新田義貞が兵庫から落ち、春宮、将軍の宮死去するまでのタイムラインをおってみよう。
新田義貞の危窮を救った小山田高家だが、義貞を御方に届けると、自分は再度元の場所に万尾って、追っ手の足利軍を引付て討ち死にした。この忠義の死は、三月の赤松氏白旗城攻撃の際に、播磨国では兵糧となる穀物が乏しく、軍令として、兵士等の狼藉や穀物の刈り取りなどを禁止した。不正行為のあるものは処刑されると、路の辻に立てられた。ところが小山田高家は近くの畠で青麦を刈らせて馬に乗せて陣に戻ってきた。たちまち捕縛されて義貞の前に召されたが、「これぐらいの青麦にまさか自分の命と代えようとは思うまい」と言って、高家の役所などを調べさせたところ、食糧がまったくもなかった。義貞は「戦のために罪をわすれたのだろう。しかし兵士が戦う前に疲れているのは、大将の恥である」と言って、畠の主には小袖二重を与え、高家には兵糧十石を与えて帰した。これにより高家は義貞への忠義心が深まったという。
義貞はわずか六千余騎で帰洛したところ、京中の人々が慌て騒いで、官軍が破れれば、前のように帝が東坂本へ行幸されるようにあらかじめ決定していたので、五月十九日、三種の神器を奉じて、龍駕(りょうが:天皇の乗り物)を進められた。およそ六万余騎が後醍醐天皇に供して四明岳を越えて延暦寺に至る雲母坂から東塔を経て、東坂本へと落ちていった。しかしその中で、光厳上皇は北白河の辺りで病気と言って、輿を法勝寺の塔の前に据えて時間を稼いでいた。しばらくすると足利軍が京中に入ったという知らせが届き、光厳上皇にも御幸をまいらすべし、と催促されるが拒否して、東寺の尊氏の許へ御幸した。さらに東寺の本道を皇居と定めた。久我内大臣をはじめとして東坂本に落ちるのを留まった公家が集まり、早速皇統を立てた。これが北朝の誕生である。
建武三年六月二日、東寺に布陣する足利軍は、比叡山に行幸した後醍醐天皇勢を攻撃するために、正面(大手)から吉良・石塔・渋川・畠山の五万余騎、搦め手には仁木・細川・今川・荒川の八万余騎、西坂本には高師重ら三十万騎を配置した。官軍は新田勢・千葉・宇都宮・土肥・得能が東坂本に布陣した。六日、この日はにらみ合いで終わるかと思われたが正面の吉良が西阪本の高師直に使者を送り、「官軍の主要な勢力が東坂本に集中していることを告げ、他の攻め口は公家や僧侶・山法師の勢力なので、落としやすい」と報告した。そこで早朝に松尾坂から攻め上がる大手勢の一軍に、官軍副将軍の千種宰相中将忠顕と坊門少々雅忠三百余騎が、後ろを絶たれて全滅した。比叡山衆徒七千余人は、これを防ごうとしたが、足利軍は勝ちに乗って、雲母坂、蛇池から大嶽(現在の大比叡)まで攻め上がった。比叡山の西の塔、横川にむかった宇都宮五百余騎が、西谷口へ戻ってきた。新田義貞は東坂本から六千余騎で四明の上に登ってきて、紀・清原両党を足利軍を包むように進ませ、新田一門の江田・大館を魚鱗の形で突撃すると、足利軍二十万騎が水飲の南北の谷に蹴落とされていった。足利軍は、水飲より下に退き、新田義貞は東坂本には戻らず、大嶽に布陣して、競り合いが続き、この西坂方面の戦はこのまま止んでしまった。
六月七日、高師直が「西坂本の主要な武将は皆大嶽に向かったようなので、急ぎ大手の合戦をはじめれば、自分たちは東坂本を攻め破り、敵を山上に追い上げ、東西両塔の間に上がって、のろしを上げるので、大嶽の敵は前後に挟み撃ちにあったと思い混乱するだろう」と進言した。これは昨日吉良の大手側からの進言で戦が始まったので、高側から先手を打とうという足利軍内での功名争いでもあった。東坂本では足利軍八十万騎が三方に別れ、新田軍は城中に六万余騎、弓巧者を揃えていたため足利軍前陣の死者は三千人にもなった。その隙に脇屋義助等六千余騎、白鳥岳から土肥・名和等二千余騎が撃って出た。琵琶湖からの横矢攻撃をかわす程度で、この日は終わった。
