南総里見八犬伝 二 第三輯第二巻第二十三回 その2 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

 ところで、今年七月(ふづき)の頃から、糠助は再び時疫(ときのけ)で、臥せってから頭が上がらず、流行病なので、伝染を懼れて、殆どの人は寄りつかなかった。しかし信乃は潜んで、糠助の家に行き、薬を煎じ、食事をすすめ、自分の暇が無いときは額蔵に看病させるよう密かに遣わして、看取らせていた日もあったので、今、その病で危篤だと、亀篠が知らせたので、信乃は取るものも取りあえず、急いで行ってみると、邪熱(じゃねつ)がようやく退いたようで、取り乱したような事はないが、衰えは日に増したようだった。そこで枕辺りに膝を進めて、
 
「気持ちはどうだい、糠助おじさん。信乃が来ましたよ」
 
と言うと、糠助は臥せながらもじっと見つめて、起きあがろうとするができず、とても苦しそうに咳をして、
 
「犬塚様、よく来てくらました。いつもいつも懇ろに、お慈悲くらさいましたが、それに報いもせずお別れになりそうです。私は今年で六十一歳、女房には遅れてしまいました。蓄えもなく、氏族もなければ、後世に不安などありませんが、心掛かりなのが一つあります」
 
と言う途端に黙って、支えに息を止めたので、信乃はすぐに薬を暖め、ひたすら飲むように勧めると、糠助は喉を潤して、
 
「心残りはありますが、人には告げられず、我が子の事だけです。私は元は安房国、洲崎の近くの土民です。耕作と漁猟とに、とにかく働いて、長禄三年十月下旬、先妻に男児(おのこ)が生まれて、玄吉(げんきち)と名づけました。とても健よかに見えました、母親は産後のまま栄養不足で、乳があまりでなかったので、幼児も脾疳(ひかん:体が痩せ、腹が脹れる小児病)に罹って、母の看病、その子の介抱と、耕作と網引をやめて、二年経った頃に、家の物は大半を売り尽くして、さらに女房は亡くなってしまいました。あとの残ったのは借金と、わずか二歳の幼子で、我が身ひとりでは育てることが出来ませんでした。誰か養ってくれる人はいないかと、請い願い、乳を貰って、苦しい中育てる幼子なので、痩せ細って、餓鬼のようでした。養育には銭が必要で、銭の無い私から子供を貰おうという人は無く、どうしようかと途方に暮れていた頃、洲崎の浦が霊地として、役行者の岩室があるので、殺生禁断でした。それ故、小魚がそこに集まって、漁場ではない生け簀(す)のようでした。密かに網を下ろすと、一夜にして数貫の銭を得ることができるかもと思い、嘘を言って、幼子をしばしば隣家に預けて、闇に紛れてその禁断の所へ、船を漕ぎ入れて、網を引いていましたら、何度かするうちに人に知られて、すぐに捕らえられて、国守の庁へ牽かれていきました。逃げるべき路などありません、柴漬(ふしつけ)の刑に処されて、しばらく獄舎に繋がれて、そのときの秋は、国守里見殿の奥様、五十子(いさらご)様とまた愛娘伏姫様の三回忌でしたので、すぐに大赦が行われて、私も死罪を免れて、そのうち追放されることになり、これは国守様のお慈悲で、村長に預けられた私の子玄吉を返して下さったのですが、これは諺にいうありがた迷惑で、やむを得ないことですが幼子を負い、抱きながら安房を追われ、上総(かずさ)を過ぎて、下総(しもうさ)の、行徳(ぎょうとく)まで来た道の艱難、乞食のようになった親子も、飢えて疲れてどうしてよいかわかりませんでした。役行者のところで、小魚を密漁して、冥罰(めいばつ:神仏が人知れずくだす罰)からなおも逃れられず、路に倒れて死んで恥をさらすより、親子共々心中しようと思い定めて、名も知らない橋の欄干に足を踏みかけて、飛び込もうとしたとき、武家の飛脚と思われる人が、その橋を渡りかかって、急に私を抱き止めて、引き据えて優しく事の次第を聞いてきましてので、懺悔のように恥を忍んで、一部始終をお話ししました。その人はそれを聞いて深く憐れんで、
 
