観応の擾乱 北朝消滅から正平の一統、北朝再建まで 追記メモ | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

同年(正平六年)十一月七日
【北朝消滅】
 南朝から四条隆資、洞院実世が上洛
 ★崇光天皇、皇太子直仁親王が廃されて、北朝消滅
 幕府は発給文書に正平年号を使用しはじめる
  南朝方元号
   興国7年12月8日(1347年1月20日) 正平(しょうへい)に改元
  ~正平25年7月24日(1370年8月16日) 建徳に改元
 年号
  1329年9月22日 元徳────────┐
  1331年9月11日  │        元弘(大覚寺統:後醍醐天皇)
  1332年5月23日 正慶(光厳天皇)   │
  1333年7月7日  ┴      ┌──┘
  1334年3月5日  建武(後醍醐天皇)─┐
  1336年4月11日 延元(南朝)    │
  1338年10月11日 │        暦応(北朝)
  1340年5月25日 興国(南朝)        │
  1342年6月1日  │        康永(北朝)
  1345年11月15日 │        貞和(北朝)
  1347年1月20日 正平(南朝)        │
  1350年4月4日  │        観応(北朝)
  1352年11月4日  │        文和(北朝)
  1356年4月29日  │        延文(北朝)
  1361年5月4日  │         貞治(北朝)
  1368年3月7日  │        応安(北朝)
  1370年8月16日 建徳(南朝)        │
  1372年5月   文中(南朝)        │
  1375年3月29日  │        永和(北朝)
  1375年6月26日 天授(南朝)        │
  1379年4月9日  │        康暦(北朝)
  1381年3月6日  弘和(南朝)        │
  1381年3月20日  │        永徳(北朝)
  1384年3月19日  │        至徳(北朝)
  1384年5月18日 元中(南朝)        │
  1387年10月25日 │        嘉慶(北朝)
  1389年3月7日  │        康応(北朝)
  1390年3月26日  │        明徳(北朝)
  1392年11月19日 明徳(統一)────┘
  1394年8月2日  応永(統一)
同年十一月八日頃
 尊氏は饗庭命鶴丸、朽木某を使者として義詮の許に派遣し、義詮の出陣を阻止
同年十一月十日
 義詮は尊氏の制止に納得せず出陣する意向を示すが、実現しなかった
  義詮の京都留守は正平の一統後の南朝動静把握、対直義強硬派の動向抑制のため
同年十一月十五日
 直義軍が鎌倉へ到着 鎌倉は直義派の関東執事上杉憲顕の勢力範囲
  鎌倉公方足利基氏(尊氏実子・直義猶子)が出迎える
同年十一月中頃
 中賀野掃部助(直義派)が駿河国府中に侵入
同年十一月十六日
 尊氏派の伊達景宗等が駿河国府中に攻撃、直義軍は久能山に撤退[美作伊達文書]
同年(正平六年)十一月二十二日
 奥州探題の一人吉良貞家が陸奥国広瀬川の戦いで、宇津峰宮(うづみねみや)・鎮守府将軍北畠顕信以下の南朝軍に惨敗し、本拠多賀国府を放棄[結城古文書写]
  このときは正平の一統後なので南朝軍は尊氏の同盟軍
同年十一月二十六日
 尊氏軍が遠江国掛川まで進出
同年十一月二十九日
 尊氏軍が駿河国薩埵山に到達し、籠城
 駿河守護今川範国と子息貞世(了俊)が尊氏軍に参加
 直義は伊豆国府に本陣を設営
 尊氏軍三千騎あまりを直義軍五十万騎が包囲[太平記]
 直義軍が京都に攻め上るという噂が京都で流れ、義詮が防戦の為に東国出陣しようとした
同年十二月一日
 義詮出陣は五日に決定
同年十二月三日
 尊氏は岡本良円を下野に派遣[秋田藩家蔵岡本文書]
  ★宇都宮氏綱を味方につけるための工作
同年十二月七日
 尊氏と義直が講和したという情報が京都に入った
 義詮の東国出陣は中止
 講和の情報は誤報だった
同年十二月十一日
 駿河国蒲原河原で尊氏軍と直義軍が交戦 尊氏軍の大勝[勝山小笠原文書]
同年十二月十五日
 下野税が宇都宮から出陣
  宇都宮氏綱が公義の勧めで三戸七郎(高師親、師冬の甥で猶子)を総大将[太平記]
同年十二月十六日
 直義が袖判下文を発給[筑後田代文書]
 下野軍が天命宿(てんみょうしゅく)に到着 七郎自害(脳溢血か?)
