新潮日本古典集成別巻 二
南総里見八犬伝第四輯
南総里見八犬伝第四輯
八犬伝第四集叙
01 狗之夜を守るや性なり。
02 主を敬い主を識るや、性なり。
03 諺に曰(いわく)、跖(ふむ)か堯(ぎょう)を吠ゆ、此れ其狗之罪に非ず。
04 臣子之乱調に於る、善く其職を守る、私無きは、是の若くなる当(べし)。
05 何となれば、殷の三賢西伯に忠なら不(ず)。
06 然れども周敢て之を罪とせ不(ず)。
07 故に孔氏の曰(いわく)、君君たら不(ず)雖(いえども)、臣以(もって)臣たら不(ざ)んばある可ら不(ず)。
08 父父たら不と雖、子以子たら不んばある可ら不。
09 蓋比干箕子等之謂(いわん)歟(か)。
10 是に由て之を観れば、其性の捷(すぐる)所、狗と雖以人に異なること無し。
11 嗚呼夫(かの)君之禄を食て、父母をして愁へ令しめ、夫婦相虐し、兄弟讐と為り、旧を遠ざけ新を迎え、狺々(きんきん)呀々(がが)として利に走る者与(くみす)、大に逕庭有り、宣也、国に賢相有るときは、即姦佞之賓無く、家に良い狗有るときは、則窺窬之客無し。
12 是に於、四隣努め不して衛る可く、比屋枕を高して睡る可し。
13 是れ余が之八犬伝を為(つくりて)、以蒙昧を寤す所、抑義を茲(ここ)に取れり。
14 其書若干巻、既に布す干世に刊。
15 又編を継て第四集に到れり。
16 刊刻之際(あした)、書肆山青堂屢来て、序を微ること甚急也。
17 毎編自序有り、今可ら不辞す。
18 因て増て数行を附け以譴を塞ぐと云う。
02 主を敬い主を識るや、性なり。
03 諺に曰(いわく)、跖(ふむ)か堯(ぎょう)を吠ゆ、此れ其狗之罪に非ず。
04 臣子之乱調に於る、善く其職を守る、私無きは、是の若くなる当(べし)。
05 何となれば、殷の三賢西伯に忠なら不(ず)。
06 然れども周敢て之を罪とせ不(ず)。
07 故に孔氏の曰(いわく)、君君たら不(ず)雖(いえども)、臣以(もって)臣たら不(ざ)んばある可ら不(ず)。
08 父父たら不と雖、子以子たら不んばある可ら不。
09 蓋比干箕子等之謂(いわん)歟(か)。
10 是に由て之を観れば、其性の捷(すぐる)所、狗と雖以人に異なること無し。
11 嗚呼夫(かの)君之禄を食て、父母をして愁へ令しめ、夫婦相虐し、兄弟讐と為り、旧を遠ざけ新を迎え、狺々(きんきん)呀々(がが)として利に走る者与(くみす)、大に逕庭有り、宣也、国に賢相有るときは、即姦佞之賓無く、家に良い狗有るときは、則窺窬之客無し。
12 是に於、四隣努め不して衛る可く、比屋枕を高して睡る可し。
13 是れ余が之八犬伝を為(つくりて)、以蒙昧を寤す所、抑義を茲(ここ)に取れり。
14 其書若干巻、既に布す干世に刊。
15 又編を継て第四集に到れり。
16 刊刻之際(あした)、書肆山青堂屢来て、序を微ること甚急也。
17 毎編自序有り、今可ら不辞す。
18 因て増て数行を附け以譴を塞ぐと云う。
分析三年庚辰冬十月端四、干著作堂の西廂、山茶花開く処に書す。
飯台 曲亭蟫史
狂題
一犬当尸鼠俗不能進矣
犬乎犬乎勝於猫児以虎
犬乎犬乎勝於猫児以虎
ぬばたまの夜をもる犬は猫ならで
あたまのくろきねずみはばかる
あたまのくろきねずみはばかる
□斎閑人狂題
※□=賴に鳥
※□=賴に鳥
-------------------------------------------------------------------
新潮日本古典集成別巻 二
南総里見八犬伝第四輯
巻之一
南総里見八犬伝第四輯
巻之一
第三十一回 水閣扁舟資両雄 江村釣翁認双狗
水閣(すいかく)の扁(こ)舟両雄を資(たす)く
江村の釣翁(つりびと)双狗(そうく)を認(みし)る
江村の釣翁(つりびと)双狗(そうく)を認(みし)る