 『そうですか、あなたは素からの悪人ではありません。私は鎌倉殿(足利成氏)の御内(みうち)で小祿卑職(ひしょく:下級の官職)のものですが、少々慈善をしたいと思っていました。それは、この年四十になるまで、子を持ちながらも育ちませんでした。そこで毎年夫婦心を一つにして、神仏を祈念し奉って、自分が出来ることは人の艱苦を救おうと心に誓って久しくなりました。そこで、あなたは今、一子をもてあまし、親子共々死のうとしている。人は様々の世の中です。もしよければその子を私に譲りませんか。しっかりと養います』
 
と、頼もしく行って下さったので、その時のかたじけなさ、息絶えたようにまわらぬ舌には、説明しなくても、お察し下さい。地獄で逢った仏か神か、とそのように思いました、そのままお話をお受けして、ただ感涙を拭っていると、その人は重ねて、
 
 『私は殿の飛脚で、安房の里見へ赴きますが、引き返してきますので、今は私は稚児を連れて行くことが出居ません。このあたりには定宿がありますので、家主に相談して、しばらくその子を預け置いて、鎌倉に戻ってから妻の女にも理由を話して、近いうちに迎えに来ます。見たところその子はやつれてはいますが、武蔵の神奈川に小児五疳(ごかん:小児の病気の五つ・肝疳(風疳)、心疳(驚疳)、脾疳(食疳)、肺疳(気疳)、腎疳(急疳))の妙薬があります。これを用いれば効き目があるでしょう。既に親子となったので、私は子育てを等閑にはしませんよ。今日より後のことは安心して、志すところがあれば、早く行きなさい』
 
と諭されて、路費(ろよう)にしなさいと、懐から小判二顆(ふたつ)取り出した、昼食の料なのか、腰につけた割籠(わりこ)と一緒にくださって、辞する理由も無く受け納めて、重ねて恩義にお礼を言って、玄吉を少し身を正して渡すと、ひょいと抱き取って、元来た方向へ立ち戻るのを、しばらく見送って、喜ばしくも悲しくて、これは親子の一生涯の別れだけど、養親の名も聞かず、私も名乗っていませんでした。ここではじめて恩愛の重荷をおろして、名残は尽きませんが行徳浜から葛飾へ便船しtえ、江戸の津(わたり)に向かい、いささか知っている人がいるので、この大塚に流れ来て、農家に奉公する頃、その冬にあなた様が生まれ、次の年この家の先住だった籾七(もみしち)が無くなって、後家に入り婿を求められて、ある人の媒酌でその後を継いだおんですが、一升瓢(いっしょうふくべ)は何時でも一升、年中その納税を納められず責められて、水も飲めない痩せ百姓、人からは馬鹿な痴れ者と、貶められても腹はたたず、故郷で起こした禍は、貧しさゆえに盗んだ罪の咎だと思い、心を責めて貪らず、ただ正直を宗として、朝夕に手を合わせて、役行者小角(しょうかく)様へ罪状を詫びてから、すでに十八年、その月ごとの会日(ゑにち)は、塩鰯(しおいわし:しおづけのイワシ)にも箸をつけず、この精進もずっと続け、日々を送るのは、玄吉が恙なく負育てられることのため、立派な人になれと願っていましたが、去年亡くなった妻にもこの子のことは話していません、今死に際に口にしたのは、あなた様が凡庸ではない信義にあつい方だと知っているからです。そういえば、風を追い、影を捕るより他も無く、私の子の身上を知ることはできませんが、鎌倉の前管領家(持氏、成氏)は番作様の主筋でしたよね。でしたら、成氏朝臣は両管領、山内顕定殿、扇谷定正殿と不和になって、鎌倉で住むことが出来ず、許我の城に移らせられ、そこをも追われて近頃には千葉の城にいらっしゃるとか、世の風聞で伝え聞いております。そこで我が子玄吉も、その養い親も役に従い、下総千葉にいるのではないでしょうか。あなた様がもし、許我殿(成氏)へ参られる事があるならば、そのおりには、玄吉を知ることがあれば、これらのことを、密かに伝えて頂けますか。我が子は実の親があることを知らないでいるのならばそれで良いです。かすかに伝え聞くことあれば、少しは心に残っているでしょう。やむをえませんが今再会しても、親子どちらも顔を忘れてしまっていて、名乗ってもしかたありませんが、玄吉は生まれながらに右の頬先に痣があり、形が牡丹の花に似ています。また彼が生まれた七夜(しちや:子供が生まれて7日目のお祝い)には、お祝いのために私が釣った鯛(たい)を料理したところ、魚の腹に玉があって、文字のようなものが見えました。取り出して産婦に読ませると、
 
