南総里見八犬伝 二 第四輯第四巻第三十七回 その3 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

 その中で房八は、死にそうになる気を引き起こして、喜ばしげにキッと振り返って、
 
「君子のようだな犬塚殿は。信あり義ある、というのは褒美の言葉だ、善知識の引導も、千万人の僧の説法も、これにかわるものはないぞ。あなたの難瘡(なんそう)が本復したのならば、進退は自在ではないか。そうであれば早く俺の首を持って、かの帆太夫を欺いて、水陸の守兵(かため)を退かせて、後方にあなた様は落ちて、主の縄目を解かせよ。介錯を頼むぞ犬田殿、さあ急いでこの首を」
 
と急がせると、小文吾は頻りに嗟歎して、
 
「それはまだ早いぞ山林。数刻深手に屈せずにいて、今までも言葉があるのは、勇敢というのがあなたのことでなければ、誰のことなのか。それに傷は急所にかかっている。たとえ名医を尋ねても、存命することはないのに、私はまたその意に従うしかないではないか。とはいえ、今更、後ろめたいのはやむを得ず今宵も宿していうr、かの修験者念玉だけだ。彼は離れ座敷にいて、甲夜(よい)を過ぎることまでは、尺八を吹き遊んでいたが、その後は音もしない。かれが熟睡してすこしも、事の次第を知らないとは思えない。今の誦の人心(ひとこころ)が笑みのうちに刃を隠せば、私はただ彼の事をのみ、どうしようこうしようと思いながら、四目八臂(しもくはっぴ)ではないが、その覚めたこと、寝たること、振り返る暇はないのだ。まずその臥房を窺って、もし訝しい事があれば、とく禍の根を断ちたい。事は漏れやすく成功しがたい、早く後ろを防がずにいれば、この心思いも仇となるかもしれないぞ」
 
とささやき告げて身を起こすと、信乃はこれを聞いて頷いて、
 
「仰る事は、今になって思い当たることがあります。私が小座敷に居たとき、離れ座敷の方と思いますが、ささやき語らう声がしました。ただその事だけではなく、さきに私の所へ障子のところに居たときにも、しばらく簀子がきしむ音がしていました。振り返ろうと思いましたが、病苦がひどい時だったので、進退が思うに任せず、かつ、暗かったので人か猫か、或いは鼠の仕業なのか、定かには聞き取れませんでした。もしその修験者だったならば」
 
と言うのを聞いた小文吾は驚いて、
 
「それは念玉に間違いない。かつ密談の声がしたのは、示し合わせした者がいて、密かに裏口から来たのにちがいない。この話の事はすでに漏れて、密疏されてしまえば逃れることが出来ない。油断大敵とは我ながら、鈍く大事を誤ったか」
 
と慚愧後悔がわけもなく、脇差しの目釘を走らせて、舌で湿らせて憾みの顔色で、進むのを妙真が推し止めて、
 
「その人、同類だったのならば、敵の多少はわからないではありませんか。いい加減にはやってはいけません」
 
と、心を示すと、房八は、気を揉んで、最期の苦痛で、
 
「ただ、急げ、急げ」
 
と急がせるが、信乃も、
 
「一緒に」
 
と忙しく、刀を取って身を起こして、小文吾に連れ添って、一緒に離れ小座敷へ赴こうとするときに、出居と母屋の間の障子のあたりに人が居て、思いがけなく、声を振り立てて、
 
「おい、人々しばし待て。安房国守、里見治部大輔義実朝臣創業の功臣であった金鋺八郎孝吉の一人子、金鋺大輔徳法師(のりほうし)丶大坊(ちゅだいぼう)、同藩の士(さむらい)、故伏姫君の傅きだった、蜑崎十郎輝武(蜑崎十郎輝武)の嫡男。蜑崎十郎照文(てるふみ)等がここにあり。今対面して疑念を解きましょう。しばらく待ちたまえ」
 
と呼び掛けて障子をサッと押し開き、並び立って近づくのを、見ればこれ別人ではなく、大先達の念玉は行くと幾年か旅にやつれた墨染めの麻の衣を、腰身近に褄端折りして、白栲(しろたえ)の脚絆を履いて、頭陀袋(ずたぶくろ)を背中に背負って、左手に網代の笠を持って、右手に錫杖を突き立てて、しずしずと練り出て、上座に着いたのだった。これは丶大(ちゅだい)である。修験道観得は縛った髪を元結いして、段々筋(だんだんすじ)の麻衣に、精好(せいこう)の野袴(のばかま)の緞子(どんす:地が厚い光沢の絹織物)の裾縁(すそへり)をとって、腰上がりに着くずして、朱鞘の両刀を横たえて、白木の小四方に書札を四五通を乗せていて、恭しく捧げ持って、丶大の次の席に着いた。これは蜑崎照文(あまさきてるぶみ)である。思いかけないことであれば、誰がこれを不思議に思っただろうか。その吉凶を判断しかねて、おのおの不安になっていった。
 
