観応の擾乱 尊氏・義詮ー直義講和決裂まで 追記メモ | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

 

<<貞和五年以前は省略>>

 

貞和六年(1350年)正月三日
 高師冬が関東執事に任命され東国に下向 関東執事高重茂(師直の弟)と交代
  もう一人の関東執事上杉憲顕(直義派、尊氏・直義の従兄弟)
同年正月十一日
 赤松円心が死去 摂津守護範資が円心の播磨守護職を継承
同年二月二十七日
 北朝「観応」に改元
観応元年(1350年)三月二日
 玄恵法印(師直の許可を得て直義と面会していた)死去
同年三月頃
 直冬討伐構想
同年三月十八日
 直冬の部下今川直貞が肥前国に侵入、各地を転戦[肥前武雄神社文書など]
  ●九州探題は足利一門の一式道猷(どうゆう)範氏ー直氏・父子で九州を統治
  ●肥前国守護は大友氏康だが、実質的に九州探題の直轄地 < 直冬の攻撃目標となった
同年四月八日
 摂津守護・播磨守護赤丸範資が死去
  摂津守護は範資の嫡男光範が継承
  播磨守護は円心の三男則祐が継承
   赤松則祐が南朝興良親王を奉じる
   則祐は元は比叡山の僧侶。天台座主の護良親王が後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒の挙兵に応じたので、則祐も護良親王に従った。一方で父円心は鎌倉幕府方武将で、後醍醐方と戦っていた。則祐が護良親王の令旨を円心の元に持参し、寝返らせた。しかし鎌倉幕府滅亡後、建武政権下では護良親王は冷遇され、中先代の乱の混乱の中、鎌倉で足利直義に殺害された。
    建武新政下での護良親王の失脚は半尊氏派だったため
    円心が後醍醐ー尊氏に味方したのは、情勢判断から
    則祐は護良派の筆頭
同年四月二十一日頃
 玄恵追悼の歌集「玄恵追悼詩歌」を直義の勧進で完成
同年四月二十二日から五月二十一日
 直冬軍が肥後国鹿子木(かのこぎ)城を攻撃
同年六月二十一日
 光厳上皇院宣による直冬討伐命令、錦の御旗下賜[祇園執行日記]
  高師泰を大将、同時に石見・備後・長門守護に任命
   最初に石見国人・三隅兼連(みすみかねつら:南朝方から直冬方へ)を討伐[太平記/周防吉川家文書]
同年七月
 今川頼貞が但馬守護に就任(上杉朝房と交代)
 美濃国土岐周済(直義派?)の乱、尾張国凶徒(きょうと)も参加して近江国へ侵入
  美濃守護土岐頼康は尊氏ー師直派でこれに反抗した?
同年七月二十七日
 光厳上皇が義詮と師直に馬を下賜
同年七月二十八日
 義詮が執事高師直等の軍勢を率いて出陣
  ●義詮の実質的な大将>次期将軍の地位確実に(尊氏の意向)
同年八月二十日
 義詮ー師直軍は土岐周済を捕縛し乱を鎮圧、京へ凱旋
  周済は近江守護佐々木六角氏頼預かり
  ●師直生涯最後の勝利戦となる
同年八月二十二日
 義詮が土岐周済の乱鎮圧の功績により、参議および左近衛中将に任命
同年八月二十八日
 周済は六波羅地蔵堂焼野で処刑
同年九月はじめ
 信濃、日立、越後など数カ国で反乱が勃発
同年九月二十八日
 筑前・豊前・対馬守護少弐頼尚(尊氏の九州からの逆転を助けた)が直冬方へ[肥前松浦文書など]
  直冬が頼尚の娘婿に[太平記]
  ●頼尚の転向は直義の指示か?
