承久記(前田本) 現代語訳 二位殿口説き事並引出物の事 08 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

二位殿口説き事並引出物の事 08
 
 押松丸を探しだされた。笠井谷(かさいがやつ)から連れられてきた。所持していた宣旨が七通あった。足利、武田、小笠原、笠井、三浦、宇都宮、筑後入道、以上七人に宛てられたものだった。この宣旨について人々の文書が多かった。
 
 権大夫(北条義時)が駿河守(義時の子・泰時)を連れて二位殿(北条政子)に参上した。大名、小名が多数参上していた。庭にも隙間無く人が溢れていたように見えた。二位殿が妻戸の簾を押し上げさせて、まず、宇都宮を呼んで、その後、千葉介足利殿を呼んだ。二位殿が安達秋田城介景盛から伝達されたのは、
 
「後鳥羽院は、刑部卿僧正長厳、二位法印尊長、藤原秀康、三浦胤義等の讒言を信じられて、義時を討とうとされて、まず伊賀光季が討たれてしまった。君も世も怨むべきではありません。ただ我が身の果報が劣っているだけなのです。女の良いところは、私のことですが、私ほど物事を歎き、心を尽くす者はいないということです。それゆえ、御殿(頼朝)に会った始めから、父の誠、誠ではない母の嫉み、男の行方、子の有様をまとめて苦しかったのですが、続いて国を取り、人を従えたころから、自らを仏神に任せるように修行して、昼夜怠らずにいます。」
 
「世の中の政治を後には、安心になるべきだと思っていたが、大姫御前が亡き殿をとてももてなしてくださって、后にしようとしたけれども、世を早くまとめようと同じ道だとご慕いしていましたが、亡き殿に諫められて、思いとどまって過ごして、小姫御前にも死に遅れてしまって、気持ちが沈んでいるころ、子の為に罪深いと諫められ、それも理と思って納得していたころに、亡き殿に遅れて、月日の影を失う気持ちになり、子供の嘆き以上に、この人にこそ、慰めて、この度の思いだけだと悩んでいたところ、二人の公達は未だ幼く、政治の知識も無いまま、二人の公達を育てていた頃、左衛門尉殿(頼家)の死後に、世の中に恨みを持つ者もなく、心の片隅に死のうかと思っていると、右大臣殿(実朝)が、
 
『誰があなたの子でしょうか。実朝がただ一人になってしまったのを捨てて、死のうとおっしゃるのは、悔しく思います』
 
と恨みを言うので、
 
『たしかに、死んだ子を思って、生きている子と死に別れるということは、親子の慈悲にも外れた事だ』
 
と思い返して、過ごしていましたが、右大臣殿が夢のように亡くなってしまって、今は誰に引かれて、命を繋いでいるのか、水の底にも入ってしまおうかと思い定めていると、北条義時がこれを見て、
 
『亡き殿のお名残として、御方(北条政子)だけを仰がせてください。義時は人に一目置かれていても、全く名前が知られてはおりません。しかしながら、御方様あっての事。誠にお考え有れば、義時がまず自害してご覧差し上げます。そして方々の菩提と申して、鎌倉の有様と述べて、死んでから悲しんでください』
 
と泣きながら述べたのだ。
 
 たしかに亡き殿の血脈が堪えた事も悲しくて、思いに死んだ身となって、せめての所縁を尋ねて、将軍を据えて、この二三年は過ごしてきた。たとえ、我が身が無くても、鎌倉が安泰で有ることこそ、草場のあ影からみようと思うと、たちまち牛馬の餌となってしまうのも悔しく思う。三代将軍のお墓の跡形がすっかり無くなってしまったのも哀れなことだ。
 
 皆さんは見ていませんか。昔、東国の殿原は、平家の宮仕えをしていて徒歩跣(かち・はだし)で道を歩いていたのです。亡き殿が鎌倉を建てられてから、京都の宮仕えも終わったのです。恩賞を発給して楽しみ栄えたのです。亡き殿の御恩に、いつの世でも報わなければなりません。自分の為、恩のため、三代将軍の御墓を、どうして京家の馬の蹄(ひづめ)で踏ませて良い物でしょうか。ただ、ここで、各々は申し述べるように。(後鳥羽院の)宣旨に従おうと思うのものは、まず尼(北条政子)を殺して、鎌倉中を焼き払った後、京へ参るがよい」
 
と泣きながら、話をすると、大名どもは伏し目になって居たところ、赤地の錦の袋に入った金作(こがねづくり)の大刀二振を、みずから取り出して、
 
「これこそ、亡き殿の身から話さなかった御佩刀(はかせ:)です、形見に持っていたが、これが鎌倉の出陣の門出ならば」
 
と言って、足利殿(義氏)に渡すと、畏まって受け取った。
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:童子切(どうじきり)か?
平安期の伯耆国大原の刀工・安綱作の太刀。童子切安綱(どうじきりやすつな)とも呼ばれる。国宝。室町期には足利将軍家伝来。
 
他に、源家相伝として、鬼切安綱(おにきりやすつな:鬼切丸、北野天満宮所蔵)、髭切、膝丸(髭切と一対、後に蜘蛛切と称す)
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 宇都宮氏には、御局という名馬に鞍を置いて、萌葱糸威の鎧をつけて与えた。千葉介にいは、紫糸威の鎧に長覆輪の大刀一腰、いずれも畏まって受け取った。その跡、陸奥六郎有時、城入道、佐々木四郎左衛門、武田、小笠原の板東八カ国の味方と大名二十三人を、代わる代わる呼ばれて、様々な物を与えていった。
 
 因幡守大江博元入道のが酌をとって、御酒がふるまわれた。各々が言うには、
 
「どうして三代将軍の御恩を思い忘れることができようか。その上、源氏は七代相伝の主君である。子々孫々までも、その御誼を忘れてはならない。すぐに明日、立ち上がって、命を主君とともに、首を西に向けて攻撃を開始しようではないか」
 
と、各々落涙して、一同に立ち上がったのだった。