住之江の 岸による浪(なみ) よるさへや 夢のかよひぢ 人めよくらん
作者の藤原敏行は書家としても有名な平安初期の人である。在原業平と同様に、近衛中将、蔵人頭といった武門派だ。業平の妻と敏行の妻は姉妹であったから、義理の兄弟同士で、なおかつ同じ役職官僚という間柄だった。その妻らの父親は紀有常で、摂津国の水郡神社の神主である水郡氏はその後裔である。そして、冒頭の「住之江」は摂津国にあり、現在の大阪市住吉のことである。また「住之江」は「澄んだ入り江」の意味でもあり、特定の場所を示さない場合もあるが、この歌は作者との関係上、「住吉」の入り江と考えるのが妥当である。
歌意。
「住之江の岸の波は、夜でさえも寄せているのか。だから夢の中でお前の元に通う路でさえも、人目を避けてしまうのだろう。」
「よるさへ」は「夜でさえも」、「や」は疑問係助詞で「~するのか」と言う意味である。「よく」は「避(よ)ける」の終止形。「らむ」は推量助動詞連体形で、「~や~らむ」のように使われる慣用句の結詞である。多くの解説で、この歌は女性が男性に対して詠んだものとして解釈されているが、先にも述べたように、敏行が妻の実家のある住之江に通う姿を実直に詠んだ歌だと私は考えている。それというのも有能だった敏行であっても、所詮地方官僚の子で、紀家の娘と恋仲になるのは、なかなか世間の目が厳しかったろうと推測されるからだ。ましてや、恋人の姉は高貴な血脈の在原業平の妻なのだから。そういった気後れなどから「人目を避ける」という心情を察する事ができる。
もう深読みしてみると、「住之江の岸の浪は夜でさえもうるさく寄せているから、人目を避けるためには、夢の中だけでしか通えないのだよ」という風にも受け止められる。「岸による波」というのが「紀氏に寄る並」の人物、そして「寄る左衛(門)」=「寄る警察」に通じ、紀有常も近衛省などの武官を歴任していて、敏行の上司にもあたり、和歌仲間の先輩だったので、その上司の家は当然人の出入りが昼夜を問わず多く、なかなか恋仲である有常の娘に逢うことができない、そんな思いも隠れていると考える。
「ひとめ・よく・らむ」は確かに、「人目を避けてしまうのだろう」といった解釈が正答だが、「ひとめ」=「一目」に通じ、「よく」=「欲」と考えると、「夢の通った路のなかだけでも、一目お前に会えたら良いだろうに」という強い思いが感じられる。裏の解釈をまとめると次の様になる。
「お前の実家のある住之江は、昼夜を問わず人の出入りが激しくて、なかなか会いに行くことができないから、せめて夢の中の道すがらでも、一目お前を見ることができたら、なんとよいことか」
こちらの真情の方が真に迫っている。この和歌を受け取って、ここまで読み取ってくれたのならば、詠んだ方の気持ちとしては最高に嬉しいだろう。また、そういった裏の心が隠れているからこそ、名歌として残っているのだ。
さて、狂歌である。「住之江」で始まる歌を見つけられなかったので、「住吉」あたりで面白い物を書き連ねる。
十一 一休和尚 醒睡笑
狂)住吉と 人はいへども 住みにくし 銭さへあれば どこも住吉
これは一休が、大阪の住吉にある松栖庵(しょうさいあん、一説に「牀菜庵」)に住んでいたときに詠んだ歌だ。訳など全く必要の無いほど、単純な歌に、おもわず笑ってしまう。詠まれた時期が文明元年(一四六九年)であるから七十六才ぐらいの頃である。これくらいの歳になると、こねくり回して抽象的になるのだが、逆に一切を捨て去って単純化した歌と、そのリズム感や、詞の強さなどが、輪郭が明確になって美をも感じさせる。
同時期に、堺(堺も当時は住吉の一部だ)の人が次の歌を一休和尚に送った。
狂)あたら身を 深山の奥に すまあせばや ここは憂き世の 境せばきに
この送歌は伝聞に異聞(歌の詞が変わってしまっている)が多いが、その中でも、この歌がいちばん良いと思う。「あたら」は「高貴なものを粗末にあつかってもったいない」という意味。その「身」なので、「高貴な身分でいらっしゃるのに」といった解釈できる。「深山」といっても全く山中ではなく、基本的に僧呂が居る場所は、「山」で「深(み)」=「御」に通じ、一休和尚が住んでいる庵を丁寧に指している。「すませばや」は「住む」と「澄む」の掛詞で、本歌の歌が念頭にあったのがうかがえる。「境(さかい)」は庵のある「和泉の堺」にかけていて、「狭い場所なのに」といって一休の苦境を見舞っているのだ。
これへの一休からの返歌。
狂)人目をも 恥をも身をも 思はねば ここも深山の 奥とひとしき
この一休の返歌のすばらしさは、見事としか言いようがない。「~をも~をも~をも~ねば」というたたみかけが、心地よいではないか。まず「人目」ときたところで、送歌の本歌の下句の中心となる詞を冒頭にもってきて返している。この部分が最高に素晴らしい。それで「人目や恥や自分の身の回りに気を配ることなどしなくても、ここは既に神聖な庵で十分に修行の場ではないか。(ご心配にはおよびません)」と言っているのだ。「憂き世」のことなんて俺には関係ないよ、と言いたかったのだろう。堺の人の気持ちもわからないではないが、一休(宗純)は臨済宗の僧侶(禅僧)だが後小松天皇の落胤ともいわれながら、禅宗を広めた大人物なので、あまり大騒ぎしないでくれ、というのが本音だったのだろう。
面白い話と言えば、彼が友人の本願寺門主蓮如の留守中に居宅に上がって、蓮如の持念仏(阿弥陀如来像)を枕にして昼寝をしていたところ、蓮如が帰ってきて「俺の商売道具に何をする」と言って、二人して大笑いしたという話。
一休和尚の狂歌、風刺は単純だが鋭い、そして面白い。上の話も、仏教の本質を実は捉えていて、次の狂歌をみてみよう。
狂)南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃ こうじゃと 言うが愚かじゃ
この歌は、坊主の馬鹿さを痣家笑っている。僧侶が説くすべてが、生きることの何の役に立つのか、と言いたいのだ。こういった言動は「禅」というものの本質でもある。カントの「純粋理性批判」ではないが、否定して行き着く先に見えてくる物こそ、本物だという思考方法である。その精神が現れているのが
狂)釈迦という いたづら者が 世にいでて おほくの人を 迷はすかな
狂)門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし
狂)女をば 法の御蔵(みくら)と 言うぞ実に 釈迦も達磨も ひょいひょいと産む
狂)世の中は 起きて稼いで 寝て食って 後は死ぬのを 待つばかりなり
このような仏教非難の狂歌が多数ある。面白いが、背筋がぞっとするのは、人の生き死にだけでなく、生活の苦しみ楽しみを自らのものとして禅僧たらんと思考した結果なのだろう。