同年(正平六年)十二月十八日
 ●北朝から三種の神器を接収することを洞院公賢を通じて光厳上皇に通達
同年十二月十九日
 上野国那和荘で交戦 下野勢は上杉氏配下の桃井播磨守、長尾左衛門の軍勢を撃破
同年十二月二十日
 下野勢が武蔵国府中に侵入、小沢城を焼き払い、金井原でも戦闘
 その後相模原へ転戦
同年(正平六年)十二月二十二日
 ●光厳上皇が北朝からの三種の神器接収に返答
同年(正平六年)十二月二十三日
 ●北朝から三種の神器を南中に摂取された(正平の一統の講和条件に元弘一統時代への回帰、南朝に一元化することが明記されていた)
同年十二月二十九日
 下野勢は武蔵国足柄山で直義軍を駆逐
 甲斐国でも合戦があり、尊氏派の信濃守護小笠原政長が直義派武田上野介軍に勝利[石水博物館所蔵佐藤文書]
 ※下野・武蔵勢の接近により、薩埵山を包囲していた直義軍は崩壊
  薩埵山の仁木義長隊が伊豆国府に接近により、直義は伊豆国北条へ撤退
  上杉憲顕も逃走、途中相模国早河尻で千葉氏胤の妨害を受けたが、撃破して信濃方面へ没落
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正平七年・観応三年(1352年)正月一日
【直義降伏】
 尊氏軍は伊豆国府で宇都宮・薬師寺の援軍と合流
  次に信濃守護小笠原勢も合流
 ★直義は伊豆国走湯山権現社に撤退 ここで尊氏の勧告を受けて降伏
  仁木頼章・義長兄弟、畠山国清が迎えに行く
 陸奥国で南朝軍に大敗した吉良貞家が尊氏に帰参
同年正月五日
 尊氏と直義が鎌倉へ入った
同年二月三日
 ●後村上天皇が京都に移るために山城国石清水八幡宮へ赴くことを宣言し義詮に伝達
同年二月二十五日
 直義の甥で養子の基氏が十三歳で元服
同年二月二十六日
【観応の擾乱終決】
 直義死去(享年四十六歳)
 ●後村上天皇が賀名生の皇居を出発し、河内国東条に移動
同年二月二十八日
 ●後村上天皇、供奉の楠木正儀軍が摂津国住吉に行宮(あんぐう)を定めた
同年閏二月六日
 ●南朝は宗良親王を征夷大将軍に任命
  尊氏は罷免
   南朝が幕府を滅ぼす意図があることが明確になった
同年閏二月十二日
 ●義詮が恵鎮上人を摂津国住吉の後村上天皇の許へ派遣し、交渉
  新補地頭職と本補地頭職の管轄等、政策議論を行う
   義詮は幕府が行政長であることの意思表示か?時間稼ぎか?