六月十六日、熊野の八荘司等が五百余騎で上洛し、西坂本に向かい高軍へ参軍した。翌十七日午前八時頃、この熊野の八荘司の五百余人を先立ちとして、松尾坂の尾崎から楯を並べて登っていった。しかし官軍の強弓になすすべも無く、またもとの陣に戻っていった。
六月二十日早朝、山側から奇襲攻撃を仕掛けると、それまでの様々な小規模戦闘で敗北していた足利軍は一気に雪崩が起きたように敗走した。途中高師重(師直猶子)が捕縛され、唐崎の浜で斬首された。この六月五日から二十日までの比叡山攻撃の失敗で、洛外にまで逃げた軍勢が戻ってくるのを待っていた。しかし官軍は、京中に軍勢が無いことを知り、六月末日、京を攻撃した。結果としては足利軍が防御できたわけだが、隙を付いた点では官軍も気勢は衰えていなかった。七月十八日午前六時頃、比叡山門の軍勢が、北白河、八瀬、籔里、下松、修学院の前まで押し寄せて東西二陣に別れて、新田一族五万余騎は糺の森の北側から、紫野を内野へ懸けていった。二条師基、千葉貞胤等は西を過ぎて河原を南へ押し寄せて、京中の民家に火を放った。このとき五条河原では戦が始まって、やがて内野でも合戦がはじまり、東西南北で大合戦となった。このとき両者に内通者がいて、気を抜けない状態だったこともあり、何重もの囲みを抜けて、義貞兄弟は比叡山に逃げおおせた。このとき官軍の負けが決まった。これによって寝返りする者が現れたことを不安に思った後醍醐天皇は、近江国の闕所三百余カ所の荘園を延暦寺の永代管領とすべき永宣旨(えいせんじ:永久保証)を下した。この時、後醍醐は、南都興福寺に牒状(ちょうじょう:寺院間で取り交わされる文書)を送り、帝に味方するように要請する。興福寺は藤原氏の氏寺で、王家に寄り添ってきた藤原一族の危窮でもあるから、「藤原類家の淹屈(えんくつ:不遇)を救うべし[太平記]」と述べられた。南都興福寺は直ちに相義して後醍醐に協力を約束した。
後醍醐の南都への救援要請は、多くの軍勢を京都周辺に集めることになった、四条高資の許に集まった三千余騎が大渡の橋より西に布陣し、河尻の道を塞いだ。宇治には中院貞平ら二千余騎が宇治橋を二三間落として、橘の小島が崎に布陣した。北丹波道には大覚寺宮を大将として三千余騎、白昼に京中を通り抜けて長坂に登った。嵯峨・仁和等の者ども千余騎が京見峠、嵐山、鷹尾、栂尾に布陣した。鞍馬道は西塔から夫妻で、勢多は愛智、信楽から遮断した。これらの道を遮断することで、京への物資輸送を阻もうという作戦である。この間京の足利軍は、最期の戦になるかも知れないと酒宴を催していた。そこに阿波・淡路勢三千余騎が宮方に寝返り、阿弥陀峰に向かわせて篝火を煌々と炊かせた。これを見た高師茂が、
多くとも 四十八には よも過ぎじ 阿弥陀峰に ともす篝火
と狂歌を読んで満座が笑いに包まれた。
意訳
阿弥陀峰にともす篝火がいくら多いと言っても、阿弥陀如来の顔の四十八を越えることはないだろう、いや越えてしまえば罰があたるだろう
阿弥陀峰にともす篝火がいくら多いと言っても、阿弥陀如来の顔の四十八を越えることはないだろう、いや越えてしまえば罰があたるだろう
七月十三日、新田義貞が一族四十三人を連れて、皇居へ参内し、詮度(せんど:運命を決める)合戦であることの決意を表す。次に名和長年も参内し、決死の覚悟を語った。この長い戦で後醍醐の膝元にいた公家武将で、結城、名和、楠木、千種は三木一草とよばれた四人組で、生き残った最期が一草の名和だった。
京都合戦は七月十三日午前十時頃から、予めの予定通りに開始された。まず東寺の高師直五百余騎が圧されて引いた。そこに尊氏の命を受けた悪源太が強弓で敵兵を押すと、東寺南大門の敵兵千余人は一斉に退いていった。敵の寄せ手は数万だったが師直が千余騎で立て直して南へ、師泰が七百余騎で竹田へ押し出すと、敵は元の八幡へ引き返していった。この官軍の負けが義貞に伝わらないうちに、義貞と義助二万余騎で、今路・西坂本から下って、名和軍五千余騎と合流して、圧していった。そして義貞二万騎は六条大宮から尊氏二十万騎とあたり、新田軍は足利軍によって左右に分割されようとして、苦戦しているなかで、尊氏との一騎打ちを自ら矢文を放ち挑戦する。このとき新田勢は足利軍三十万が取り囲む真ん中にいた。尊氏も一騎打ちに乗ろうとするが、上杉重能に諫められ、怒りを抑えて座った。新田軍はほぼ敗戦の体で、名和長年が大宮で敗死。ここで後醍醐の近衛兵二千余騎が疲れてきていた足利軍を追い立てたので、義貞、義助、江田、大館が万死に一生を得て、東坂本に逃れた。