同年十月
 豊後守護大友氏泰が直冬方へ。氏泰の京都代官2名が逃走
 日向守護畠山直顕(なおあき)は直義ー直冬派
 武蔵守護代薬師寺公義が下総国古河を経由して、常陸国信太上条(しだかみじょう)に進出[豊島宮城文書]
同年十月十六日
 将軍足利尊氏が自ら九州に遠征を決定(建武二年(1335年)以来の戦場入り、十五年ぶり)
  師直の強い要請に応じた[太平記]
  京都留守を義詮、侍所頭人仁木頼章・弟義長、政所執事佐々木道誉らが補佐
同年十月二十日
 越中守護桃井直常(直義派)の軍勢蜂起、氷見湊を攻撃
同年十月二十六日
 ★直義が京都から脱出 → 大和国の越智伊賀守を頼る
   直義は大和国から師直・師泰誅伐を命じる軍勢催促状を多数発給[筑後田代文書など]
  仁木・細川が師直に報告、出陣延期して直義捜索を進言。師直はこれを拒否。[太平記]
   ⇔直義捜索を師直が主張したが、尊氏が拒否[園太曆]
同年十月二十八日
 尊氏ー師直等出陣
  同年六月二十一日の師泰派遣から四ヶ月経っている
  軍勢四百から五百騎ほど[園太曆]
同年十一月
 讃岐守護細川顕氏(直義派)が派遣した内嶋弥六が土佐守護高定信の代官佐脇太郎入道の城を攻撃
同年十一月二日
 三宝院賢俊(さんぽういんけんしゅん:日野家出身)が尊氏ー師直軍に従軍するため京都を出発
同年十一月三日
 畠山国清が直義の軍勢催促状に基づいて南朝方の和田助家を勧誘する手紙を出す[和田文書]
  ●畠山国清は足利一門 建武の戦乱から尊氏に従って全国を転戦「無二の将軍方」と評された
 能登国富来院・花見槻(はなみづき)に井上布袋丸、富来彦十郎等(直義派)が進出
同年十一月四日
 能登守護桃井義盛(尊氏ー師直派)が京から能登国へ下向
同年十一月五日頃
 尊氏ー師直は途中石清水八幡宮に参詣し、摂津国兵庫に到着
同年十一月六日
 土岐周済の弟右衛門蔵人が京都に潜伏していたおを佐々木道誉配下が発見して殺害
 侍所頭人仁木頼章の軍が中御門西洞院にあった土岐一族の蜂屋(はちや)の宿所を襲ったが取り逃がした
 讃岐守護細川顕氏が尊氏ー師直軍から離脱、分国讃岐へ逃れる
  顕氏は失脚した直義を自邸に同居させていたので、直義の叛意を知りながら尊氏ー師直軍に従軍
  尊氏は細川頼春(顕氏従兄弟)と清氏(頼春甥)に顕氏を追跡させる
同年十一月十二日
 信太荘(十月の出来事参照)で上杉能憲(憲顕の子)が直義派として挙兵
同年十一月十三日
 岩田胤時(いわたたねとき:直義派)が三隅城を包囲する師泰軍を攻撃
同年十一月十六日
 佐々木道誉が幕府使者として、北朝廷臣勧修寺経顕(かじゅうじつねあき)を訪問、三箇条を申し入れ
  ①播磨国に敵陣が現れたので、これを退治するため要害である垂水郡住吉保(たるみごおりすみよしほ)など二カ所をいただきたい
  ②西国の寺社本所領について戦争状態の国にある所領でも勝手に占領しません。乱の状況によってはいただいて、後で報告します
  ③直義法師が陰謀を企てている情報が入りましたので、追討の院宣を発給して下さい
同年十一月十九日
 尊氏ー師直は備前国福岡に滞在 諸国の軍勢到着を待つ
 桃井直信(直常の弟)が数千騎を率いて能登に乱入、高畠宿に陣を設営(直冬派)
  以降直信軍と能登守護軍が激戦
同年十一月二十一日
 直義が畠山国清の河内国石川城へ入城[筑後田代文書]
  ●ここで畠山国清の直義派への寝返りが発覚?
 近江国で下賀、高山、小原一族が直義の元へ
同年十一月二十二日
 大和国生駒山で伊勢・志摩守護石塔頼房が直義方として挙兵
同年十一月二十三日
 ★直義が南朝に降伏=寝返った
  南朝方では畠山親房の皇統を統一したうえで逆賊を滅ぼすべき、と言う主張が採用
  ●直義の発給文書では北朝の元号を使っていたため、南朝方に不信感をもたれる
   → 後の講和交渉決裂の一因
同年十一月二十五日
 石塔頼房が近江国高良荘(こうらのしょう)周辺で放火
  佐々木道誉が城を築いて対抗
 幕府で評定開催
  義詮が東寺に籠城することを決定 要害構築開始
同年十一月二十六日
 師泰が石見国三隅城から撤退(六月から足止めされていたほど苦戦)[長門益田家文書]
  師泰が安芸国に撤退[肥後阿蘇文書]
同年十一月二十七日
 上野直勝(直義派)が河内国石川城を出発して近江に進入、大原荘内油日城麓善応寺で挙兵