 その時丶大は周りをじっくりと見渡して、
 
「人々、そのように疑いなさるな。はじめから真実をもって、あなた方に話をしていなかったのは、思う所があったからです。私は、昔故あって、仁義礼智、忠信孝悌の八つの文字が、自然と現れた八つの玉を探すために六十余りの国を行脚しましたが、一つの玉も見つけることは出来ませんでした。そして、今年五月の初めから、足を鎌倉に向かわせていたところ、昔の竹馬の友だった、蜑崎十郎照文が君命を承って、賢良武勇(けんりょうぶゆう)の浪人を密かに求めているといって、関東(せきのひがし)の国々を忍び歩いているのに巡り会いました。そのときからこの行徳に、有名な力士があり、その一人は臀(ゐさらい:しり)に黒く大きな痣があり、牡丹の花に似ているという噂をわずかに聞きました。その痣が牡丹ににていることは、思い合わせる必要があり、またその膂力(ちから)も調べたく、痣も見ようとおもって、密かに十一郎と示し合わせて、私は鎌倉の修験者、念玉と偽の名前を名乗り、彼もまた、鎌倉の修験者、観得と偽名を名乗って、途中従者を雇って、衣装や行李も山伏に似つかわしいように拵えて一緒にこの浦に来ました。先達職得分の争いに託けて、去る日八幡の社頭で、犬田と山林が相撲の勝負を試みていたのを見て、技も力も劣らず優(ま)さず、ただ房八は小文吾に技量は少し劣っていたように見えた。このときに犬田の痣を目の当たりに見ることができて、ますます捨てがたい思いを抱いたのです。しかし、多力(たりき)で智恵が無い者は、ほとんど牛馬に等しく、兇勇(けんゆう:邪悪で勇ましいだけ)で残忍な者は、虎狼に等しい。たとえ、犬田、山林等が人に優れた力芸があったとしても、その心術(こころざま)が正しくなければ、薦めるわけにはいかない。よく行状を見極めてから後に、と思案しながら遊山翫水(ゆさんがんすい)に託けて、十一郎と一緒に逗留して、今宵の事になったのです。さて、昨日の甲夜の間い、私が浜里(はまて)より帰って来て、呼び掛けましたが応える者がいませんでした。そこで裏口から入ろうとして、漫然と歩きながら生垣の間から、ふと声を聴けば、あるじ親子は小座敷で犬塚、犬飼等と団坐して、かの玉の事、痣の事、そして額蔵という荘助の事まで話しているのを、聞くとはなしに、立ち聞きして、また垣間見ると、これまでの宿望成就の時がやってきたと、私の歓びは餓鬼が地蔵の宝珠を見る事より大きかったのです。そして、その夜はここには宿らず、裏口の庭から引き返して、十一郎の旅宿に行って、密かに垣間見たことを告げて、示し合わせて、今宵またここに宿りを借りようと戻ってきたところ、東に広い国々においても、類い希なる房八が孝順義死の事、犬田親子の良善信義、また犬塚が賢にして薄命なるのを、犬飼が友の為に志婆浦に赴いていったこと、そのような状況の憂苦艱難(ゆうくかんなん)、密かに見て聞いていて、心から悼み、私の袖さえ濡らしながら、おなじ浮世の笠宿り、そこに有る身はさすがに出て行って、私の正体を話す時期が来たかと思ったが、もう少し事態の様子をみようと、ここまで時間を掛けてしまいました。今このように申すのは、行李を開いて姿をあらためて、旅より旅にやつれた私は行脚の老僧ですが、人々に示すべく、かつ房八ら、その妻、その子の臨終正念、幽魂解脱(ゆうこんげだつ)の導師にもなろうと、二十年あまり埋もれていた木の花を咲かせることの無い身の苔衣ですが、もとの姿に戻りました。私も昔は苦しさに堪えられず、世を捨ててしまって僧侶となり、袖をもって被うのに余り有る、四人の義士等の不幸薄命、あるいは一人の慈父、一人の賢母、あるいは貞婦と小児の横死、思えば昔の薄命を歎いていた我が身は、数の打ちに入らないな.南無阿弥陀仏」
 
と唱えつつ、その概略を説き示していた。
 
(その3 ここまで)