南総里見八犬伝 二 第四輯第三巻第三十五回 その5 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

 小文吾は信乃の事、今宵に限って手詰まりの難題、
 
「妹といっても留め置いて、どうしても密議をしているようだと、言い訳するように返すのに」
 
とはじめから思っていたので、今、妙真が理屈責めで口説いても屈せず、あざ笑って、
 
「口賢くも言ったものですね。旅籠屋の事ですが、旅人が宿を借りるにしても、すでに甲夜過ぎて座席もないでしょう。宿したい旅人を断るのは普通ではありません。このように言えば大八は、祖母に任せて返さないまま、沼藺を留めよと言うのですか。沼藺は現在の親の家にいるが、返されたとしても離別の書状はないのです。この離別の書状を添えられなければ、単なる私の逗留にすぎません。たとえ兄妹であっても、男女には差があります。何らかのことで人のいない留守宅に、まだうら若い妹だけが泊まって、朝までいれば瓜田の履同様、それは兄であっても後ろめたい事になるでしょう。枉げて今夜は連れて帰り、去り状をもたせて、また来て下さい」
 
と言い終わらないうちに、妙真は、思わず、
 
「ほほ」
 
と笑って、
 
「さてはあなたは離別の書状が欲しいために、いろいろと固辞しているのですか。よくわかりませんね。一文不通(いちもんふつう)の夫であっても、妻と別れるときは離別の書状をもたせる者はありませんよ。それを出さなかったのは私の情けです。わたせば再び結ばれることはない、離別の書状はここにあります」
 
と言いながら帯の間から、一通の書状を取り出して、近くによって差し出すのを、小文吾は受け取って、広げてみれば、去り状ではなく、先に道で落とした犬塚信乃の姿絵だった。ハッと驚き当惑して、難儀がいよいよ増すばかりで、鏡で写された影を認めても騒がずに、そのまま巻いて側に置き、
 
「これは不審な書状ですね。離別の書状は三行半、世間普通の文言を、この姿絵に換えるとは、房八の仕業なのですか、またはあなた様の仕業なのですか」
 
となじると妙真は、じっと見守って、
 
「とぼけなさいますな、犬田殿、それはあなたこそ知っている、許我の御所より火急の詮索、その犬塚信乃とやらを匿った者がいれば、親族縁者も同罪だと厳格に布令されたのは、私の市川の郷だけでなく、ここもほとんどすべてに伝わっていますよ。これらのことを考えると、女房を離縁する房八に理由がないとは言えません。その去り状を受け納めて、沼藺はもちろんのこと、大八をも、留めようと送ってきましたが、私も不安でなりません。その去り状を受けないならば、荘官の許へ参って、訟庭(うったえのにわ)に浪速江(なにわえ)の、善悪(よしあし)を判別しましょう。それでも、あなた様は事が荒立つことを好むのですか」
 
「いや、そのような事は好みません」
 
「そうならばお沼藺を受取なさい」
 
「それはまた、いろいろ問題があります」
 
「ならば、その去り状を持って、訴えますが、よろしいですか」
 
と問い責めらて、小文吾は、困り果てて、頷いて、
 
「母御様だけが急いでいらっしゃます。去り状しかと納めました。沼藺はもとより大八をも、今宵は某が預からなくてはならないでしょう。有無の答えあ我が父が、帰ってから後に房八に、きちんと伝えますので、夜は更けましたので、急がせて下さい」
 
と少し打ち解けた言葉の花柄、折れては脆い袖の露、妙真は目を推し拭って、
 
「やっと納得されましたか。心には思ってもいない事を、言うのは互いの為。私には憾みなどありませんが、今苦しいのは浮世の境界。三年以前の秋の頃、亡き夫に後れて、髻を剪(き)って、形は垂尼(たれあま)、妙真という逆朱(ぎゃくしゅ:墓石に自身の戒名を彫り、生前ならば朱に染めること)の戒名、血脈だけでも受け継がれてはいますが、まだ年若い我が子夫婦の戍(もり)に浮世を捨てかねて、朝夕持仏に向かっていますが、経を看る時間も無く、日毎の出船入り船の船子の駆け引き、荷物の水揚げ、世帯を護れば許の名の戸山と、人はまだ呼ぶので、いやいや、妙真だよと言い返して告げても、また忘れられて、いつのまにか戸山よ、妙真よと道俗二名を一つに合わせて、いまでは戸山の妙真と呼ばれているのは、本当におろかなことです。世に夫となり妻となり、嫁や姑といわれる縁はありますが、本末(もとすえ)遂げなければならないのは、産霊(むしびのかみ)の約束事なのです。人の心は善も悪も、外側からはわからないものですから、ただ恐ろしそうなこの婆が、兎の毛ばかりも傷無き嫁を追い出したと人はいうかもしれません。これも無益の虚言でしょう。さてと私は帰りません。お沼藺は塞ぎがちな心から病み煩って親兄妹に、苦労をかけて、夏の夜にいつまでも眠っていたとしても、大八の衣を脱がして、寝冷やして風邪をひかせないように、気をつけて下さいな」
 
と心を尽くせば、泣きはらした目を推し拭って、頭を擡げ、
 
「これまでのご高恩、受けながら、しなければならない孝行を尽くすこともなく、思いがけなく、お別れになってしまいました。はや真夜中でございます。ひとつ郷ではございませんので、はるばるのお帰りとは、本当に心苦しく思います」
 
と言いかけて、互いに落ちる涙を止めかねて、惜しむ別れを慰め顔で、また吹きすさむ尺八に、妙真は耳を側立てて、
 
「あの笛の音は鶴の巣籠(すごもり)。焼け野の雉(きぎす)。夜の鶴、およそ生きとし生けるもの、夫婦の哀別、親子の恩愛、いずれを疎かにしてはなりません。逢うことがあれば別れもあります。歓びがあれば憂き事が無いはずもありません」
 
と励まして、涙をおさめて小文吾に、暇乞いをして立つ鴫(しぎ:シギ科の鳥、妙真の姿に形容)が、翼に落とす一滴、濁さぬ水にまかしつつ、見送る兄は言葉泣く、妹はよよと音に泣いていて、心細かく繁桟(こみざん:板や蓋が反り返らないように割り木、竹などをたくさん打ち付けたもの)のようになって、門のくぐりとを押し開くと妙真は外に出て、
 
「こっちへ、こっちへ」
 
と呼ぶと、轎夫等は急いで轎子を持ってきて舁き据えて、
 
「お乗り下さい」
 
と促すと振り返りもせず、頭を振って、
 
「二十二日の月は、すでに出て天が色づくまで、夜は既に更けてしまいましたね。市川へ帰らずに、予て準備していた今宵の宿は近くにあります。私を運んでくださいな」
 
と密かに心得させておいた轎子の中で赤い綱を握って吊られて、東の町へと急がせますが、進んでいるように思えないのは、山路に分け入る気持ちが、迷いが胸の中に雨のように振ってきて、涙の露が袖を濡らして、轎子の中で一人、頭を傾けて、ただ轎夫の担ぐ揺れにまかせて、練り進んでいった。

(その5 ここまで)
(第三十五回 ここまで)