同年十一月二十九日
 直義が備前国福岡在陣の尊氏に師直・師泰の身柄を引き渡すよう書状を送る
  激怒した尊氏が使者の律僧を京へ護送し、侍所頭人仁木頼章預かりとした
同年十二月一日
 上杉憲顕も自身の守護分国上野に下った
同年十二月四日
 石塔頼房軍が近江国瀬田まで進出、周辺の宿場と橋を焼き払う
  頼房軍の上洛を恐れて、幕府は光厳上皇御所を警備
 上野直勝軍が三上山・野洲河原で近江守護軍と交戦、佐々木山内信詮は逃亡
  石塔頼房と共に瀬田まで進出
  守護代伊庭六郎左衛門を追い散らし橋を焼き払う
同年十二月五日
 朝:佐々木六角氏頼が出陣、坂本から琵琶湖を渡った
  佐々木京極秀綱(佐々木道誉の子息)も近江に向かった
同年十二月七日 [祇園執行日記]
 石塔頼房軍が石清水八幡宮に進出。京七条まで攻め上った。
  淀川付近から退散。石清水に籠城する構えをみせた。
  凶徒は赤井河原に陣を設営 その数一万
   佐々木道誉と仁木義長が赤井河原に向かった
  比叡山でも三箇所で出火
 幕府は光厳上皇に尊氏邸へ臨幸、その後東寺へ入城することを要請
  崇光天皇は八日に光厳上皇の御所の持明院殿に行幸する予定
  → これらの臨幸、行幸は取りやめ
同年十二月九日
 石塔頼房軍が山城国宇治に進出し、平等院鳳凰堂を占拠
  関山にも乱入
同年十二月十日
 守山で守護佐々木六角氏頼の軍勢と上野直勝軍が交戦[近江小佐治文書]
 三河国額田郡で粟生為広以下二十一人の武士が直義派として挙兵[前田家蔵書閲覧筆記]
  三河国は鎌倉期に足利義氏が承久の乱の恩賞として賜った足利氏の第二の本領
   室町幕府発足後は高師兼(師直の従兄弟かつ甥かつ猶子)が守護
同年十二月十二日
 佐々木六角氏頼が近江で勝利、帰京
同年十二月十三日
 直義の降伏の許可を南朝後村上天皇が綸旨を発給
 能登守護桃井義盛が金丸城に籠城[尊経閣文庫所蔵得江文書]
  この頃桃井直常は能登・加賀・越前の軍勢七千騎を従えて越中を出陣し、京に攻め上った
  ※出発観応二年正月八日[太平記]
同年十二月十四日
 尾張国で今川朝氏(直義派)の軍勢が同国黒田宿で戦闘
 丹波国波賀野で挙兵した軍勢(直義派?南朝方?)が守護代久下頼直の在所不来(ふき)を襲撃、同国曽地荘にも攻め寄った[祇園執行日記] 丹波守護山名時氏は尊氏ー師直派
同年十二月十七日
 南朝後村上天皇の綸旨に直義は請文を提出
同年十二月十九日
 淀川で佐々木道誉と石塔頼房が交戦
同年十二月二十一日
 直義は畠山国清を率いて、河内国石川城を出発し、摂津国天王寺に進出
 東国の軍勢が石清水八幡宮へ入る
同年十二月二十三日
 執事高師直が現存する最期の執事施行状を発給[上野正木文書]
  上野国新田荘内の桃井直常らの所領を没収し、岩松直国(直義派)に給付
  →沙汰付を命じられた上野守護上杉憲顕(直義派)だったので実行されていない
同年十二月二十五日
 賢俊が東寺一長者を辞任 「将軍門跡」の異名
 高師冬が上杉氏討伐のために、親鎌倉公方足利基氏を奉じて鎌倉から出陣
  夜に相模国毛利荘湯山に到着
  直義派石塔義房等によって基氏護衛三戸七郎と彦部次郎が襲撃され
   三戸七郎は師冬の兄三戸師澄の子師親、叔父師冬の猶子
同年十二月二十六日
 尾張国の今川朝氏(直義派)は美濃国青野原でも合戦した[張州雑志抄]
同年十二月二十九日
 鎌倉公方足利基氏が鎌倉へ連れ戻される
 師冬劣勢となり甲斐国へ逃亡
 足利尊氏は備前国福岡から反転し東方へ向かう
  備後国に高師夏、備中国に南宗継、備前国に石橋和義 を配し直冬追撃に備えた
   高師夏は師直の嫡男
観応二年(1351年)正月
 讃岐守護細川顕氏(直義派)が派遣した内嶋弥六が土佐国松風城を攻撃[雑録親続一]
同年正月一日
 畠山国清軍が摂津国神崎まで進出し、同国守護代河江円道を撃破[北河原森文書]
  摂津守護は赤松範資(尊氏ー師直派)
同年正月二日
 諏訪直頼(直義派)が信濃国諏訪郡湯河宿で挙兵
同年正月三日
 桃井直常が近江国坂本まで接近
同年正月四日
 上杉憲将(憲顕子息)が数千騎の軍勢で甲斐へ出陣
  ●関東でも直義派が圧倒的優勢
 上杉能憲は直義との合流を目指す[山城醍醐寺報恩院所蔵子文書乾]
 尊氏が比叡山延暦寺に近江国三箇荘を恩賞として勧誘。効果が無く多くの僧兵が桃井直常軍に参加
