百人秀歌・狂歌解題改 六十八 左京大夫道雅 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

六十八 左京大夫道雅

今はただ 思ひ絶えなん とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな

 

左京大夫道雅(さきょうのだいぶ・みちまさ)は藤原道雅(ふじわらのみちまさ)で、平安中期の公卿・歌人である。儀同三司・藤原伊周の長男で、儀同三司母は祖母にあたる。また一条天皇中宮定子の甥となる。祖父・関白道隆に寵愛されて育つが、祖父が死去した後、長徳の変で父・伊周が大宰権帥に左遷され、実家の中関白家が没落する中、青年期を過ごす。十四歳で敦成親王(後一条天皇)の侍従となり、近衛筋を歩む。後一条天皇践祚(せんそ・皇位を嗣ぐこと)の労ありとして、蔵人頭まで上るが、従三位に叙位され、何故か、たった八日間で蔵人頭を更迭された。そして、無役となったためか、伊勢斎宮を退き、帰京した当子内親王と密通し、これを知った内親王の父・三条院(三条上皇)の怒りに触れて、後一条天皇の勅勘として閉門・幽閉された。当子内親王は恋人に会えないつらさから病を得て出家した。道雅が二十五歳の出来事である。その後、左近衛中将・伊予権守の官位につく。

万寿元年(一〇二四年)の冬、花山法皇の皇女である上東門院女房が、夜中の路上で殺される事件があった。翌年犯人が捕縛されたが、犯人は道雅の命令で皇女を殺害したことを自白するものの、確たる証拠もなく、道雅の関与は不明だったが、官位は剥脱、右京権大夫に左遷された。寛徳二年(一〇四五年)左京大夫に転じるが、従三位から昇進できぬまま、天喜二年(一〇五四年)に出家し、その直後に死去した。享年六十二歳だった。

この歌は、後拾遺和歌集の前書きに「伊勢の斎宮わたりよりまかり上りて侍りける人に、忍びて通ひけることを、おほやけも聞こしめして、守り女など付けさせ給ひて、忍びにも通はずなりにければ、詠み侍りける」とある。まさに、当子内親王との密会が適わなくなった頃を思い出して詠んだ歌、または当時に詠んだ歌をひっぱりだしてきたのか、どちらかである。ただし、初句「今はただ」という詞が強烈で、年をとって、もう昇進の望みもなく、死ぬるだけだと思った老人が、昔の胸ときめく思い、そして無慈悲にも亡くなってしまった恋人を思い出した、そんな印象を受ける。歌意は次の通りである。

 

「今でも、あなたへの想いが少しでも絶えないようにと祈っているのだが、あなたはもうこの世においでにならないので、人伝に文を交わすこともできません。ちかいうちに、あなたの側に参って、直接申し上げましょう。」

 

さらに、この歌は折句の沓冠のタングラムもできている。

冠・いおとひう

沓・たんをてな

これらの文字を入れ替えると、「いとうひお、なおたてん」=「厭う日を、名を立てん」となる。官名だけで仕事もなく、貴人達との交流も少なく、それが何年も過ごしたとなると、日々過ごすことが嫌になるだろう。何らかの形で、自分の名を高め、中関白家を再興したいという思いが、この歌にも込められていて、あの当子内親王との恋愛が、懐かしくもあり、過ちでもあったとそう感じていたのではないだろうか。

 

六十七番と六十八番の歌では折句がタングラムになっている。しかも貴族の喜悲感を盛ったこれらの歌を、定家は意図的にペアにした。幾万とある歌の中から撰ぶのだから、定家の能力の高さもよくわかる。

 

「今はただ」という詠み出しは狂歌にもよく使われている。

六十八 伯水  銀葉夷歌集

狂)今はただ 恋しゆかしや なつかしの 死の字ばかりを 待つ身なりけり

 

題は「逢後不逢恋」である。昔は逢ってばかりだったのに、今は逢えなくなってしまった恋を詠んだ。作者は大阪の住人、住友友信である。上句に三つの「し」があり、すぐにも死んでしまうという隠句になっている。下句にそのヒントが詠まれている。

おそらく、左京大夫道雅の老後はこのような心境だったではないかと想像している。