南総里見八犬伝 二 第三輯第一巻第二十一回 その1 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

新潮日本古典集成別巻 二
南総里見八犬伝第三輯
 
八犬伝第三集叙(書き下し)
 
 門前に狂狗有れば、その酒沽れず。
 而れども主人は暁(さとら)ず。
 猶且つ酒の沽ざるを恨める。
 痴情是の若き者、是を衆人と謂う。
 衆人に清濁有り。酒に醥(ひょう:透き通った酒)と醠(おう:透明な酒)与有るか猶(なおも)なり。
 而(しか)して清すめる者は其の味淡薄、酔と雖(いえども)醒(さめ)易し。
 濁る者は其の味甘美にして、酩酊す。
 奚そ今を思う者是衆おおくして、後を懼(おそれ)る者是寡(すくな)きなり。
 是の故に、瞿雲(くうん)氏法を説(とき)て以て地獄果天堂楽有りと為す。
 是に於いて後(のち)を思わざる者懼(おそる)る。
 又何ぞ耳を貴(たこ)う者之衆して、目を賤(いやし)めざる者之寡(すくな)きなり。
 是の故に南華子物論を斉ひとしうして以て争訟を禁(とど)めんと欲す
 是に於(おいて)耳を貴(い)目を賤(いやし)む者愧(はじ)つ。
 然れども彼の寂滅之教の若(ごと)き、媚(こび)る者衆して、悟る者弥(やや)寡(すくな)し。
 宣(の)むべなり、その媚る者は、口に経を誦すれども、その義を釈(と)くこと能わず。
 心に利益を禱(いの)れども、之を欲する以て所に知らず。
 凡(およ)そ之の如き之禅兜、度(たび)するこ雖(いえども)其功有ること無し。
 昔者震旦に烏髪の善智識有り。
 因(いん)を推し果を辨(べん)し、衆生を誘うに俗談を以し、之を醒(さま)すに勧懲を以(もって)す。
 其意精巧、其文奇絶。
 乃ち方便を経と為、寓言を緯(い)と為。
 是を以其の美錦繍の如く、其甘きこと飴蜜の如し。
 蒙昧蟻附(ふ)して去ること能わず。
 既にして、有る所之煩悩、化してなり屎(しかばね)溺と為、遂に脱するときは糞門を解、則覚えずして奨善之域に到り、暫時無垢之人為ると云う。
 亦奇ならずや。
 余少わかかりし自り愆(あやまり)て戯墨を事とす。
 然れども狗才馬尾追(おう)て、閭(ろ)巷(ちまた)に老(おい)たり。
 唯其の勧懲に於、毎編古人に譲(ゆず)らず。
 敢(あえ)て婦幼をして奨善之域に到ら使(しめ)んと欲す。
 嘗(かつ)て著(しる)す所の八犬伝、亦其の一書なり。
 今其編を嗣(つぐ)こと三たびにして、刻まさに成らんとす。
 因て数行を簡端に題す。
 嗚呼狗児の仏性、無を以字眼となす。
 人は則媚て其の尾を掉(ふ)るを愛す。
 我は則悞(だまし)て帝堯を吠えんことを懼(おそれ)る。
 冀(こいねがは)くば瞽者(こしゃ)のために、煩悩狗を猟(かり)て以一条の迷路を開かん。
 閲する者幸に其無根を咎(とがめ)ること勿(なか)れ。
 
   文政元年九月尽日
                       蓑笠漁隠
 
  大虚容実 創自鴻濠
  渾沌未分 孰主人公
  わがとしののぼるにつけて
  はつかしきこと葉のちりや
  山とならるむ
 
        乾坤一草亭のあるじ 信天翁題詠
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南総里見八犬伝第三輯
巻之一
 
第二十一回 額蔵間諜全信乃 犬塚懐旧観青梅
 
      額蔵間諜(かんちょう)信乃を全(まっとう)す
      犬塚懐旧(かいきゅう)青梅(あおうめ)を観る

 これまで述べてきたように、犬塚、犬川の両童子である、信乃と額蔵は、お互いに志を告白し、義を結び、なお将来を語らっていたとき、大きな足音がして外から来る者があった。信乃は耳をそばだてて、目配せをして、額蔵はすでに心の準備をして、自分の寝床に下がっていて、衣をかぶって臥していると、片折戸にかけた引板の鳴子を成らして、二つ三つ四つ、咳をして、
 
「坊ちゃん、家にいますか。糠助が参りました。大丈夫ですか」
 
と呼びながら、障子の破れからのぞき込んで、支え木が腐った竹縁(ちくえん:竹で作った腰掛け台)に、片尻、片あぐらを掛けて、後ろのほうに手を突いて、庭の若葉を眺めていた。その時信乃は身を起こして、ゆっくりと障子を引き開けると、
 
「おじさん、よく来てくれました。まずこちらへ」
 
と手箒をとって、塵芥(あくた)を掃きよせると、糠助は振り返って頭を振って、
 
「いやいや、置いてください。履き物を履いたままですので。毎年のことながら、蜀魂鳥(しでのたおさ:しでのとり、ホトトギス)が鳴く頃は、早稲(わせ)も晩稲(おくて)も種を浸し、畑を水田にこね返して、働くことを厭わずにいるので、とてもご無沙汰しております。荘官殿より隷(つ)けられた童男はどうでしょうか」
 
と問われて信乃は、後ろを見返って、
 
「額蔵は昨日から、少し調子が悪くて寝込んでいます。風邪をひいたのではないかと思って、売薬を買ってすすめましたので、すぐに悪くなることもないと思います」
 
と言うと、糠助はそれを聞いて、
 
「それは困ったことですね。母屋に行って、知らせて別の人を来させましょう。そんなことでしたら昨日でも、なぜ知らせて下さらなかったのですか。まだ十五にも足らぬので、異変があれば心配になってしまいますのに、下男がたすけにならないで、あなた様に看病されるとは、鬼のような伯父伯母御でも、突然のことだとおもいますよ。私にお任せ下さい」
 
と独りで飲み込み、早合点、粗忽ながらも信(まこと)のある言葉の端に落ち着かず、そのまま立って外へ慌ただしく出て行った。
 
(その1 ここまで)