新田義貞の越前攻略から自害までのタイムラインを追っていく。2~3回で終わらせる予定が、大幅に長編になってしまった。
さて、時間を戻すと、建武四年二月始め、新田義貞は越前国府の合戦に勝ち、国中の足利勢の城七十余カ所を瞬く間に攻め落とし、勢いを増した。城を攻め落として軍の勢力が増大するのは、寝返る兵を吸収することもあるが、多くは城に蓄えられていた兵糧、飼葉などの食糧、武器、矢種、武具、馬具などの物具、医薬品、あと武具などを修理する職人、食事の準備をする者どもが確保されていき、軍の規模に応じて、下働きの者の数も増えていく。五月二日に義貞は六千余騎で国府を出発している。
北国は、京都に近い方から越前(福井県)、加賀(石川県)、越中(富山県)、越後(新潟県)と並んでいるが、越後は新田一族が多い上野国に隣接している。元弘の乱で新田義貞の功績により越後は新田一族の所領となっていた。そこで、義貞が北国を平定し、京都へ攻め上ろうというのを聞いて、越後の新田一族は大井田氏を始めとして、二万余騎で七月三日越後国府を出発し、越中国を通過するとき、越中国守護普門利清の足利勢は大半討たれて、松倉城へ引き籠もった。越後勢は次に加賀に進撃すると、富樫某が迎撃したが、これも寡兵であったため敗戦し、那多城(なたのじょう)へ戻った。そして越前に到着する前に、越前では戦乱が長く続いたため兵糧が無いはずだから、加賀で長逗留して兵糧を用意することになった。今湊宿に十日逗留した。その間越後勢は剣神社、白山神社だけでなく多くの神社・仏閣を侵略し神物を略奪、民家にも押し入り、資財を奪取する等、無法ぶりが大きな噂となってひろがった。これにより、大将の新田義貞の評判も落ちていった。
越後勢が越前の河合に着くと、新田軍の勢いはますます強大になり、足羽城(あすはのじょう)を攻めるのは容易いことだと考えていた。城を守る足利高経は平城に三百余騎で、新田軍は三万余騎で四方を囲んでいる。七月二十一日、周辺の黒丸城を攻めるために掘り・溝を埋めていたところ、後醍醐天皇より勅使が来て、「新田義興、北畠顕信が敗軍を率いて八幡山に立て籠もり、洛中の反逆者(足利軍)が囲んでいる。今の戦を中断して、北国からの上洛を急いで、京都攻略を先にせよ」との後醍醐天皇宸筆の勅書を義貞は受け取った。義貞はこの命令にすぐに従った。高経や反新田勢力を侮った行動に間違いなく、討ち果たされるかも知れないと思っていた者どもが、敵が引いていくのを見れば、助かったという意識以上に、戦う意欲が湧いてくるのだ。このような兵士の心理を義貞は忘れてしまったのだろうか。
義貞の家臣児島高徳は、「昨年の京都合戦で官軍が延暦寺を落とされたのは、戦の優劣ではなく、北国の敵(足利軍)に道を防がれて、兵糧が困窮したからだ。今後も比叡山に布陣した場合は、越前・加賀の主要な城には味方の勢力を残して、兵糧を運搬させるべき。その上で比叡山で指揮を執るために、衆徒の考えを聞いてはどうか」と進言した。義貞はこの進言を聞き入れ、比叡山に牒状を送った。これに比叡山は七月二十三日に「全山こぞって悦び合へる事限りなし」として返牒している。そこで義貞は三千余騎で越前に留まり、脇屋義助二万余騎を七月二十九日越前国府から出発させた。翌三十日には義助は敦賀の津に到着した。
さて、京都の八幡山攻撃だが、尊氏の元へ義助と延暦寺の謀略と、上洛が報されていた。この八幡山は鰯伊豆八幡宮、別称男山八幡宮は、皇室の祖神を祭る社でもあるが、源家(清和源氏)が祭る社で、源氏の者が戦の前に唱える「南無八幡大菩薩」はこの社の神である。官(後醍醐)軍が、この八幡山に陣を構えたのは、源氏の足利軍が無茶な攻撃で社を粗末にはしないだろう、という考えも合ってのことだ。しかし、足利軍は忍びを遣って、社に火を放った。官軍は煙下に迷走し、それを見た足利軍は「我が守り神に火を放ったのか」と憤り攻撃したため、官軍は逃げ腰になってしまった。
一方、敦賀まで着いた脇屋軍は、八幡山の炎上を聞いて、攻め落とされたのかどうかを確認するため、数日逗留した。愚策である。結局七月二十八日夜半には、八幡山の官軍は退き落ちて河内国へ引き上げてしまっていた。脇屋軍が一気に上洛していれば、官軍も四五日持ちこたえていれば、足利軍を挟み撃ちにできたかもしれない。太平記では「聖運いまだいたらざりけるにや」と述べている。