阿弥陀峰で篝火を焚いていた阿波の者どもは、細川定禅に敗れて東坂本へ入った。結局京近辺の平場で官軍は多くの兵力を失い、比叡山の守備ができなくなり、足利軍はやすやすと登っていった。また後醍醐が南都の与力を頼みにしていたが、尊氏が南都興福寺に数カ所の荘園を寄付して味方にして、公武合体(こうぶがってい)の約束をすることで、後醍醐の戦力・戦費を削いでいった。
何しろこの時に比叡山に籠もった官軍は二十万人にもおよぶ。六月上旬から九月まで、これらを養っているわけで、すでに兵糧などは尽きかけていた。延暦寺への奉納米も届かず、琵琶湖の船運も止められたので、籠城戦の様相を呈してきた。
この間に尊氏は新しい幕府の形を描いていて、京都に政権を置く場合、鎌倉幕府に比べて将軍家に直結する御家人の数が大きく不足すると考えた。そこで荘園は、現地で直接管理する荘官や地頭が居て、その荘園の領家は京都におり、またその荘園を本所(本家)へ寄進することで保護して貰う形式が一般的だが、荘官である御家人に荘園の一部を所領(私有)する許可を独自に与えるようになる。この期間は特に京都での戦争中だったので、京都付近の荘園でそのような御家人による所領許可(御教書)が発給されている。
九月二十三日すぎて、佐々木道誉が京から若狭路を回って、東坂本の後醍醐天皇に降参してきた。守護職にしてくれれば近江国を平定しましょう、という提案だ。近江には今小笠原氏が居座っていて、これが邪魔な尊氏と道誉の作戦だった。道誉は後醍醐より守護職と闕所数十カ国を恩賞行われて、近江国へ派遣された。道誉が近江国え行けば、小笠原はすぐにでも上洛し、その間に道誉は近江国を管領して、小笠原の背後から東坂本を遠攻めにするという謀である。事実、この通りになり、急ぎ脇屋義助二千余騎を差し向けたが、船の上陸地点で馬を下ろすことが出来ず、殆ど負けてしまった。
ここで尊氏は、密かに後醍醐天皇に、「元の官職、元の所領に戻し、天下の執政を朝廷におまかせください」と述べた。これに歓んだ後醍醐は還幸の手順を決めていく。すでに降参するものは落ちていき、還幸の時期を待っていた。十月九日、大舘氏明と江田行義は新田一族だが、二人とも足利軍に降参しようと思っていて山を登っていると、義貞がいて、洞院実世から、「天皇が京都へ還幸するので、供奉の人を召しているところだ、ご存じでしたか」と告げられて、義貞は「そんなことがあるはずがない。お使いの聞き間違いにちないない」と言ったが、騒ぐ様子も無かったので、堀口貞満が「江田と大館が何の用もないのに、この早朝に根本中堂へ参るのは怪しい。貞満がまず内裏へ参って様子をみてきましょう」。結果的に還幸の準備は進んでいて、義貞は参内して後醍醐天皇に翻意を促す。後醍醐は兵が疲れたので尊氏と一時和睦して、しばらく時機の到来を待とう、それが還幸の目的だ、という。そして後醍醐天皇が京都に戻れば、義貞が朝敵になる可能性があるから、春宮(とうぐう:恒良親王)に天子の位を譲ろう、と言う。この日(九日)義貞は日吉山王七社の一宮である大宮権現に参拝し、朝敵討伐の祈願をした。
新田義貞と一緒に北国へ落ちたのは、尊良親王(一宮中務卿)、洞院実世・定世、三条泰季など七千余騎である。
後醍醐の還幸は法勝寺付近まで到達すると、直義五百余騎でお迎えして、三種の神器(贋物)を渡された。その後後醍醐は花山院に幽閉される。降参した武将も菊池肥後守や宇都宮公綱は脱出している。
