南総里見八犬伝 三 第五輯第一巻第四十回 その4 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

 そこに、正面から一つの叢黎(むらくろ)い松影から、一人の曲者が現れた。頭に手拭いの撚り鉢巻をして、腰に一口の短刀(のたち)を横たえ、右手に八九尺になる長櫂(かい)を脇に挟んで、柿色初めの筒腹被(つつはらがけ)の、小鉤が数多くあり、諸肩脱いで、単衣の両袖を前で結んで、毛脛もあらわに、衣の裾を片端折りして、身軽な出立で、鬢は白く、顔は赤黒にして、山猿が暴れるように、骨は太く、肌は黒斑にして、水の神が祟るのに似て、大きな道も狭いと感じるように立ち塞がるので、これを見れば、起これば船をひっくり返し、家をも倒すという、暴風(あかしま)の通り名の、舵九郎、その人だった。この時、暴風舵九郎は、もっていた櫂を取り直して、横たえながら、また押し立てて、酒気を漂わせて、声高やかに、
 
「これはまた、盗人共、遅かったな。お前等は既に悪事の中身を、私に知られてなじられて、後家と一緒に逐電しようとしているのか。そうだろうと思っていたから、仲間の誰も彼もと計らって、門には犬をおいて、道には目星を楯置いて、夜道を懸ける道筋を、この街道だと嗅ぎつけて、先へ回って張っていた網に、宿栖(ねぐら)も無い、旅烏、捕らえて締めるのは容易なこと、逃げられないと観念して、女を渡して、早く死ね。逃げようとしても逃がさんぞ」
 
とほざきにほざいて、睨んでいた。照文はこれを聞き終わらぬうちに、
 
「何度も懲りない不敵な悪者よ、今、禍の根を断たたなくても、地方(ところ)の患(うれい)は何時かは取り除かれるだろう。しかし、刀を汚すのは惜しいが、望み通り、いざ目に物見せようか」
 
と息巻いて猛々しく向かい進むと、刃を晃(きら)りと引き抜けば、舵九郎は声を上げて、
 
「皆々、出てこい」
 
と呼び立てると、
 
「わかった」
 
と左右から、高萱(たかかや)の中から、小松の影から、三人、五人と、折れた櫂や磯刀などを引き下げた、多くの悪党が続々と、螽(いなご)のように、躍り出て、既に照文等を取り囲んで、打ち倒そうと競いかかれば、照文は少しも疑わずに、前後左右に引き付けて、面も振らず戦っていた。その間に文五兵衛へ、大八こと親兵衛を、妙真に抱かせて、
 
「小児と婦人は特に危ない。依介を連れて、旧の道を市川の方へ退きなさい。さあ、急いで」
と言ったものの、後方から一隊の悪党が突然と現れ出て、ドッと喚いて、撃とうと競うのを、文五兵衛はキッとみて、これでは逃げられないとして、妙真を背後に立たせて、旅刀を打ち振るい、しばらく防戦していた。老人ではあるが、旧より町人ではないので、撃刀(うったち)の操作は法にかなっていて、敵は荷三人浅手を負っていても、多勢を頼みとして物ともしなかった。依介はまた文五兵衛がしくじらないことを怖れて助けようと思うのだが、自分は刀すら持っていないので、妙真が捨てた杖を振り上げて進んでいた。この時も照文は、すでに三人を切り伏せて、五人に深手を負わせたのだが、敵は目に余る大勢なので、後方を振り返る暇もなかった。また舵九郎に近づこうと思うのだが、さらに押し隔てられ、進退自在を得るまでには到らなかった。
 
 少しして、依介は、文五兵衛と並んで、しばらく敵を防いでいたが、手には一本の杖だけなので、三方から打ち閃かす、敵の武器をあしらうことが出来なくて、眉間をパッと傷つけられて、痛手だったので、少しもこらえられずに、サッと迸(ほとばし)る鮮血(ちしお)とともに、
 
「あっ」
 
と叫んで倒れてしまった。文五兵衛はこれを見て、頼りに憐れむ老人の、勇気も腕力も衰えて、防ぐのが難しいと思ったが、後ずさりして妙真との間が遥かになったところ、好きを窺う舵九郎は、薄暗いところから走って来て、声もかけず妙真を、親兵衛諸共しっかりとだいて、
 
「ああ」
 
と叫ぶ身を悶えて、振りほどこうとしたのだが、声をふり絞って、泣く稚児(おさなご)の、枷となって、なすすべもなく、片手に笄を抜き取って、舵九郎が抱いている腕を、骨までも通れ、と丁と突いた。裏を掻くまでにはならないが、さすがに痛みに耐えられなく、驚き怒って、すぐに、
 
「これは、何をするのだ」
 
と体を震わせて、組んでいる両手を解いたので、妙真は稚児を、片に揺りかけ、一足早く逃げだそうとするのを、逃がさないようにして、躍りかかって、大八こと親兵衛の肩先を丁と掴んで引き寄せて、枝の木の実をもぐように、押し放ち、搔き攫って、左の脇に取り込んだ。妙真は稚児を、略奪されてなかなか、逃れる道もなくなって、
 
「なんとか親兵衛をとりかえさなければ」
 
と思うが、少しも揺らがず、
 
「なぁ、むじんよ。幼き者に、怨みもないであろう、罪もないでしょう。むごいことをする人よ、返せ、戻せ」
 
と叫びながら泣いて、引き留めようと立ち縋ると、
 
「邪魔するな」
 
と蹴り倒して、畷(なわて)の方へ横たう道を、一町あまり、はしると、妙真はすこし身を起こして、なお追留めようとしつこく来るのを、舵九郎は振り返って、朽木の株に腰を掛けて、小脇に抱えた稚児を、手玉のように投げ上げて、地上へどっと落とすと、息も絶えるように泣き叫ぶ、声をたよりに薄月夜、妙真は転がるように、喘ぎつつ近づくと、舵九郎は稚児を、また引き寄せて動かさず、
 