同年正月五日
 諏訪直頼軍が、信濃守護小笠原政長(尊氏ー師直派)が船山郷内の守護所に放火
同年正月六日
 尊氏ー師直軍は摂津国西宮まで戻る。
【観応の擾乱】
同年正月七日
 ★直義が石清水八幡宮に入城
 尊氏ー師直軍が摂津国瀬河宿まで進出し、山名時氏勢力が尊氏軍の先鋒として進発
同年正月十日
 諏訪直頼軍が信濃守護小笠原政長の弟政経と守護代兼経が籠城する筑摩郡法光寺を攻撃し、降伏させた
  その後、直頼軍は甲斐国に進出し、須沢城に籠城する高師冬攻撃に参加[信濃市河文書]
 尊氏ー師直軍が山城国山崎に到着。
 赤松範資が直義軍と淀川で弓射戦を行う
 斯波高経が二階堂行?と二階堂行珍とともに京都を脱出し石清水の直義の許へ
同年正月十二日頃
 尊氏軍では石清水攻撃の戦略会議 十六日開戦予定
同年正月十三日
 未明 上杉朝定・朝房、今川憲国が京都を脱走し石清水の直義の許へ
  義詮は上杉朝定らの邸宅を破壊
 桃井直常と南朝方の連合軍が西阪本から雲母坂(きららさか)を下って、松ヶ崎と藪里に進出
同年正月十四日
 須賀清秀が石清水の直義の許に奔ろうとしてので、義詮の軍勢が押し寄せ戦闘。清秀は逃亡
  清秀邸は内裏の裏築地にあったので、崇光天皇は難を逃れるため持明院殿に行幸された
同年正月十五日
 早朝 義詮は京都防衛を断念して脱出
  下総守護千葉氏胤は、このとき義詮を見限って石清水の直義の許へ
 高師直・師泰、仁木頼章・義長、細川頼春、佐々木道誉等の尊氏派の諸将の邸宅が焼失
  留守の者が自分たちで火を放った
 昼頃 桃井直常軍が入京 直常が光厳上皇の御所を訪問
 義詮軍は現在の京都府向日市付近で尊氏ー師直軍と合流、反転して京都に攻め上る
同年正月十六日
 尊氏ー義詮軍が三条河原付近で桃井直常軍と交戦、佐々木道誉軍も加わり、直常軍は後退
 尊氏は二条京極の吉良満義邸に本陣を設営、直常は法勝寺に陣を設営
  師直重臣の安保直実と、直常軍の秋山光政の一騎打ち[太平記]
   ※怪力自慢の猛者対決で、師直が光政に矢を射かけさせたが、直実が光政のような優れた武士が射殺されるのを嫌って、味方の矢を防いで敵の光政を守った。結果的に二人とも生き残っている。
  ★両軍ともに消耗が激しく、尊氏軍の勝利で終わり、直常軍は関山まで撤退
    夜 尊氏は千秋高範を光厳上皇御所に派遣し、上洛の報告をした
   尊氏が東寺に本陣を移し、丹波国へ撤退(四百~五百騎) 直義派の軍勢増加に驚いた
    当初は天龍寺で休息させたかったが夢窓疎石が拒否→直義派へ
    ★丹波国篠村八幡宮で再帰を企画したが敵兵や野伏の妨害で断念、善峯寺に本陣を設営
 武蔵守護代薬師寺公義(高師直の重臣)が直義派に転ず
 佐々木善観(佐々木道誉の兄)と千秋高範も直義派に奔った
 信濃守護小笠原政長も京都の自宅に放火して出京し直義派に寝返った
 若狭・丹波・伯耆・隠岐守護山名時氏が直義派に合流
同年正月十七日
 ★桃井直常、吉良満貞、斯波高経、千葉氏胤ら直義派諸将が入京
  高経が京都守備を担当
  直義が南朝、北朝を掌握
  甲斐国須沢城で関東執事高師冬が戦死
   関東は上杉氏を主力として直義派がほぼ制圧
  夢窓疎石を仲介として尊氏と直義の講和交渉が行われたが不調
同年正月十八日
 尊氏と師直が丹波国香山寺城に籠城しようとしたが失敗
  若狭路をけいゆして没落し、近江の佐々木道誉の城に向かおうとしたがこれも失敗
同年正月十九日
 高師直が北陸に逃走するという情報により、斯波高経、千葉氏胤が近江国坂本に出動
  山名時氏、石塔頼房も丹波方面へ出動
 近江守護佐々木六角氏よりが石清水に赴いて直義から本領以下を安堵された
 直義が北朝に銭三万疋を献上
  戦乱により北朝への納税が滞っていたため
  北朝、北朝貴族が石清水の直義の許へ使者を続々と派遣
 直義が延暦寺に近江国三箇荘を寄進(先日尊氏が行って失敗した寄進)
同年正月二十一日
 能登羽田城で直信が戦闘[得江文書]
同年正月二十二日
 石塔頼房が細川顕氏に書状を送り、畿内の戦況を報じて上洛を進めた[薩摩島津家文書]
 尊氏ー師直は播磨国書写山で再帰を計った
  義詮は丹波国岩屋山石龕寺(せきがんじ)に留まった。このとき仁木頼章・義長が従った
   高重茂も義詮に従った?