同年閏二月十五日
 ●後村上天皇は摂津国天王寺へ移る
  関東地方では南朝方 新田義貞の遺児義宗、義興、脇屋義治ら上野国が蜂起
   同日中に上野を平定
同年閏二月十六日
 ●南朝新田軍は武蔵国へ侵入
同年閏二月十八日
 ●南朝新田義宗らが鎌倉に侵入、尊氏は武蔵国神奈川に転進していた
同年閏二月十九日
 ●後村上天皇は石清水八幡宮に入場
  石清水八幡宮は難攻不落の軍事要塞で観応の擾乱で直義が本陣を設営した
 ●南朝新田義宗らが尊氏を追走、義宗は武蔵国関戸、尊氏は武蔵国矢口にそれぞれ移った
 ●南朝征夷大将軍宗良親王も信濃国で挙兵、碓氷峠まで進出
 ●南朝方陸奥国司北畠顕信(親房の次男)が陸奥国白河関に進撃
同年閏二月二十日
 ◆楠木正儀を主力とする南朝軍が京都に侵入
  細川顕氏以下の幕府軍が応戦、七条大宮で激戦となり、幕府軍は敗北
   侍所頭人細川頼春が戦死
   義詮は近江へ没落、三条殿も消失
  南朝は光厳上皇・光明上皇・崇光天皇・皇太子直仁親王の身柄を拘束
 南朝
  総帥北畠親房は京都と関東で一斉軍事行動を起こし、一気に幕府を滅ぼそうと画策した
【武蔵野合戦 開始】
 ●南朝新田義宗と尊氏が人見原・金井原で激戦[武蔵町田文書]
  尊氏勝利 義興は鎌倉へ撤退
同年閏二月二十一日
 ◆南朝は光厳上皇等を石清水八幡宮へ連行【北朝の一時的な消滅】
  昨年十二月二十三日に三種の神器も南朝に接収されている
   室町幕府の正統性が失われた
同年閏二月二十三日
 南朝新田義興と北条時行は鎌倉を出て三浦半島へ逃亡[鶴岡社務記録]
 義詮は南朝の正平年号の使用をやめ、観応年号に戻した[内閣文庫所蔵朽木文書]
同年閏二月二十四日頃
 ◆義詮は近江国四十九院で美濃守護土岐頼康の軍勢と合流
同年閏二月二十八日
 ●尊氏軍は宗良親王・新田義宗らと武蔵国小手指原・入間河原・高麗原で交戦[武蔵町田文書]
  尊氏が武蔵国石浜まで一時撤退、新田軍が消耗したところで仁木兄弟軍が攻撃し、最終的に尊氏軍勝利[太平記]
 ●南朝新田義興が三浦隆道軍勢を率いて鎌倉に侵入、南宗継・宗直(宗継子息)、石塔義基(頼房の兄)らの軍勢と交戦、幕府軍敗北[鶴岡社務記録]
  宗継は鎌倉公方基氏を奉じて石浜の尊氏軍の許に脱出
同年閏二月二十八日~三月二日の間
【武蔵野合戦 終決】
 ●尊氏軍と義宗軍が武蔵国笛吹峠で最期の大決戦[太平記]
  尊氏軍勝利、上杉憲顕は信濃国へ、新田義宗は越後国へ没落
同年三月
 吉良貞家が陸奥国府を南朝から奪還[陸前白川文書]
同年三月二日
 南朝新田義興が鎌倉から撤退[鶴岡社務記録]
同年三月九日
 上杉憲顕が信濃国で死去[常楽記]
 ◆義詮は近江国四十九院を出発[長門小早川文書]
同年三月十二日
 尊氏が鎌倉へ戻る
  武蔵野合戦全体で幕府軍と南朝軍が拮抗している、すなわち幕府軍が弱体化している
  尊氏自ら前線で指揮を執ることで、東国平定による幕府の基礎を固めることが出来た
  尊氏は正平年号の使用を止めて、北朝の観応年号にもどした
【正平の一統の破綻】
同年三月十五日
 ◆義詮が京都を奪回し、南朝軍は石清水八幡宮へ撤退[祇園執行日記]
同年三月二十一日
 ◆義詮は東寺に本陣を設置、石清水八幡宮の後村上天皇以下の南朝軍を包囲攻撃開始[祇園執行日記]
  攻防戦は長期化
同年三月二十七日
 ◆洞ヶ峠で幕府軍、南朝軍が激突し美濃守護土岐頼康の舎弟悪五郎勇士が戦死
  幕府軍総大将:細川顕氏、参加武将:細川清氏、山名時氏、山名師義(時氏嫡男)、赤松則祐、土岐頼康