昔の人が言ったように、禍福(かふく)は糾(あざな:組み合わせる)う縄(なわ)の如し、人間万事往くとして、塞翁が馬(さいおうがうま)[注1] にならないものはない。それは福(さいわい)の寄る所であり、また禍(わざわい)の伏する所で、そこにあればここにもある。そう思っていても予め誰かが良くその究極を知っているのだ。憐れなのは犬塚信乃、親の遺言と形見の名刀を、心に占めて、身に着けて、艱苦の内に年を経て、機会がないと思っていたのに、ようやくはるばる許我へやってきて、名を揚げ、家を興そうとして、その福と禍が、あっというまにいれかわったのは村雨の刃が、本物では無く、我が身を劈(つんざ)く讐となってしまい、憾みを釈明する間も無く、事が急変してしまった。わずかに当面の辱めを避けようと思うばかりに、多くの囲みを切り開いて、芳流閣の屋根の上によじ登ったが、左右に逃れざるべき道もなく、そこで決死を極め、心の中はどのようなのか、想像(おもいや)るのも可哀想でならない。
そしてまた、犬飼見八信道(いぬかいけんぱちのぶみち)は、犯した罪は無いのに、先月から獄舎につながれた禍は、今、恩赦によって福となり、自分の縛めの繩を解いて、人から言われた捕手の役義、
「犬塚信乃を捕らえよ」
といわれ、簡単に選ばれて、
「他の憂いを自分の面目に、今更用いられると言うことは、考えてもいない」
と思ったが、断って許されるわけもなく、君命は重く、弥高(いやたか)き、あの楼閣は三層なので、その二層の軒の上まで身を隠して登ってみれば、足下遠く、雲近く、照日激しく耐えがたく、時期は六月二十一日、昨日も今日も乾蒸(かんむし)の、火照りを渡る敷き瓦は、凹凸隙間無く、波に似て、下には大河が滔々と流れ、ここが生き死にの海に入る、流れは名に負う坂東太郎、水際の小船は楫(かじ)を切ってあり、進退既に窮まっているが、敵にしてみればどであれ、繋ぎ止めてみせようと、鼯(むささび)が木を伝うようにさらさらと、登り着いた三層の屋根にはまぶしく影もなく、迭に透かして窺いながら、にらみ合って立つ形勢で、浮図(ふど:仏塔)の上にある鸛(こう:こうのとり)の巣を大蛇が狙うのに似ていた。広庭には成氏朝臣、横掘史在村等の老党若党が囲繞(いじょう:周りを取り囲むこと)して、床几に腰を落として、
「勝負はどうなったのか」
と見上げていた。またその閣の東西には、腹巻きした多くの士卒が槍、長刀(なぎなた)を晃かし、または矢を背負い、弓を杖突たてて、
「組んで落ちてくれば、撃ち留めよう」
と、項をそらして、閣上を見ていた。しかし外であ綿連として遥かから河水巡りて水際を浸していて、例え信乃が無事に力が衰えず、見八に勝ったとしても、墨氏が飛鳶(ひえん)[注2] を借りなければ、虚空を翔ることはできないように、魯般が雲の架け橋[注3] がなければ、地上に降りる方法も無い。信乃も鳥でなくても網に入り、獣でなくても狩り場に在る。ほんの少しでも息絶えれば、戦いは終わる。逃れられないと思われたのだった。
その時信乃は、心の中で、
「初層、二層の屋根の上まで、追登ってきた強者等を、切り落とした後に、近づく者が絶えているが、今、ただ一人で登って来ているのは、おそらく強い力士なのだろう。そいつはこの、膳臣巴提便(かしわでのおみはてべ)が虎[注4] を手打ちにするような勇ましい男だろうか。また、富田三郎のように鹿角を裂く力[注5] のある者だろうか。そうであっても一人の敵である。引き組んで差し違え、死ぬことなど難しくはない。良き敵であれば、さあこちらへ。目に物を見せてやろう」
と血刀を袴の裾で推し拭って、高瀬のような箱棟(はこむね:屋根の大棟を箱形で装飾したもの)に立ったままで、寄せてくるのを待っていると、見八もこれを見て、
「あの犬塚の武芸勇敢は、素より万夫不当(ばんぷぶとう:万人が当たっても叶わない剛勇の者のこと)の敵である。簡単には搦められないが、他人の助けを借りるぐらいならば、獄舎の中からこの役儀に選ばれ出された甲斐がない。搦め捕るのも撃たれるのも、勝負は一時(いちじ)に決まるだろう」
