承久記(前田本) 現代語訳 尾張の国にして官軍合戦の事 13 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

尾張の国にして官軍合戦の事 13
 
 (承久三年)六月五日の辰の刻(午前八時頃)に、尾張一宮の鳥居の前に、関東の両将の北条時房、北条泰時以下、皆控えており、手勢を分けていた。
 
「敵、既に尾張、三河等に向かっております。大炊渡から中山道の敵に手を付けるべきです。宇留間渡には森入道を。池瀬(いきがせ)には足利武蔵前司義氏、足助冠者を。板橋には狩野介入道を。大豆戸は大手の正面として」
 
結局、武蔵守泰時、駿河前司義村は伊豆、駿河領国の軍勢が馳せて戦懸かりとなり、いよいよ雲霞の軍勢になってきた。
 
 墨俣には、北条相模守時房、城介入道等、遠江国の軍勢、十島、足立、江戸、河越の軍勢が武装して向かい合った。手勢を分隊している時に、
 
「軍は中山道の敵を待って、所々で矢合させよ」
 
と武蔵守泰時が下知した。大塩太郎、浦田弥三郎、久世左衛門地王、渡々に寄せていったが、中山道の敵を待って居たところに、大豆戸の手勢が、敵に向かったと見えたが、大将の許しがないまま、勝手に河を馳せ渡って、やがて戦って帰ってきた。
 
 武蔵守泰時は、これをみて大変叱って、
 
「戦をするのは状況によるのだ。そうでなければ、押せよと合図をしている意味が無い、戦を始めて川渡を騒がす事は、事を後ろ前にして、間違っている。何度も言うが、不当な行いである」
 
と述べたので、鎮まった。
 
 ここに、京方から朝夷奈三郎平義秀と名乗って、矢を一本を武蔵守の陣の中に射(い)渡してきた。取ってみると、十四束二つ伏(ぶせ)(長い矢の事、遠距離用の矢)だった。北条泰時はこの矢を見て、その長さに笑って、
 
「朝夷奈は弓は上手くないようだな。矢束十二束の長さに少し長い程度だ。これはこちら側を驚かせようと、謀ったのだろう。誰か、射返すべきだ」
 
と述べると、駿河次郎泰村が仕ろうと名乗りを上げた。泰時は、
 
「そのようにいたしましょう。こちら側の遠矢は素晴らしい者がおります。河村三郎よ、この矢を射返してご覧にいれよ」
 
と言って、射返したのだった。
 
 また中山道の手勢の中に関太郎という者が、
 
「敵が来た」
 
と聞いて、三つの分隊が一つになって、そこに向かった。小笠原次郎長清父子八人、武田五郎信光父子七人、奈古太郎、河内太郎、二ノ宮太郎、平井三郎、加々美五郎、秋山太郎兄弟三人、浅利太郎、南部太郎、轟木次郎、逸見入道、小山左衛門尉、伊具右馬入道、布施中務、阿蘇四郎兄弟三人、甕(もたい)中三、志賀三郎、塩川三郎、矢原太郎、小山田太郎、弥五三郎、古美田太郎、千野太郎、黒田刑部、片桐三郎、長瀬六郎、百沢左衛門、海野、望月、山から馬を走らせて、栂野(つがの)の大寺で対敵すると聞いて、駆けつけてみたが、人が一人も居なかった。
一つ河原という所で布陣して、三つの分隊が一隊と寄り合って、戦の評定をした。そして、明日大炊渡を渡ろうと各々休んでいたところ、武田五郎信光が、
 
「翌日とは聞いておりますが、目の前の敵を、一夜そのまま逃すのですか。人は知りませんが、私は、今日この河を渡ります」
 
と言って、立ち去り、武田小五郎と合図をして進軍していった。
 
 「第二陣の分隊が進んでしまえば、先陣や後陣も控えているわけにはいかない」
 
として、同様に進軍していった。河端に進んでみれば、敵は河端から少し、引き上げて布陣しており、川岸に船を伏せて逆茂木(さかもぎ:敵の方に先端が鋭い木を向けて、侵入できないようにする防御柵)を構築していた。したがって、簡単に河を渡ることはできなかった。
 
