ヴェレシュ・シャンドールの「交響曲第1番」 1940年作曲。日本政府からの紀元2600年祝典のための作曲委嘱によるもの。
ヴェレシュは1907年ハンガリーに生まれ、第二次世界大戦後の現代音楽家への弾圧からスイスに亡命し、晩年にスイス国籍を取得し、1992年にスイスのベルンで死去。
まず、ハンガリー出身者の名前の書き方に注意が必要だが、ハンガリーは日本と同じように、[姓][名]の順である。姓と名の間に、洗礼名やいくつかの名を持つ。したがって、ヴェレシュは姓である。同様にヴェレシュのリスト音楽院でのピアノの師匠であるバルトークは、「バルトーク・ベーラ・ヴィクトル・ヤーノシュ」が正しい姓名で、バルトークは姓である。「ベーラ」はWikipediaの表記を使っているが、個人的には「ベェッラ」または「ベラ」が発音に近いと思っている。
さて、ヴェレシュだが、バルトークの民族音楽研究の助手を長いこと務めた人で、バルトークが新古典主義派に属するとしたならば、ヴェレシュはそれを基軸とした民族音楽的20世紀音楽派だと考えている。20世紀音楽派の特徴は音楽に意志を持たせた楽派で、旋律や拍子に民族音楽の手法を取り入れることで、かなり複雑な表現をしながらも清廉な旋律と、確固とした土台を持った楽曲になっている。この点から現代音楽の作曲家である。
ヴェレシュはフランツ・リストの孫弟子だったバルトークにピアノを師事しているので、リストの曾孫弟子だ。作曲はコダーイに師事している。
日本政府が「紀元2600年」は西暦1940年である。日本の「紀元」とは初代天皇である神武天皇が即位した年を皇紀元年とするものだ。ちなみに西暦では紀元前660年2月11日。この紀元または皇紀は明治政府になってから考え出されたもので、江戸期までは我が国ではある年を原点とする遡及年の考え方をしてこなかった。これは元号や十干十二支による紀日、紀月表記にも現れている。明治政府は西洋に倣って太陽暦を導入し、日本書紀の記述にある神武天皇即位を紀元とする皇紀を用いた。この皇紀は第二次世界大戦まで使用されたが、戦後は使用されていない。この皇紀による紀年法は、江戸幕末期の尊皇運動の中で、西洋がキリストの誕生を紀元とする紀年があることを津和野藩の国学者大国隆正が指摘し、神武天皇即位を紀元とする紀年法をとることで、尊皇思想の基本的な経年土台を構築することに成功し、尊皇教育に貢献した。
紀元2600年(西暦1940年)は、我が国では様々な動きがあった年だ。もちろん皇紀が注目され津田左右吉が「神代史の研究」を発表し、神武天皇を含めた神代の天皇紀が明確に市民が知ることが出来るようになった。同時に軍による戦争や外国各地での日本の影響が及んでいる。南京で汪兆銘が、親日の南京政府(中華民国南京国民政府)を樹立した。これは日中戦争で蒋介石が日本と徹底抗戦を貫いていたため、日本との和平を探っていた 汪兆銘が北京のいくつかの政治権力を持つ集団と結集して、日本の後押しで南京に政権を樹立した。これには日本と同盟を結んでいたイタリアをはじめヴェレシュの祖国ハンガリーなども中国の正統政府と認定した。しかしアメリカやソビエト連邦などの連合国からは否定された。翌年の1941年にアメリカが日本に提示したハル・ノートには「蒋介石政権しか認めない」とあり、これがアメリカと日本の間の決定的な溝となり翌年1942年に日米開戦となる。
話をもどすと、この紀元(皇紀)2600年の祝典において、多くの音楽家へ作曲を委嘱している。西洋の音楽家の依頼は、「皇紀」の意味合いを世界に広めるという意図があったのは間違いない。ただし、神武天皇の即位が西暦紀元前660年というのは、現在の研究では否定的である。日本書紀の神武天皇即位の部分の記述
辛酉年春正月庚辰朔。天皇即帝位於橿原宮。是歳為天皇元年
とある。那珂通世の説は伴信友の見解を継承し、中国の辛酉革命思想が底辺にあって、十干十二支の紀年法では1周期が60月でこれを一元とよぶ。これが二十一元、1260年毎に大革命が生じるとするもの。そこで日本書紀作成時期で明確にわかっていた推古天皇九年(西暦601年)が辛酉年であることから、そこから二十一元(1269年)前を神武天皇即位の紀年とした。これによって、神代の天皇それぞれの紀年が長くなり、何百歳という天皇が誕生することになった。まぁ、皇紀が跡づけの紀元法であることは間違いない。
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