と思っているが、少しも疑うこと無く、
「御諚(ごじょう:命令)ですぞ」
と呼びかけて、持っている十手を閃(ひらめ)かし、跳ぶように箱棟の、左の方に進み登って、組もうとするが寄せ付けず、
「よし、わかった」
と鋭い大刀風に、撃つを発止と受け止めて、払うとすかさず切先を差し込み、これを支えて流す一上一下、滑る甍を踏み留まって、しきりに進む捕り手の秘術、片方も劣らぬ手練の動き、上から落とす大刀筋を、あちこち外し、虚々実々、いまだに勝負がつかないので、広庭の主従士卒は手に汗握る暇も無く、瞬きせずに気をこめて、見る目もとても忙しかった。
そして、犬塚信乃は、侮れない見八の武芸に、良い敵を得たと思うと、勇気が弥増(いやま)して、切先から火が出るまで、寄せては返す、大刀音とかけ声、両虎深山に挑むとき、錚然(そうぜん:金属が撃ち合って鳴る音の響く様)として風が起こり、二龍青潭(にりゅうせいたん:二つの龍が青く深々とした海。馬琴の造語)で戦う時、沛然(はいぜん:盛大な様)として雲が起こる、このようなことが起きているのだ。春ならば、峯(みね)の霞か、夏ならば、夕べの虹か、と見えるように、とても高い閣の棟で、死を争う様子は、まさしく未曾有の晴れ業(わざ)であり、見八は着込みの鎖、籠手の端を裏欠けるまで、切り裂かれていたが、大刀を抜かず、信乃は刀の刃も続かず、はじめに浅手を負っていたため、次第に痛みを感じてきたが、足場を考えて、弛まず退かず、たたみかけて撃つ大刀を、見八は右手に受け流して、返す拳に付けいりつつ、
「やぁ」
とかけた声とともに、眉間をめがけてパタッと打つと、十手をさっと受け取り、信乃の刃は鍔先より、折れて遥かに飛んでいってしまった。見八、
「よし、これで」
とぐっと組むと、そのまま左手で引き付けて、互いに利き腕をしっかりととり、捩じり倒そうと声を合わせて、揉みつ揉まれる力足、これを同時に踏み滑らせて、河辺の方へところころと、体を転がして覆車(ふくしゃ:転がった車)の米俵が、坂から落ちていくのに等しくて、高低険しい桟閣(がけつくり)に削り成した甍の急坂で、止める間も無く、互いに掴んだ拳を緩めず、幾十尋(いくとひろ)の屋根の上から、末は遙かな河水の底には落ちず、丁度良いところに、水際の砂下駄小船の中へ、重なったまま、どっと落ちれば、傾く舷(ふなべり)と、立浪い、さぶんと音がして、水煙が立ち上って、そのとき艫綱(ともづな)も張切れて、射る矢よりも早い河の流れで、真ん中に吐き出されてしまい、しかも追い風と引き潮だったので、誘う水のように船は下りはじめてしまい、行方知れずとなってしまった。
思いがけない状況に士卒等は一斉に騒ぎ立ち、
「ここか、あそこか」
と罵るように閣中の番卒が、窓から先程の光景を、よく見ていたので、やがて詳細が伝わっていき、成氏はそれを聞いて、怒り、疑ってすぐに自ら閣に進み入って、窓から眺めてみると、確かにその時期漁猟のためにと外に繋いでいた、一艘の早船がなかった。ただ張り切れた艫綱の端だけが岸の杭に残っていた。ここで止めるわけには行かず、横掘在村に下知を伝えて、すぐに水門を押し開けさせ、用意した早船四五艘に、士卒を分配して乗せ、自らも載って、艪(ろ)を連ねて、楫(かじ)を操作して、飛ぶように追いかけたけれども、すでに時間が経過していて、二三里の間には影も見ることが出来ず、跡も見つけられなかった。この河は一条(ひとすじ)なので、自由に他領に入るので、そこで人を捕まえるのは、権威を誇る在村もさすがに、すぐには手を出せないと思いながら、怒りを感じて士卒を罵り、そこより船を戻して、さて成氏に、
「信乃と見八が落ちた船を追跡しましたが、彼らは数刻の苦戦で疲れて、ただでさえ高い閣の棟から組んだまま落ちたのですから、肉は傷つき、骨は折れて、死んでいることは無いにしても重症でしょう。そうであっても、そうなった果ての姿を見極めなければ、遺恨が残ります。彼の河下は葛飾で、行徳の浦に出ます。そこから南は安房上総、北は武蔵の江戸、芝浜、或いは水戸浦銚子口、半ば御方(みかた)の地ですので、捜索するのに都合がよいでしょう。再び士卒を遣わせて、水陸ともに、詮索したく、ご許可をお願いします」