 『これは、まこと、とかよむ信の字ににているようですね』
 
と言いました。そして赤ん坊の臍の緒戸一緒に、守り袋に納めて、
 
 『長禄三年、十月二十日誕生する。安房の住民、糠助の一子、玄吉の産毛、臍の緒、そして感得秘蔵の玉』
 
と母が自ら記しつけた、国字(ひらがな)の釘折れの曲がりのような文字でした。彼が物心を知る頃まで、失わずにいれば、今も持っているはずです。これを証拠としてください。紛れもなく事実なのです。そんな益の無い事こそ、馬鹿馬鹿しい事とは思わないで下さい。今朝までは舌がこわばって、こんなに物を言えなかったというのに、今、あなた様のお顔を見て、気持ちが清々しく感じていますが、灯火がもうすぐ消えようとして、光を増すのと同じでしょう。末遙かな若者にいらしゃるので、一生懸命にご出世してください」
 
と言いながら頻りに落涙した。昔の賢者の言葉に、鳥がまさに死のうとするとき、その鳴き声は悲しく、人がまさに死のうとするとき、その言うことは善である、という。糠助の最期の言葉も、常とは大きく違っていて、辻褄が合うように賢く感じたのだった。
 
 信乃は、かの玄吉の痣の事、玉の事、自分自身に思い合わせて、とても感動し、
 
「ああ、おじさんよ、よくわかったよ。今日初めて知るあなたの素性、誤解していたので改めます。これまでの深信精進(しんじんしょうじん)は、誰にもまねが出来ません。それだけでなく子息の身上は、私と合致する事があります。過世(すくせ)の契りではないかと考えますので、まだ見ぬ兄(いろね)のような気分です。時が来れば、下総へ赴いて、その宿所を訪ねて、養父の姓名を知らないといっても、証拠の種々が明らかですので、巡り会わないということはないでしょう。これらの事は私に預けて、しばしば薬を飲んで下さい。夜になって看病していきたいのですが、親類の家に住んでいるので、自由にならないことが多いのです。さて、もう一度、ひとたび承った言葉は金石変改はございません。ご安心してください」
 
と答えながら、様々に労り慰めると、糠助は手のひらを合わせて拝むのみで、信乃は哀情(あいじょう:ものがなしい思い)を胸の中に塞いで、かける言葉が無かった。
 
 このようにして、すでに黄昏になったので、信乃は行燈に火を灯し、再び薬を勧めるなどをして、別れを告げて家に帰り、その夜額蔵にのみ、糠助の遺言について話をして、玄吉の痣の事、玉の事を告げると、額蔵はこれを聞いて、驚嘆し、
 
「これは、まさしく私たちの仲間の人ではないでしょうか。この身が自由ならば、今すぐにでもそこに思う居て、逢ってみたいと思います」
 
とささやき合い、とりあえず別れて、翌朝早く起きて、糠助を訪ねると、その近隣の百姓が集まっていて、糠助は今朝暁の頃に、死んだことを教えてくれたが、信乃はことさら、これを悼んで、しばしば蟇六に説き勧めて、永楽銭七百文を貸し与えて、その夜、道場(寺のこと。僧侶以外が経文について学場所を道場と呼んだ)へ棺を送って、一日経って、、その家を売る時に、例の七百文を返し納め、残った銭と、ほんの少しの田畑は、かの道場へ寄進して、糠助夫婦とその代々の香花(こうけ:供養のこと)の料にした。この事は荘官蟇六の計らいで、その隣人に指図したのだが、実は信乃が蟇六を説得したことを、誰というわけではないが皆が知っていて、
 
「この人が荘官だったら、慈善にして下々を育て伸ばす、われらのための父母のような存在になるだろう。早く代わって欲しいものだ」
 
と言わない者は無いほどだった。
 
(その2 ここまで)