 直義が将軍門跡三宝院賢俊から六条若宮別当職を取り上げて実相院静深に与えた
同年二月三日
 ◆上洛の遺志を示した上杉憲顕に対して、それを阻止した[出羽上杉家文書]
   ※上杉能憲も上洛するため進軍中、にもかかわらず直義は最も便りとする憲顕軍の上洛を禁止(不可解な動き)
同年二月四日
 尊氏ー師直軍に師泰軍が参加、石塔頼房が籠もっていた播磨国滝野光明寺を攻撃、しかし攻めあぐねた
  赤松則祐が無断で戦線を離脱し、播磨国白旗城へ帰国 (観応元年四月八日 参照)
同年二月五日
 直義は長井広秀等を使者として南朝に派遣し、銭一万疋を献上
  南朝に数箇条の講和条件を提示、回答は後日
同年二月六日
 直義が近江国園城寺に東国軍勢が瀬田を渡って上洛できるように船を用意するよう命じた[近江密井文書]
  前年十二月四日に石塔頼房が瀬田の橋を焼き払ったため
同年二月八日
 上杉憲顕の子息が東国の兵数千騎を率いて石清水八幡宮の神宮寺である善法寺に到着
  ※上杉能憲の軍勢だと思われる。憲顕の上京を禁止していたが、多くの援軍が到着
同年二月九日
 細川顕氏の軍勢が四国から書写山坂本に集結していた尊氏ー師直軍に襲撃[園太曆]
  尊氏軍が多数の損害、尊氏は法華寺に籠もる
同年二月十二日
 畠山高国ー国氏父子の陸奥国岩切城を吉良貞家軍(直義派)が包囲、畠山父子自害。貞家の勝利
同年二月十四日
 石清水から光明寺救援のために畠山国清、小笠原政長の大軍を派遣
  尊氏は光明寺の包囲を解いた
同年二月十五日
 尊氏は懸河(かけがわ)に陣を移した
 上杉重能の子息重季(しげすえ)の軍が関東から北陸道を経由して上洛
同年二月十七日
 尊氏は摂津国兵庫に転進
  【打出浜の戦い】
  翌日十八日にかけて摂津国打出浜(うちではま)で直義軍と正面衝突
同年二月十八日
 尊氏軍と直義軍の打出浜での戦い
  尊氏軍 二千騎のうち五百騎が参加 一人も帰らなかった
   師直、師泰も負傷し戦意喪失
  両軍、多数の戦死者をだす
  尊氏も直義も戦場にはいない
   尊氏は建武以来の戦い方
   直義は戦場に出向くタイプだったが、この戦いでは石清水八幡を出ていない
同年二月二十日
 尊氏は饗庭命鶴丸を石清水八幡の直義の許へ派遣し、講和を申し出る
同年二月二十一日
 義詮軍が上洛する情報が入ったので、上杉・諏訪軍数千騎で出撃
同年二月二十二日
 尊氏の土御門東洞院の屋敷が全焼
同年二月二十三日
 山名時氏が北丹波荏原で戦った[諸家文書纂所収集三刀屋文書]
同年二月二十四日
 師直、師泰が出家 【尊氏と直義の講和】
  講和条件は尊氏から提示。高一族や被官ら百二十人が出家
同年二月二十五に裡
 ●直義の愛児・如意王が五歳で死去
同年二月二十六日
 尊氏一行は京都に向けて出発
  師直・師泰は供奉を希望したが尊氏に拒否され、後方からついていった
【高一族の滅亡 観応の擾乱初期 直義の圧勝】
 一行が摂津国武庫川鷲林寺付近で、上杉修理亮の軍勢五百騎に攻撃され、師直、師泰以下主立った高一族が惨殺された
  死んだ武将:師直、師泰、師兼、師夏、師世、師幸、師景、南遠江兵庫助(南宗継子息)、彦部七郎、河津氏明(切腹)、高橋英光(切腹)、鹿目左衛門尉、鹿目平次兵衛尉、塚原孫六、塚原孫七、山口新左衛門、文阿弥陀仏(遁世僧)、正阿弥陀仏(遁世僧)[園太曆、太平記]
  上杉修理亮は上杉重季(重能の子息)である(以前は重能の養子、能憲という説があった)
【講和期】
同年二月二十七日
 尊氏入京後、直義派の上杉朝定邸に宿泊
  土御門東洞院の将軍邸はすでに消失していた
同年二月二十八日
 直義が帰京、実相寺に入り、細川顕氏の錦小路邸へ移る
  石塔頼房以下諸大名が従った
同年三月二日
 ★尊氏と直義が直接会談
  尊氏は武士四十二人への恩賞を最優勢にすべきとの主張
   直義は認めた
   尊氏が恩賞充行権を保有することが決定
    ※これまでの乱では恩賞充行が不十分だったので、不満をもつ武士が直義に味方した、という分析を尊氏がしたようだ
    ※なぜ直義は尊氏から恩賞充行権を取り上げなかったのか。乱の最中の直義の無気力さによるものか。
  尊氏は高一族を殺害した上杉重季の処刑を主張
   流罪に決定
  政務は義詮が担当し、直義が補佐することに決定
   =義詮三条殿体制の復活
  執事は空席
  足利直冬を鎮西探題に任命