と言う。成氏はそれを聞いて、頷き、
「お前のその考えは、私の思いを叶えるものだ。しかし、わずかに一人の曲者に、隣郡を騒がすことはできまい。それは私への侮りを招く発端となる。それゆえに、他領に入って密かに行方を尋ねて、信乃がもし存命だったならば、計略をめぐらして、事を穏便に搦め捕らえよ。急げ、急げ」
と忙しく催促すると、在村は心得た様子で、急いで退出しつつ本藩の武者頭、新織帆太夫敦光を追手の大将に選び定めて、先程の君命を述べ伝えて、
「曲者、信乃の顔形、あなたはよく知っているな。また、その武芸早業は、あなたがよく知っているところだ。ゆえに捕り物が簡単にはいかないぞ。力をもって征するよりも、智をもってこれを謀ることこそ上手くいくだろう。たとえ彼が船中で死んでいても、その首級を捕って帰って来なければ、駿馬の骨を買うのに勝らん。たとえ日が暮れても、夜中にかけても道を急ぎなさい。遅々として罪を重ねないように」
と厳かに掟を示すと、帆太夫は承って、異議も挟まず、急いで旅装を整えながら、日は西山に傾く頃、夥兵を三十余名率いて、許我の城下をあちこちと、板東河原の流れに沿って、葛飾の方へ赴いていった。
----------------<<注釈>>----------------
[注1]塞翁が馬
中国の北辺の老人(塞翁)の飼っていた馬が逃げたが、後に立派な馬をつれて帰ってきた。老人の子がその馬から落ちて脚を折ったが、そのために戦争に行かずにすんだ。このように人生の吉凶は簡単には定めがたいことをいう「淮南子‐人間訓」の故事による格言。人間万事塞翁が馬。〔東海一漚別集(1375頃)〕[日本語大辞典]
[注2]墨氏が飛鳶
韓非子「外儲説」にある墨子の話で、墨子が木で鳶(トビ)を三年がかりで作ったところ、飛ばしてみるとたった一日で壊れてしまった、という話。
墨子為木鳶、 墨子木鳶(ぼくえん)を為(つく)り、
三年而成、蜚一日而敗。 三年にして成り、蜚(と)ぶこと一日にして敗(やぶ)る。
三年而成、蜚一日而敗。 三年にして成り、蜚(と)ぶこと一日にして敗(やぶ)る。
弟子曰、 弟子曰く、
先生之巧、至能使木鳶飛。 「先生の巧、よく木鳶をして飛ばしむるに至る」。
先生之巧、至能使木鳶飛。 「先生の巧、よく木鳶をして飛ばしむるに至る」。
墨子曰、 墨子曰く、
吾不如為車輗者巧也。 「われ車輗(しゃげい)を為る者の巧なるにしかざるなり。
用咫尺之木、不費一朝之事、 咫尺(しせき)の木を用い、一朝の事を費やさず、
而引三十石之任、 而(しか)も三十石の任を引き、
致遠力多、久於歳数。 遠きを致し力多く、歳数に久し。
今我為鳶。 今、われ鳶を為る。
三年成、蜚一日而敗。 三年にして成り、蜚ぶこと一日にして敗(やぶ)る」。
吾不如為車輗者巧也。 「われ車輗(しゃげい)を為る者の巧なるにしかざるなり。
用咫尺之木、不費一朝之事、 咫尺(しせき)の木を用い、一朝の事を費やさず、
而引三十石之任、 而(しか)も三十石の任を引き、
致遠力多、久於歳数。 遠きを致し力多く、歳数に久し。
今我為鳶。 今、われ鳶を為る。
三年成、蜚一日而敗。 三年にして成り、蜚ぶこと一日にして敗(やぶ)る」。
恵子聞之曰、 恵子これを聞きて曰く、
墨子大巧。 「墨子は大巧なり。
巧為輗、拙為鳶。 輗を為るを巧とし、鳶を為るを拙(せつ)とす」。
墨子大巧。 「墨子は大巧なり。
巧為輗、拙為鳶。 輗を為るを巧とし、鳶を為るを拙(せつ)とす」。
[注3]魯般が雲の架け橋
熟語で「魯般雲梯(ろはんのうんてい)」のこと。
