百人秀歌・狂歌解題改 七 参議篁(小野篁) | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

七 参議篁(小野篁)

 わたの原 八十島(やそしま)かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣り船

 

小野篁(おののたかむら)は書道の達人三蹟のひとり、小野道風(おののとううふう)の祖父で、遣唐使で有名な小野妹子の子孫である。平安前期の有能な官僚だったが、遣唐使の正使役職をめぐる政争で敗れ、その腹癒せに政府批判を行ったところ、嵯峨上皇の怒りをかい、官位剥脱された。しかし二年後、許されて本位に復し、参議にまで上りつめた。

さて、和歌の内容を見てみる。「わたの原」は「海の原」と書き、「海原:うなばら」、海のことである。「うみ」と直接的な詞使いは、「産み」「膿」という詞に通じ、「わた」=「和やかな、たおやかな」海の状態を示している。

「やそしま」というのは「多くの島々」と解釈されることが多いが、直接的には「八十島」で、日本の国そのものを示す。「かけて」は、「駆け」「欠け」「書け」「架け」「賭け」といろいろと考えられるが、「懸け」と考えるのが一番妥当ではないだろうか。というのも遣唐使正使を藤原常嗣に専横され、頭に来て乗船拒否した篁のことだ、その恨みをこの歌に込めているのではないだろうか。だからこそ、後世に残されていると。そういった解釈で訳してみよう。

 

「和やかな海原に、我が国の繁栄を懸けて漕ぎ出でようとしているのに、この志をどうか都の人々に伝えてくれないだろうか、海の民達よ」

 

「海人」=「あま」=「天」と通じるので、単に「漁師」と考えるのは単純すぎる。なぜなら、下句の最初に「人には告げよ」とあり、その「人」が誰なのかということを考えなければならない。世間一般の人々という風に考えるがいちばん妥当かも知れないが、まずは政争を見守っている都の朝廷貴族や官僚を指していると考えるべきだろう。実際には乗船を拒否し、遣唐副使の役職を擲ってしまっているのだから、この句を詠んだのは、都の邸宅内にちがいない。だから目の前に海があり、乗船しているわけがない。だからあくまでも、自身の矜持としての海原の心象が描かれている。

 

狂歌には次のようなものがある。。

七―一 花道のつらね(五代目市川團十郎) 三升屋二三治戯場書留

狂)和田右衛門 八十助かけて 漕ぎ出でんと 人には常世 真間の釣り船

 

和田右衛門、八十助、常世の三人と真間(まま)の当たりに釣りにでかけた、という話だ。語呂合わせだけのもじり歌である。「真間」というのは現在の千葉県市川市で、真間川という名前の川があり、国府台には弥生期の大集落があり、万葉期にも栄えた場所だった。また「真間の手児奈(てこな)」の伝説もあり、山部赤人などが万葉歌に吟じている。

 

七―二 詠み人知らず かさぬ草紙

狂)関ヶ原 八十島親子 逃げのびぬと 人には告げよ あまの命を

 

関ヶ原の合戦時、石田三成の家老に八十島という武士がいて、敗戦が明らかになると、この歌を詠んで、親子連れだって甲冑具足を脱ぎ捨て、蓑と笠を着て、農民に扮して戦線を離脱し、逃げ延びたという、いわゆる落首(はやり歌)である。

 

 

 

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