  将軍家政所執事を佐々木道誉から二階堂行通(ゆきみち)に後退
 直義は会談後、守護石塔頼房に伊勢国に乱入した南朝方北畠親房の三男顕能の鎮圧を命じた
  南朝との講和交渉を継続
同年三月三日
 細川顕氏が上洛し尊氏を訪問。尊氏は面会を拒否
  「『降人の身として見参するに恐れあり』と称して謁せず」[園太曆]
  これは尊氏の発言。「見参」の用法として目下から目上だけでなく、その逆にも使われる
  ゆえに尊氏は、自分が敗者であることを自認している
  ※問題は直義派の細川顕氏がこのタイミングで尊氏を訪問したのは何故か、である。
同年三月四日
 直義は陸奥国結城朝胤(ともたね)に感状を出して戦功を賞し、師直・師泰残党の掃討を命じた[榊原結城文書]
同年三月六日
 奥州探題吉良貞家も朝胤に対して、師直・師泰残党の襲来に備えて、陸奥国白河関の警固を命じた[白河集古苑所蔵白河結城文書]
 細川顕氏が丹波の義詮を迎えに赴いた
  義詮は帰京に難色を示す
  尊氏の書状によってようやく帰京を決意
同年三月十日
 義詮がようやく帰京。顕氏を伴って、錦小路邸の直義を訪問。三条殿に帰宅。
  ※義詮は直義に反感を抱いている。次の乱への要因。
同年三月十一日
 南朝方楠木正儀の代官が使者として錦小路殿を訪問し、大高重成と面会し、後村上天皇の勅書を渡した
  直義の講和要請に対する回答か?
  楠木正儀は楠木正成の子、正行の弟
  直義は楠木正儀に後村上天皇の帰京を要請、ただし皇位については幕府は世上不安を理由に結論を保留
   夢窓疎石経由で直義が光厳上皇に報告
同年三月十二日
 北朝廷臣の洞院公賢は昨日の光厳上皇の報告内容を入手。
  南朝に提示した講和条件が昨日のものとは異なっている等、情報が交錯
同年三月十八日
 直義は公賢に二階堂行珍を使者として派遣し洞院実世の義絶解除を申請
  実世は公賢の子息だが南朝廷臣として活動。そのため公賢は息子を勘当していた。
同年三月二十一日
 義詮は尊氏・直義と京都郊外の西芳寺を参詣し、夢窓疎石の法話を聴き、庭の花を観賞、和歌を詠んだ。
同年三月二十八日
 醍醐寺の僧清浄光院房玄法印が、幕府が作成した講和条件の事書(ことがき)を南朝に提出するため、大和国都谷へ赴いた
同年三月二十九日
 直義が院参を行い、北朝光厳上皇との交渉再開
  本来三条殿義詮が行うべきこと
  斎藤利泰が供奉
   深夜帰宅中路上で刺殺される
同年三月三十日
 醍醐寺の僧清浄光院房玄法印が南朝の本拠地賀名生(あのう)に到着
同年四月二日
 幕府で評議開催
  佐々木道誉、仁木頼章・義長、土岐頼康、細川清氏 以下七名の罪を許し、所領安堵が決定
   尊氏ー義詮に従った守護級武将
 房玄は北畠親房に面会し、徳大寺公量に事書を手渡した
同年四月三日
 直義が三条殿の義詮と同居しようとしたが、拒絶され、細川顕氏の錦小路殿に戻る。
同年四月四日
 事書きが後村上天皇に披露され、房玄は綸旨を拝領し、僧侶の最高位である大僧正に任命された
  房玄は後村上天皇と直接面会し、龍顔を拝している
同年四月五日
 房玄は親房と法談に興じた
同年四月八日
 如意王追善供養の料所(りょうしょ:領地)として直義が但馬国太田荘秦守(はたもり)を山城国臨川寺三会院に寄進
同年四月九日
 房玄が南朝から帰京
同年四月十一日
 房玄が直義に南朝訪問の結果を報告
同年四月十六日
 公賢は房玄の南朝訪問結果の情報を入手
 直義が錦小路殿を出て山名時氏邸に移住
  細川顕氏が直義と距離を置きつつある
同年四月二十五日
 直義は南朝と交渉を再開
 直義が三条殿のそばの押小路(おしのこうじ)東洞院に新邸に移住
同年四月二十七日
 楠木正儀代官を使者として再度南朝に事書を提出。
  長井広秀、二階堂行珍を奉行として、この事書を作成
【吉野御書書案】
 直義と南朝の講和交渉の応答史料
 ①皇位継承問題
  南朝は後村上天皇に皇統を一元化することを要求
  直義は両統迭立(てつりつ)(二つの王家から交互に君主が即位する)を主張
   貞和四年(1348年)十月二十七日
    北朝で崇光天皇が即位したとき、大覚寺統(南朝の皇統)の邦省(くにみ)親王(後醍醐天皇の甥)が皇太子に立つ予定だったが、直義はこれを阻止して、持明院統(北朝の皇統)の直仁親王(花園法皇王子、光厳上皇の実子で養子)を皇太子とした。
  直義の魂胆は北朝への皇統一元化。その方便として両統迭立を持ち出したのか?