義貞は義助軍の空振りに慌てること無く、越前の敵をまず退治してから、南朝と示し合わせることにした。前回中途半端に終わっている足利高経の足羽城の攻略を始める。高経は七つの城を築き、深田に水を引き入れ、道に穴を掘り、橋を外して溝を深くするなどの工作をした。またこの足羽城は平泉寺の藤島荘と隣接していた。平泉寺は長年の間、年貢の大半を比叡山、無動寺大乗院の勧学講料に分給しており、年貢の量を巡って比叡山と対立していた。そこで藤島荘を平泉寺領とするならば、足利に味方するとの申し出があり、その祈祷をするという。高経は歓び、七月二十七日付の高経の御教書が平泉寺に発給された。衆徒の五百余人は城に立てこもり、宿老五十人は怨敵調伏の法を行った。
さて、義貞が夢を見て斎藤道猷が「めでたき夢」と追従したが、実は「不吉な予言」だとした、その閏七月二日、足羽城攻撃の触れが出たため、国中の官軍が義貞の河合荘へ集合した。到着兵三万余人。義貞が門前で馬に跨がろうとしたとき、馬が跳ね上がり、左右の舎人二人が生まれて半死半生となった。また、足羽川を渡るときに、この馬が川伏(川の中で足を折り曲げて伏せる)し、凶兆を示しているのだが、すでに軍は動いていたが、皆不安に思っていた。
新田軍は燈明寺前で三万余騎を七隊に分けて、七つの城それぞれに向城(攻略用の拠点となる城)を築かせた。藤島の城が平泉寺の衆徒で構成されていたため落としやすいと踏んだ新田勢は、攻めるものの、逃げ道が閉ざされていたため、命がけで平泉寺衆徒が抵抗した。揚句の果てに新田軍が追いかけられる状態にまで陥った。そこで義貞はわずか五十余騎で藤島城へ向かったところ、黒丸城から足利高経の副将軍細川出羽守と鹿草彦太郎が、藤島城を攻撃している新田軍を追い払おうと三百余騎で横から切り込んだところ、義貞の正面とぶつかった。細川方には射手多く、義貞方には射手が一人もおらず、楯ももっていなかったので、義貞の家来自身が楯となって矢を浴び義貞を守った。逃げろという家来に義貞は聞かず、
「士を失してひとり免るるは、我意にあらず」
と言って、敵中に懸け入ろうとしたが、馬が矢に射られて泥田に倒れ、その馬の下敷きになった義貞の眉間に矢が中り、自ら抜いた大刀で首をかき切って自害した。越中国氏家中務丞重国が首と武具を取り、黒丸城へ駆け戻った。義貞の家来四十余騎はもろとも自害して果てた。平懸の名手と呼ばれた新田義貞のあっけない最期である。
義貞自害の知らせは新田軍全体に広がって、小雨交じりの夕暮れに落ちる者、降参する者多数在り、戦が終わった。首級実検のあと捕った武具の佩いていた二振りの太刀を見ると、一振りは銀をもって金鎺の上に鬼切という文字が彫り込んであり、もう一振りには金をもって銀鎺の上に鬼丸という文字が彫られていた。
鬼切は伯耆国大原五郎大夫安綱が鍛造し坂上田村麻呂に奉じたもので、一旦伊勢神宮に奉納されるが、天照大神のお告げで源頼光が受けた。家臣の渡辺綱に貸し出され鬼の腕を切り落とし、また源満仲が戸隠山の鬼を切ったことから鬼切と名づけられ、源氏代々に継承される刀となった。新田義貞が鬼切を入手した経由は不明だが源氏の棟梁家に伝来していたのかも知れない。
鬼丸は鎌倉初期粟田口国綱の作で、腰反りから輪反りへ移行し始めた頃の大刀である。由来は北条時政(政子の父、初代執権、由来には北条時頼説もあり)が夢の中の小鬼に苦しんでいるところに、老翁が現れ、「太刀国綱である、錆びてしまい鞘から抜け出せない、鬼を退治したければ、錆びをとってくれ」と言ったので、早速国綱を手入れして部屋に立てかけたところ、刀が倒れて、火鉢の台の細工の首を切り落としたという。それが鬼の形をしていた。これ以降時頼の夢に小鬼が現れなくなった。これ以降、この国綱の太刀を鬼丸と呼び、平氏家伝とした。そして鎌倉幕府攻撃時、北条高時自害後、新田義貞の手に渡った。以後足利家の家宝となり、足利義昭から織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、徳川秀忠、後水尾天皇、京都本阿弥家、明治天皇、皇室所蔵となっている。
鬼切・鬼丸を入手した足利(斯波)高経は、尊氏から源氏の嫡流である足利氏への引渡を求めた。しかし、足利氏と同格だと自負していた高経は拒否、鬼丸は尊氏へ渡したが、鬼切は斯波氏家宝として、子孫の最上氏へ伝来した。現在は北野天満宮に奉納されている。