同年四月二十五日
 ◆幕府軍が石清水の建物に放火(建武五年(1338年)七月高師直が放火した攻撃と同じ)
  南朝軍は兵糧欠乏のため損耗。
  北畠顕能の家臣紀伊国熊野の湯河荘司までが幕府軍に投降
同年五月
 雑務引付が開催 高重茂と大高重成が頭人を務めた
 五方制引付方が復活
  頭人:石橋和義、大高重成、宇都宮蓮智、二階堂行朝、高重茂
【尊氏ー東国支配、義詮ー西国支配 の分割統治】
同年五月十一日
 ◆南朝軍の石清水八幡宮が陥落
同年七月五日
 細川顕氏が急死(足利直義の死後半年後)
同年八月頃
 伊賀守護を仁木義長から細川清氏に交代
同年八月十七日
【北朝再建】
 ◆弥仁王(いやひとおう:光厳上皇の第三皇子)が即位し後光厳天皇となり、北朝が再建
  三種の神器を欠く即位に皇位正統性に懸念あり
   後孝元、後円融、後小松 は神器無しでの即位だった
   →南北朝正閏(せいじゅん)問題の一因、近代まで影響
  後光厳天皇の即位は崇光系(伏見宮)と後光厳系の分裂をもたらした
同年九月十八日
 室町幕府追加法第六十条 制定
  西国の義詮下文に引付頭人による施行状を発給することを公式に制度化
同年九月二十七日(1352年11月4日)
 北朝は文和に改元
   
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文和元年(1352年)
 若狭守護が斯波家兼に交代(推定)
同年四月
 佐々木道誉の嫡男秀綱が侍所頭人 八月まで
 佐々木道誉の弟鞍智道朝(くらちどうちょう)が政所奉行人
同年十一月十五日
 室町幕府追加法第六十三条 制定
  命令権限 義詮御判御教書→引付方頭人奉書 を下す
   論人の反論に根拠があれば、引付方で理非糾明の信義を行う
文和二年(1353年)五月
 吉良貞家が陸奥国田村郡宇津峰城を陥落させて北畠顕信以下を駆逐[磐城大国魂神社文書]
同年五月二十日
【鎌倉幕府の系譜消滅】
 北条時行、長崎駿河四郎、工藤二郎が鎌倉の龍口(たつのくち)で処刑[鶴岡社務記録]
  北条時行は建武二年(1335年)に中先代の乱を起こし、尊氏に鎮圧された。それ以降南朝に帰順。
  ※北条時行の父北条高時(鎌倉幕府第十四代執権)を後醍醐天皇が率いる統幕軍の新田軍に追われ自刃している。にもかかわらず、南朝に帰順したのはなぜか。
  ※足利一門は北条一門と姻戚関係を結び、鎌倉幕府では厚遇を受けてきたため、これに対する反抗心か?
  駿河四郎、二郎はともに北条氏の御内人

同年七月末
 尊氏の帰京が決定
文和三年(1354年)
 佐々木道誉が政所執事 貞治二年(1363年)まで
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応安二年(1369年)
 楠木正儀は三代将軍足利義満の許で管領細川頼之が統治する幕府に寝返る
  講和派だった正儀は、南朝上層部へ不満をもった
  河内・和泉二カ国の主汚職と摂津国住吉郡の統治を認められる
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延徳二年(1490年)七月五日
 足利義材(よしき:後の義稙(よしたね))の室町幕府十代目征夷大将軍就任式開催
  御前御沙汰始の儀式[延徳二年将軍宣下記]
   御前御沙汰の別名を恩賞御沙汰という
   恩賞方衆を御前衆とも呼ぶ
   評定を寺社方御沙汰ともいう