むわけはなく、むしろ忠誠を誓うような意味合いを持たせた歌だと思う。

 

狂歌でも「春日野」を詠む歌は多い。

七十三 四方赤良  才和歌集

狂)春日野の 飛ぶ火のどもり 出でてみよ いいいくかありて わわわかな摘みてん

 

題「若葉」とある。「どもり」というのは「吃音(きつおん)」症という言語障害で、様々な原因と症状があるが、ここではある音、とくに語句の最初の音を繰り返して言ってしまう症状を言っている。

この狂歌は、古今集・春上十八

 

古今)春日野の 飛火(とぶひ)の野守(のもり) 出でてみよ いまいく日(か)ありて 若菜つみてむ

 

の本歌取りの狂歌である。「飛火」は軍事連絡の狼煙(のろし)をあげる番人で、春日野にその烽(とぶひ)施設が和銅五年(七一二年)から置かれていた。古今集の歌意は、次の様なものである。

 

「春日野にある烽の役人よ、外に出て春の様子をみてくれ。あと何日すれば、私たちは若菜摘みに、そこまで入っていっていいのかい?」

 

赤良の狂歌の方は「野守」と「どもり」が掛かって、下句は「どもり」の症状で、支離滅裂なっているわけだ。病気を笑ってはいけないけれど、妙におかしい。