「尼よ、まずよくこれを見よ。俺の心に従わなければ、この餓鬼はすぐにでも寂滅為楽(じゃくめついらく)だ。また同行の三人は、なかまの者どもに任せたから、一人も生きてはかえらないだろうよ。岡へ埋めた死日殿延喜も、あれもこれも打ち明けて、今から一度と頼むならば、市川へ連れて帰って、今宵を現世と未来の事始めとしよう。そうすれば餓鬼は下にも置かず、乳母日傘で、饅頭の皮をむかせる栄耀(えよう:ぜいたくなこと)の上盛をさせよう。否といえば、この雑魚を塩辛にして酒でも飲むか。心を決めて返答せよ。返答無ければこの餓鬼を」
 
と手頃の石をつかみ取って、胸前を打とうと振り上げると、妙真は、
 
「ああ」
 
と言うと、見るに目もくらみ、心も消えて、叫ぼうとするが声も出ず、留めようとするのに腰もたたず、小草の上に身を投げ据えて、共に死のうと泣き沈んだ。[関東の習俗で、小児を罵って餓鬼という。それを食として求めることは、やむをえない時に行われていた]
 
 その頃、照文は二十余人の悪党を、八方へ斬り散らして、文五兵衛は諸共に妙真の往方を捜索し、少しこのこの所へ走り来て、折から雲間から見える月影に、遥かにみえる妙真は、道の辺に伏していて、舵九郎が押し仰向けた、稚児を左手に押さえて、右手には石をつかみ取って、今すぐにでも打とうと振り上げていた。両人は同時に驚き、怒って、
 
「おい、ちょっと待て」
 
と叫びつつ、すぐに走り近づいたが、もはや人質を取られていたので、どうしようもなかった。派を食いしばり、拳をさすって、瞬きもせずに睨んでいた。舵九郎はこれを見て、顎をあげて口を開いて、転がるように笑い出して、
 
「お前等二人とも、まだ死んでいなかったのか。一歩たりとも近づけば、この石で、餓鬼を一打ち、尼は泣き叫んでよく見えないだろう。雲の天幕、草木は桟敷、このような野ひろき舞台で、見物する者がいないのは、張り合いが無いな、と思っていたら、やってきたな。それでは七種のように打ちひしがれるか、碪(きぬた)で内押方つけようか。望みのまかせるぞ。さあ、どうする」
 
とあくまであざけり、愚弄するが、照文も文五兵衛も、隙があれば親兵衛を、救いとろうと思うだけで、言葉を再度交えることなく、言い合わせなくても、神仏の感応冥助(かんおうみょうじょ)を黙禱して、怒りを堪えて、心を苦しめ、立って並んで見守る、間(あわい)四、五十歩に過ぎなかった。
 
 舵九郎は、既にこのように侮り傲る残忍不敵の、興にまかせてまだ打たず、そしてかやかやとあざ笑って、
 
「そろいに揃って腰抜けでも、お前等両人まだ死んでいないのは、後家の数珠を斬りたいのか。ならば餓鬼を先に料理しようか、拳の冴えをよく見ていろ」
 
と再び石をとりあげると、妙真はただ手を上げて、
 
「ああ、ああ」
 
と泣き叫ぶ、その声は裏悲しく絶体絶命だった。照文も文五兵衛も、もう堪えられなくなって、小児を打てば答(とう)の大刀、讐をどのように逃がすべきか、唐竹割りにしようと、刀の柄に手をかけて、走り進もうとすると、舵九郎は持っていた石を閃かしながら、稚児の胸を目掛けて打とうとすると、おもわず拳が来るって、地面をハタと打ってしまい、怪しみながら慌てて、粉々になれとまた振り上げると、たちまち腕が萎え痺れて、自分を忘れて呆然として、頂の上に雲がたなびいて、一朶(いちだ)の村雲がたなびき下ってきて、稲光が凄まじく、風がまたサッと音をたててきて、石を巻き、砂を飛ばして、草木をなびかせるほどの鳴動で、明るくなり、また暗くなり、雲を次第に降りてきて、大八こと親兵衛を、引き包むように見え、すでに中点へ巻いて登ると、舵九郎は我に復って、驚き慌てて両手をあげて、稚児を取られまいとして、踊り狂ってハタと地面に転ぶと、足は逆さまになって、体は地面を離れ、雲の中に何かがいて、逆さまに引き上げるように、地誌をがサッと滴って、舵九郎は尻から鳩尾の辺りまで、ざぁっと引き裂かれてしまい、骸がドッと落ちてきた。このような奇特に照文も、文五兵衛も進むことが出来ず、呆然と後方から、先ににげた悪党四五人が、なお悔しいと思っていて、船棹、矠(やす)、藻刈鎌(めかまがま)、それぞれ持った得物を閃かして、不意に起きて打とうと進むのを、照文は素早く振り返って、大刀を真っ向に抜きかざして、縦横無礙に斬り立てれば、文五兵衛も並んで、再び刃を振るって、両人は同時に敵を、瞬く間に斬り倒すと、残る奴は舌を振るって、刃を引いて逃げはしるのを、三反ばかり追すてて、もとの所にもどってみると、風は収まり、雲は晴れて、傾き沈む五日の月の影だけが幽かにのこっていたのだった。
(その4 ここまで)
(第四十回 ここまで)