 ②幕府存続
  直義は既存政権の存続を主張
  南朝は尊氏が奪った天下を南朝に返還したうえで考えると、回答を保留する形
 ③所領問題
  南朝はすべての武士の本領を安堵することを保証
  直義は南朝の武士が各地の所領を侵略していることを批判
同年五月四日
 桃井直常が直義新邸から帰宅する途中、女装した武士に襲われるが、失敗し逮捕された
同年五月八日
 尊氏が美濃国に逃れるとの噂が流れ、都中が騒然となった
同年五月十五日
【南朝との講和決裂】
 南朝の使者が入京し、直義の提案が完全に否定されたことを告げた
  北畠親房は四月二十七日に直義が提出した事書を後村上天皇に取り次がずに突き返した
  皇位継承について両統迭立論は、明徳三年(1392年)に南北朝合一が実現した際にも講和条件となっている
同年五月十八日
 同年正月二十二日に直義が将軍門跡賢俊からとりあげた六条若宮別当職(静深)を賢俊に返付[山城醍醐寺文書]
  賢俊は尊氏派の僧侶、静深は直義派の僧侶
同年五月二十一日
 尼心妙に三河国額田郡比志賀郷を安堵する内容の直義袖判下文
  残存する一通
  尼心妙は、高師直の伯母か叔母。
  この所領安堵は、師直の父・師氏が永年四年(1296年)三月一日付譲状と同日付の足利貞氏下文に基づいたもの(直義が生まれる前の文書)
   ※直義なりの高一族への贖罪か?
 ★同年三月二日の直接会談で、政務は義詮が行う事に決定してたはず
   なぜ義詮では無く、直義が直義名で袖判下文は発給したのか
引付頭人の人事
 直義派(武闘派)
  畠山国清、桃井直常、石塔頼房、細川顕氏
 尊氏ー直義
  石橋和義(留任)
 ※寺社本所領を保護するよう直義は命ずるが、本所への侵略は守護が行っており、泥棒に本所を守らせようとする構造に無理があった。その時の訴えも理非糾明を尊重するあまり、引付頭人からの不満や失望も直義に集まってしまった。
 ※こういった不満があつまることをあらかじめ予想していたから、義詮は積極的な政務を行わなかったのではないか?
同年六月頃
 【御前沙汰の発足】
 義詮が所務沙汰を親裁する機関「御前沙汰」を創設
  義詮が御判御教書形式の文書を発給するようになる~従来の引付頭人奉書と同内容
   →直義の権限を侵食し始める
同年六月十三日
 室町幕府追加法第五十五条が制定される
  寺社本所領を強力に保護し、命令に違反する論人の所領三分の一を没収
  沙汰付命令を実行しない守護も罷免し、所領三分の一を没収
  ※義詮の御前沙汰で制定されたと思われる
  ★恩賞方である御前沙汰が所務沙汰まで職掌
   →幕府が理非糾明による調停者から政権に貢献した者を優遇するように
    ※多くの訴訟からベンチーマークし訴訟裁可の改革→御前沙汰:室町幕府体制の中核へ
同年六月二十四日
 佐々木善観に近江国播磨田郷の替地として遠江国浅羽荘地頭職を給付[佐々木寅介氏文書]
  善観は同年正月十六日に直義派に寝返った武士
  ※一般武士の尊氏が発給した下文の二通のうちの一通
同年六月二十五日
 近江守護佐々木六角氏頼が出家、守護職は弟の信詮に交代
  氏頼は文和三年(1354年)に近江守護に復帰する
 醍醐寺僧清浄光院房玄法印が三条殿義詮を訪問
  房玄は南朝との講和交渉に尽力した人物
  ←同年三月十一日の出来事とリンク
同年六月二十九日
 信濃で小笠原政長と諏訪直頼の軍勢が交戦[石水博物館所蔵佐藤文書など]
  擾乱当初に直義に寝返っていた政長が、ここで尊氏派に帰参
   ●地方では擾乱の第二幕が始まっていたか?