義貞軍勢七千余騎で塩津・海津に到着した。越前の守護は足利一門の斯波高経で、山中の交通の要所を塞いでいたため、八伏山の南麓木目峠を越えた。すでに雪が降って、時雨が止まず、例年よりも寒い。道に迷い、宿も無く、弓を折って薪とし、凍死する者が出る有様だった。後陣の千葉貞胤は、斯波高経から懇ろに招待を受け、不本意ながらも高経に従った。
十月十三日、義貞は敦賀の津に着いた。宮方を金崎城に入れて、他の軍勢は敦賀の民家に宿を定めて、疲れを癒やした。ここに一日逗留して、一箇所にいては危ないと大将を国々の城へと分けた。義貞は金崎城に入り、子息の越後守義顕には北国勢二千余騎で、越後国へ下向させた。脇屋義助は千余騎で瓜生の杣山城へ派遣した。これらはすべて金崎城の後詰めとしての布陣である。
一方京都では、光明天皇に三種の神器(贋物)が渡り、尊氏政権の合法化手続きが終了する。これが建武三年(1336年)十一月二日で、七日には建武式目(二項十七箇条)が制定され、室町幕府の実質的成立となる。建武式目は他の法律とは異なり、将軍尊氏が問いかけて、それに直義以下の行政官が答えるという「勘文(かんもん)」という上申書形式になっている。聖徳太子の十七条の憲法のような感じではない。建武式目で第一項幕府の所在地について尊氏が「鎌倉元のごとく柳営たるべきか、他所たるべきか否やの事」と問うと、答申では「居処の興廃は、政道の善悪によるべし。これ人凶は宅凶にあらざるの謂なり。ただし、諸人もし遷移せんと欲せば、衆人の情(こころ)にしたがふべきか」とある。意味がわからないと思うが、これは「幕府首都は鎌倉でもよいが、発展は政道次第なので、京都でもよいのではないか」ということなのだ。この建武式目は誰が作ったかというと、よくわかっていないが、尊氏と直義、そのブレーン(勘申者)ではないかと想像する。この上申を行う勘申者は八人いたといわれている。是円、真恵(是円の弟)、日野藤範(公卿)、玄恵、少弐頼尚、太田七郎左衛門尉(顕連?)、後二名は旧幕府奉行人。
さて、十一月十四日、脇屋義助と義貞の息子義顕三千余騎で、敦賀の津を発って、まず杣山を越えた。越前国司・検非違使判官・瓜生保と弟・兵庫介重(しげし)、弟・弾正左衛門照(てらす)の三兄弟が、新田勢をもてなした。さらに五六百人に兵糧を持たせて新田勢の上京に下行(げぎょう:一緒に行動し食事の世話をすること)させた。脇屋義助は息子・義治(十三歳)を瓜生保の弟・義鑑坊に預けたが、瓜生は寝返って落ちて言ってしまった。軍勢はわずか二百五十余騎となり、金﨑城へ戻っていった。義助と義治の再会は叶わなかった。二百五十余騎は途中、今庄久経が立ち塞がり戦にはならなかったのに、逃げ出す者がいて、わずか十六騎となった。
この金崎城を足利軍の瓜生(先日寝返った)・富樫・野尻・井口・豊原・平泉寺に剣・白山の衆徒等三万余騎で取り囲んだ。城中からたった十六騎で寄せ手の中を駆け抜けると、追うこともせず、大軍に怯えて足か軍は逃げ散ってしまった。このできごとが尊氏に伝わると、斯波高経は北陸道勢五千余騎を率いて、蕪木(福井兼南条郡河野村甲楽城)から北上した。仁木頼章が千余騎で塩津へ向かい、今川頼貞は七百余騎で小浜へ向かい、細川頼春は二万余騎で東近江から向かい、高師泰は六千余騎で荒血中山(滋賀県高島郡)から、小笠原貞宗が五千余騎で(福井県南条郡今庄町新道)から、佐々木塩冶高貞は三千余騎で兵船五百余艘に乗って会場から向かった。
花山院に幽閉されている後醍醐の元へも金崎城の義貞勢の活躍は聞こえ、九州では逃亡していた菊池武俊、日吉法眼などが挙兵し、国中を打ち払い、天下の形勢も逆転するやも、と内奏するものもいた。そこで後醍醐は三種の神器を新しい勾当内侍に持たせ、地震は女房の姿になり馬に乗り、南都に向かって脱出した。八月二十八日の夜大和国賀名生(あなふ)に到着した。吉野に使いを出し、その後、姿を元に戻し、吉野へ臨幸された。後醍醐は吉野で高野山を進行されて、様々な所領を寄進していた。これが後醍醐の片意地と思われて、吉野近郊の武将だけでなく、諸寺・諸社の衆徒・神官は後醍醐に付き従ったが、根来衆などはその心を忌み、吉野へは参上しなかった。こえは高野山と根来寺の確執でもあった。