 河上左近、千野弥六、常葉六郎、赤目四郎、内藤入道是常等が河を渡っているのを見て、敵の方から武者が一人やってきて、
 
「一番に渡ってくるのは誰だ。こちらは、信濃国の住人諏訪党の大妻太郎兼澄である」
 
と名乗った。
 
 「板東から取り敢えず上ってきた、東国の住人河上左近、千野弥六」
 
と答えた。大妻兼澄は、
 
「それでは一家であろう、千野弥六を大明神に許し奉ろう。左近尉を申し受けよう」
 
と言って河へ、ザッと進入した。千野は脇目もふらず、喚いて駈けた。
 
「お前こそ、明神の許に奉れ。馬をもらおうではないか」
 
と切付(きっつけ:馬の下鞍の一部)の部分の羽がかかるまで矢を射たのだった。
 
 千野は逆茂木の上に降りたって、大刀を抜くところを、歩いてくる武者を討ち、首を捕った。常葉六郎も続いて、寄せてくると五人を討ち合い、首を捕った。赤目、内藤は、これも馬の腹を射られて、徒武者(かちむしゃ:徒歩の武士)のまま、河を渡り、向こうの岸に渡着いた。敵はこれを知らないままだったので、射られなかった。
 
 武田五郎が渡ろうとしていたところ、武装して渡る輩、同じく六郎、千野五郎太郎、屋島次郎、轟木次郎五郎を先頭として、百騎ばかりが、河浪を白く蹴り立てて、渡り始めた。
 
 敵(京方)はこれを見て、河岸に進軍し、矢先を揃えて雨が降るように射竦めさせると、河中で進軍が停止した。武田五郎信光は、鞭を揚げて河の東岸に控えて、鐙(あぶみ)を踏ん張り、
 
「どうする小五郎。日頃の口にも似ず、敵に後ろを見せて東へ引き返すのならば、信光はここでお前を殺すぞ。ただその河中で死ねや、死ねや、戻るな」
 
と叫んだ。
 
 武田小五郎信政はこれを聞いて、
 
「ただ死ねや、死ねや者ども」
 
と叫んで、一鞭打った。百騎余りが同じ頭にしたがって、駈け渡った。船も逆茂木も蹴散らして、衛兵を並べて向かいの岸へとすかさず駆け上った。父・信光はこれを見て、
 
「小太郎信政を討たすな」
 
と言って、一千余騎を馳せ渡した。
 
 小笠原次郎長清、小山左衛門が、これを見て、鞭を揚げて駈け追いついた。これを始めとして、中山道の分隊五百余騎、旗頭をひとつにして、一騎も残らず河を渡った。大内駿河大夫判官維信、筑後左衛門有長、糟屋四郎左衛門久季を始めとして、勇気のある武士は、返し合わせしながら戦い、落ちていった中でも、帯刀左衛門は帰し合わせて、深入りしてしまい上野太郎に討たれてしまった。
 
 美濃蜂屋冠者、これも深入りして伊豆次郎に討たれてしまった。犬嶽小太郎家光という者は、思い切って返し合わせ戦をしたが、信濃国住人岩間七郎と組んで落ちたところに、岩間の子息二人がやってきて犬嶽は討たれてしまった。
 
 筑後、糟屋大将は、しばらく堪えていたが、大勢に寄せられて、力なく落ちてしまった。大妻太郎ははじめから命を惜しんでいるように見えていた。大事の手負いでも落ちなく、長野四郎と小嶋三郎と三人連れていたが、小笠原六郎はそれより、まっすぐに突撃しようとするのを見て、大妻が、
 
「兼澄(自分の事)は敵の手にかかること無く、山へ駈け入って、自害使用と思う。あなたは原、これより大豆戸へ落ちて行って、合戦の様子を能登守以下の人々に報告して欲しい」
 
と言って、山へ駆け上っていった。
 
 筑後六郎は、小笠原しいおろうを弓手(左手)に並べて、こける御所作り菊銘の大刀で、小笠原の胸中を切り落とそうとしたが、討ちはずして、馬の頭を切り落としてしまい、小笠原はその隙に逃げてしまった。