百人秀歌・狂歌解題改 六十 清少納言 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

六十 清少納言

夜をこめて 鳥のそら音(ね)は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ

 

清少納言は平安中期の文学作家である。父は清原元輔、曾祖父は清原深養父である。一条天皇の中宮・定子に仕え、和漢両方の才を発揮し、可愛がられた。「枕草子」「清少納言集」などの著作、そのほか後拾遺和歌集などの勅撰和歌集に撰歌されている。「枕草子」を読むとわかるが、様々な場面で、第三者と作者との会話で歌が詠まれていく。たとえば、二九八段では、「便りの届かない所なので、人に物を伝えることができず、胸が苦しくなるのは、いったいどうしたわけでしょう」と聞かれたから、

 

枕草子)逢坂は むねのみつねに はしり井(い)の 水(みつ)くる人や あらんと思へば

 

と詠んでいる。「逢坂の坂は急なので、胸の動悸が音を立ててしまう。それは井戸の水を汲み上げる人が、自分の中に居ると思えばいいのではないかしら」という意味である。

「枕草子」は、こういった調子で、清少納言のきっぱりとした性格が、この随筆に表れている。漢詩的なので、わかりにくい部分が多く、読みづらい部分もあるが、なれれば逆にすがすがしい。

さて、本歌をみていこう。この歌はかなり難しいから、順番に解きほどくしかない。

まずわからないのが「こめて」だ。おそらく「込む」と思われるが、「〜を〜して」といった用法は平安中期にはない。「〜に〜して」ではないところが、斬新なのかもしれない。とにかく、「込む」は「複雑に込み入った様」を意味し、「夜を込めて」で「夜になっても込み入ったままなので」という意味だとしよう。

次の「鳥のそら音」は「鳥が天空を飛ぶ音」か。そのような音が聞こえるわけがないから、この解釈は違うだろう。「そら」=「虚」、なので「鳥が天空を飛ぶ音のように聞こえてしまう音」の方が確からしい。

「はかる・とも」は「企てたとしても」という意味で良いだろう。すると、その前の句の「音(ね)」が問題となる。「ね」=「根」、なにかしらの原因となる根本を意味しているのか。上句だけ訳してみよう。

 

「世の中がだんだんと複雑になってきて、本来なら存在しないはずの、夜の天空を飛び回る鳥の音のように、何物かが謀を企んでいたとしても」

 

これで歌の最後の「ゆるさじ」という強い調子の句につなげることができる。「よに」=「世に」、「良に」の二重に「関」=「関守」に掛けている。訳してみよう。

 

「世に知れ渡った京へ入る逢坂の関の番人は、そのような企みも見逃さず、しっかりと捕まえてしまうだろう」

 

清少納言の歌全体にいえるが、上句は難解、下句は平易だ。これで下句も難解だったならば、お手上げだし、普通の人では詠まれてもピンと来ない。だから下句は平易にして、なるほど、と感じさせるという技術である。したがって、上句を理解するためのヒントが、下句には散りばめられている。

実は私も下句を先に見てから、上句の解釈に入っているので、これは漢詩の読み方に似ていると思う。不可解な問題に出会ったら、とりあえずわかる部分から見ていく。そして全体像を把握してから、細部を見ていく。こういった方法は、古文だけでなく、すべての「理解方法」として有効である。

 

狂歌には次の歌を選んだ。

六十 松平康福(やすよし) 耳袋

狂)世を荷(にな)ふ 心は広し あめが下 豆腐に石も 時の釣り合ひ

 

康福は老中で、石見国浜田城主である。老中に任じられていた期間が宝暦十二年(一七六二年)から天明八(一七八八年)までだった。

「あめが下」は「天下」、「豆腐に石」=「天秤棒の片荷に豆腐、その釣り合いをとるためにもう片方に石を担いでいる様」、豆腐と石で、柔らかい物と硬い物を対比させている。

この歌は、康福が上野寛永寺へ将軍代参のため早朝に赴くと、寺内へ豆腐を入れている商人が、岡持を入れた豆腐と、片方に重しの石をつるして担いでいた。奇妙に思って、駕籠脇の侍にたずねると、荷が一つしか無いときは、ああやって担ぐのだと教えられた。康福はこれを面白がって、この狂歌に仕立てた。

歌意は、「天下を治めるためには柔軟織り交ぜた均衡が重要であり、政治の要諦だ」。実は、この歌を掲載した「耳袋」の著者・根岸鎮衛・肥前守は明和五年(一七六八年)に江戸奉行から若年寄となった。当時奥勤めと御用財政をあずかっていたのが水野忠友で、ばらまき財政のおかげで、大奥の評判も良く、台頭著しかった。根岸も康福も忠友のことを苦々しく思っていたため、この狂歌が現代にまで伝わっている。

その水野忠友は寛永八年(一七九六年)に老中に登用、享和二(一八〇二年)に死去するまで財政出納を司った。わかりやすく言えば、田沼意次の部下的な立ち回りで重商主義政策を展開し、田沼失脚後、一時期松平定信によって免職されるが、徐々に大奥を中心に挽回していき、老中になった。ゆえに、康福や根岸にしてみれば一度失脚した奴が、なぜのこのこと出戻ったのか、と思っていたに違いない。結果として、幕府の財政が著しく疲弊していくきっかけを作ったのが、水野忠友なのである。