さて後醍醐脱出後の京都は不安な毎日を過ごしていた。一方越前の金崎城には十一月二日に吉野の後醍醐から綸旨が届いた。この噂が城外にも漏れ、足利方に寝返った瓜生兄弟が、再び新田方に寝返った。そして十一月八日、瓜生兄弟は杣山城に帰り、飽和社で反足利の兵を挙げた。その数千余騎。攻め城に火打が城として、兵糧七千余石を蓄えた。この知らせを受けた足利方高師泰は、速攻を選択して六千余騎を杣山城を攻撃した。十一月二十三日、足利軍六千余騎、深雪の行軍の中、瓜生のゲリラ戦に遭遇し、多くの犠牲者を出した。建武四年/延元二年(1337年)正月七日祝宴が終わって、十一日、雪風晴れたので新田義治は里見伊賀守五千余人を敦賀に派遣した。葉原まで来ると、高師泰三千余騎と今川頼貞二万余騎で里見勢を打ち向かえた。ここで里見、瓜生、義鑑房、あわせて五十三人が討ち死にした。
金崎城にとっては敦賀の瓜生勢は、金崎城が攻められたときの援軍(後詰め)であったが、それが討たれてしまい、孤立無援となってしまった。そこで新田義貞と脇屋義助、洞院実世は密かに城を脱出し、杣山城に移った。さらに三月五日の夜半には杣山城から落ちていった。三月六日には金崎城は大方攻略された。落城にあたって新田義顕は尊良親王に、「上様は、たとえ敵陣でもお命を失うことはないと思いますので、このままでいらしてください」と述べたが、「臣を失っては元首が存在しえようか。そもそも自害はどのようにするのか」と問われ、義顕は「このように」と申して、自分の刀で小脇をかき破り、その刀を宮に差し置いて、そのまま義顕は死んだ。宮はその刀を胸に突き立て、義顕を枕に自害した。兵三百余人がこのとき自害した。
三月七日夜明けに金崎城の討ち死に、自害の首百五十一を実検したが、新田義貞、義助の首は無かった。義顕と一宮の首は京都に運ばれ、義顕の首は大路に曝され、一宮の首は御葬礼の儀式が行われた。また新田勢に同行していた春王恒良親王は幽閉される。
建武三年(延元元年)六月十日、持明院統の光厳院太上天皇が重祚し光厳天皇となる。光厳天皇は鎌倉末期に後醍醐天皇が失脚した際に、即位し光厳天皇となる。しかし後醍醐自身が廃位をと光厳の即位を認めなかったため、現在の皇統には含まれていない。八月十一日に足利権大納言尊氏が正二位にあがり大納言となった。また征夷将軍の武官を兼ねた。左馬頭直義は位四品(従四位)に叙し、宰相に任じられ、副将軍となった。八月二十八日に延元に改元。
さて、新田義貞と弟・脇屋義助は金崎城陥落の後、杣山の麓にたる瓜生の館で日暮していた。馬具、武器も無く、軍勢もない。国々に密かに使いを出して、なんとか三千余騎が集った。この事が京都に知られ、足利高経、弟・斯波家兼に六千余騎をあたえて、越前国府に赴かせた。しかし、国府の新田軍は大勢で、杣山城は要害なので寄りつけず、互いににらみ合いとなった。細かな小競り合いを経て、雪深い中で義貞と義助は杣山から討ち出て、足利高経、斯波兼家兄弟を落とした。ここで、義貞・義助の生存を尊氏と直義が認識した。これに幽閉している春宮(とうぐう)恒良親王が新田兄弟を助けるために、金崎城で自害したと嘘の発言をしたため、杣山への討手が遅れてしまった。春宮は将軍の宮成良親王(直義と一緒に東国平定に向かった将軍)と一緒に幽閉されていた。尊氏・直義は両宮の毒殺を命じる。
将軍の宮はこの毒を見ると、命を縮める毒だといって捨てた。春宮はこれを手に取って、「そもそも尊氏・直義等はそれ程に情けなき所存をさしはさむものならば、たとひこの薬をのまずとも、遁るべきいのちかは。」と言って、毒を飲み、毎日念仏を唱えていた。毒を飲み始めて七日目で春宮は苦しむこと無く四月十三日の暮れに亡くなった。将軍の宮はさらに二十日間生き延びたが、全身に黄疸が生じ亡くなられた。
(続く)