さて、残った脇屋義助は、敗軍の兵わずかに二千騎にも満たず、三峯城に川島氏を置き、杣山城に瓜生氏を置き、湊城に畑時能を置き、閏七月十一日に、義助・義治父子と、禰津・風間・江戸・宇都宮七百余騎で越前国府に帰って行った。
新田義貞の守旧派、大路に曝され、「これ朝敵の最、武敵の勇なり」と札評された。
これで尊氏・直義の最大の武敵であった新田義貞を滅ぼすことができた。しかし後醍醐天皇は南朝でいまだ健在で、平定途中の北畠顕家を急遽上洛させたので、奥州はまだ官軍からみれば火種が残っていた。後醍醐は結城道忠を衛尉として、第八の宮(義良親王:後村上天皇)を陸奥太守として、新田義興、北条時行等を武蔵・相模の後陣として派遣した。九月十二日に伊勢の大湊に集まり船を揃えて順風を待っていたが、風やみ雲もおさまったので、兵船五百余艘は出向した。しかし途中で風が吹き荒れ、逆波で帆柱が折れ、楫も折れて流される船もでて多くの船が行方不明になるところ、第八の宮の御船だけがんあんとか伊勢に戻ってきた。この宮は携帯の君であることから、古代語は奥州下向は取りやめとなった。結城道忠も七日間も海上を漂流していたが、伊勢の安野津(あのめつ:津市の海岸)に漂着した。そして十余日経ってなおも奥州へ下向しようとしたが、急に重病となり死去。
結城道忠の息子・親朝は父の遺言に背いて、足利方へ降伏した。芳賀禅可(宇都宮氏の家臣清原氏流)も、主人の宇都宮公綱の息子・加賀寿丸を擁して足利方へ寝返った。この間にも新田一族は残っていて地方の城に立てこもり、時機を待っていたが翼をもがれた鳥のように、ただ悲しみに暮れているようにも思えた。
今の平和な世の中は足利氏が作ったとして、公家の高級役人から下級役人、禁裏や仙洞の荘園までも武家が領取することになり、朝廷の様々な節会も料が無く行うことができず、宮中も御所もさびれはててしまった。それで朝廷の政治も武家にまかせるようになり、幕府執事(行政・裁判所長官)や侍所(御家人東征・平氏統率・刑事裁判)と交わり利を得ようとしていた。宮中の立ち居振る舞いも坂東流にしようと折烏帽子を付けるが、公家には似合っていなかった。
さて、佐々木道誉の事だが、佐々木氏は近江源氏の本流でありながら、ばさら大名として京都でも有名だった。若いときから足利尊氏と密かに連動していたが、利のあるほうに着くと見せて裏切るという戦術で、あまり人徳というのがなかった。しかし最終的には尊氏を支えるという、一風変わった大名である。この道誉が西岡・東山で鷹狩りをして帰る途中で、比叡山の妙法院の前を通ったときに、下僕に南庭の紅葉の枝を折らせた。その時妙法院門主が庭を眺めていたので、その下僕の狼藉を止めようとしたが、これが大騒動となり妙法院の山法師が多数使えており、下僕が持ち去る紅葉の枝を奪い取って喧嘩となった。道誉はこれを怒り、三百余騎で妙法院に押し寄せて、火を放った。隣の建仁寺にも延焼し、塔頭、瑞光庵も焼けてしまった。建仁寺の門主は修行中だったがかろうじて逃げおおせた。この騒動に在京の武士は現地へ駆けつけて事情を聞くと、「あなあさましや、前代未聞の悪行かな。山門の嗷訴(ごうそ)今に有りなん[太平記21]」と噂したという。これで、比叡山では佐々木道誉、息子の秀綱を死罪にすべき、と公家衆へ奏上し、幕府に訴えた。比叡山の門主・貫頂(かんちょう:長官)は光厳上皇の連枝(兄弟)だったので、道誉の振る舞いを無念に怒り、なんとか断罪・流刑にできないものかと考えたが、刑罰は武家の役目なので、尊氏も左兵衛督直義も道誉を高く評価しており、比叡山の訴えや嘆願書も無駄となり、道誉はますます奢り、勝手な振る舞いが多くなった。あまり目に付くので、比叡山の嗷訴が黙殺できなくなり、「道誉の事死罪一等を減じて、遠流に処されるべきか」と奏聞すると、光厳院は院宣を下され、比叡山をなだめ、四月二十五日道誉と秀綱は上総国山辺郡(千葉県山武郡の南側)への配流が決定した。これまで延暦寺の訴訟を負った人は、十年のうちに身を滅ぼす」と言われており、道誉もそのようになってしまった。その後文和三年六月十三日に持明院党の新帝後光厳天皇が、山名時氏に襲われ近江へ行幸したとき、道誉の息子秀綱が山法師に殺害された。また弟秀宗も大和で野武士どもに殺された。嫡孫秀詮と弟氏詮も、摂津国神崎合戦で南朝側に殺された。京人は佐々木氏の没落を比叡山山門の祟りと恐れたのだった。
(了)