同年七月
 引付方の活動停止
  直義は自身の制度的拠点(牙城)を失う
同年七月八日
 直義が孤立していると世間の噂に[園太曆]
同年七月九日
 南朝方楠木正儀が河内国で放火
同年七月十日
 播磨守護赤松則祐が興良親王を奉じて武力蜂起
同年七月十三日
 赤松則祐討伐のために義詮が播磨国へ出陣する旨を北朝へ奏聞
同年七月十九日
 ★直義は二階堂行禋を使者として尊氏の許に派遣し、政務からの引退を表明
  理由は義詮との不和
 →尊氏はこれを受けて義詮を政務担当者とした(御前沙汰の発足で事実上義詮が政務担当だった)
 軍勢が三条殿に終結、直義は京都西郊に隠居予定
  尊氏は思い直し、直義に翻意を説得→直義の政務復帰
同年七月二十一日 前後の数日間
 仁木頼章は病気を理由に摂津国有馬温泉へ
 仁木義長は伊勢国へ下向
 細川頼春は讃岐国へ下向
 佐々木道誉は近江国へ下向
 赤松貞範は播磨国へ下向
 土岐頼康は美濃国へ下向[以上 太平記]
 他に、仁木義氏、細川清氏、佐々木京極秀綱、今川頼貞、また、高一族の高定信、大平義尚、安保直実 等も領地へ下向
同年七月二十二日
 尊氏・直義・義詮の三人が面系し、誓約告文(こくもん)を作成
  ※実体への後追い和解
 義詮の播磨遠征が正式に決定
  義詮は高師秋(直義派)の邸宅を訪問
同年七月二十七日
 義詮の正妻渋川幸子が千寿王丸(義詮と同じ幼名)を出産
  文和四年(1355年)七月二十二日に千寿王丸が五歳で夭折
同年七月二十八日
 将軍尊氏が佐々木道誉討伐のために近江国へ出陣
  二十七日出陣の予定が初孫誕生により日延べされた
  直義と義詮は賀茂川河原まで出てきて見送った
  尊氏軍は石山寺へ逗留
  ●七月十日の赤松則祐の挙兵に、舅の佐々木道誉が同調して南朝に寝返った
同年七月二十九日
 義詮が播磨へ出陣する予定だったが、延期
  従軍予定の石橋和義が突然出家したため
  義詮は急遽軍を立て直して、同日夜に出陣した
 仁木義長が伊賀国で軍勢を集め伊勢国へ進入
  伊勢・志摩守護石塔頼房と交戦
 ★直義が擾乱以前に保有していた逸言的な軍事指揮権を喪失している状態
同年七月三十日
 直義は、桃井直常の進言で、深夜に京都を脱出して北陸へ向かった
  ★尊氏の近江出陣、義詮の播磨出陣は、京都に残る直義を包囲する戦略だった、という定説
  ●直義の誤解、実際、近江も播磨も戦争状態だったので、直義に一定の軍勢があれば、尊氏か義詮を後方から攻撃できたかも知れない
  直義に供奉した武将:斯波高経、桃井直常、上杉朝定、上杉朝房、山名時氏、畠山国清、上野頼兼、吉良満貞、吉良満義、高師秋(中間派?)、長井広秀、二階堂行禋、諏訪直頼、赤松光範(尊氏派から寝返り)
  ※直義を見限った武将」大高重成、細川顕氏(この時点で京都守護)
  ※後に尊氏派に寝返る武将:斯波高経、山名時氏、畠山国清、二階堂行禋
同年八月二日
 南朝・後村上天皇から尊氏・義詮・直義追討の綸旨を佐々木道誉が賜った[浄修坊日記]
  美濃の土岐氏も同様の綸旨を受け蜂起した
同年八月六日
【講和期(五ヶ月間)の破綻】
 直義の京都脱出軍が、越前国敦賀へ到着、金ケ崎城へ入城
  ※十五年前に越前へ没落した新田義貞と行動パターンが似ている
  若狭守護山名時氏、越前守護斯波高経、越中守護桃井直常、越後守護上杉憲顕
   北陸は直義派で占められていた
   信濃の諏訪氏、関東の上杉氏、山陰の山名氏、九州の足利直冬とも連携可能
    桃井直常の進言であり、直義自身が考えた戦略では無い
同年八月十七日
 義詮が施行状を発給。但馬守護今川頼貞に四月八日の直義寄進状の執行を命ず[山城臨川寺重書案文]
  義詮は直義を憎んでいたが、夭折した如意王の冥福を祈る直義の気持ちは理解していたようだ
 
応安二年(1369年)
 楠木正儀は三代将軍足利義満の許で管領細川頼之が統治する幕府に寝返る
  講和派だった正儀は、南朝上層部へ不満をもった
  河内・和泉二カ国の主汚職と摂津国住吉郡の統治を認められる
延徳二年(1490年)七月五日
 足利義材(よしき:後の義稙(よしたね))の室町幕府十代目征夷大将軍就任式開催
  御前御沙汰始の儀式[延徳二年将軍宣下記]
   御前御沙汰の別名を恩賞御沙汰という
   恩賞方衆を御前衆とも呼ぶ
   評定を寺社方御沙汰ともいう