魯般は、春秋時代の魯の工匠。公輸般(こうしゅはん)とも呼ばれ、城攻めの雲梯(うんてい)を発明した。彼が作る物がすべて素晴らしかったので、後に工匠の祭神となった。
[注4]膳臣巴提便(かしわでのおみはてべ)が虎
膳臣巴提便は日本書紀、欽明天皇代六年に記事がある。
冬十一月、膳臣巴提便、還自百濟言
「臣被遣使、妻子相逐去。行至百濟濱濱、海濱也、日晩停宿。
小兒忽亡、不知所之。其夜大雪、天曉始求、有虎連跡。
臣乃帶刀擐甲、尋至巖岫、拔刀曰
『敬受絲綸・劬勞陸海・櫛風沐雨・藉草班荊者、爲愛其子令紹父業也。
惟汝威神、愛子一也。
今夜兒亡、追蹤覓至、不畏亡命、欲報故來。』
既而、其虎進前開口欲噬。巴提便、忽申左手執其虎舌、右手刺殺剥取皮還。」
「臣被遣使、妻子相逐去。行至百濟濱濱、海濱也、日晩停宿。
小兒忽亡、不知所之。其夜大雪、天曉始求、有虎連跡。
臣乃帶刀擐甲、尋至巖岫、拔刀曰
『敬受絲綸・劬勞陸海・櫛風沐雨・藉草班荊者、爲愛其子令紹父業也。
惟汝威神、愛子一也。
今夜兒亡、追蹤覓至、不畏亡命、欲報故來。』
既而、其虎進前開口欲噬。巴提便、忽申左手執其虎舌、右手刺殺剥取皮還。」
意訳:
冬十一月に膳臣巴提便が百済から帰ってきて言った。
「私が使者として妻子と一緒に百済に派遣されたとき、百済の浜に到着し、
日が暮れたところで、愛する子が行方不明になり、その夜に多くの雪が降り、
夜が明け子を探すと、虎の足跡がありました。私は甲(よろい)を着て
洞窟に着き、刀を抜いて、言いました。
冬十一月に膳臣巴提便が百済から帰ってきて言った。
「私が使者として妻子と一緒に百済に派遣されたとき、百済の浜に到着し、
日が暮れたところで、愛する子が行方不明になり、その夜に多くの雪が降り、
夜が明け子を探すと、虎の足跡がありました。私は甲(よろい)を着て
洞窟に着き、刀を抜いて、言いました。
『詔を受けて苦労してたどり着いたのに、我が子を食べてしまったな。
命は惜しくないので報復してやる』
虎は目の前に着て飲み込もうとしたところを巴提便が虎の舌を掴んで、
右手で刺し殺して、皮を剥ぎ取って帰りました」
命は惜しくないので報復してやる』
虎は目の前に着て飲み込もうとしたところを巴提便が虎の舌を掴んで、
右手で刺し殺して、皮を剥ぎ取って帰りました」
日本書紀に、欽明期(6世紀半ば)にこの話が掲載されていることが重要で、欽明期に百済から我が国へ仏教が伝えられたとされ、欽明天皇は仏教に強く心を惹かれた人物でもある。そしてこの虎の話は、「金光明最勝王教」という教典(4世紀成立)に「捨身飼虎」という話がある。釈迦の前世で飢えた虎の親子がいて、それを救うために、前世の釈迦は自分の身を差し出して飢えをしのがせたという話だ。
巴提便は逆に、自分の子を食べられ、捨て身で虎を殺したという。これは、前世で釈迦が虎を助けたばかりに、飢えた虎に人間の子が食べられてしまった。という釈迦の行いへのしっぺ返しともいえる話だ。
したがって、日本書紀で仏教の経典とはまったく異なる行いをした巴提便の記事を載せることで、仏教への批判もあった事を暗に示しているのだと思われる。
八犬伝の物語では、膳臣巴提便は、単に虎を一人で退治した勇敢な人であることを意味している。
[注5]富田三郎のように鹿角を裂く力
富田三郎は富田親家のこと。鎌倉期の大力で、武蔵国児玉党三代目児玉家行の三男で、家行より児玉郡西富田郷若泉荘の富田を領地としてあたえられ、富田三郎親家を名乗り、富田氏祖となった。兄に、児玉庄太夫家弘と塩谷平太夫家遠。
富田三郎が大力として知られるようになったのは、和田義盛が健保元年に北条氏打倒のために挙兵した乱(和田合戦)に和田方につき、幕府軍に捕らえられたが、将軍源実朝が三郎の怪力を試すために、大鹿の角を差し出すと、これを折って、一同を感心させて錘を許され、紀伊国の領地まで与えられた。これ以降富田三郎は忠臣として幕府に仕え、承久の乱で子息と共に活躍したが戦死した。[吾妻鏡]
(その1 ここまで)