南総里見八犬伝 一 第二輯第三巻第十五回 その1 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

南総里見八犬伝第二輯
巻之三
 
第十五回 金蓮寺番作撃讐 拈華庵手束留客
 
     金蓮寺に番作讐(あだ)を撃つ 
     拈華(ねんげ)庵に手束(たつかび)客(ひと)を留む
 
     ※拈華:花をひねる ※手束(てつか):手でつかむ

-------------------<<作者注>>------------------
前巻までに記述した、伏姫が富山に入った頃は、十六歳のときで、長禄元年(1457年)の秋になるころである。また金鋺入道丶大坊は、嘉吉元年(1441年)の秋、父孝吉が自殺したときすでに五歳になっており、長禄二年富山で伏姫自殺の事態に係わり、すぐに出家入道となり、身を雲水にまかせつつ、抖擻行脚(とそうあんぎゃ: 難行苦行を積む目的で乞食行脚をすること)に首途(かどいで:主発)して、このとき二十二歳になっていた。伏姫の年はもう少しで十七になるところで、身罷ったので、丶大坊はこの姫より年齢が五つ上の兄である。そして長禄三年に寬正(かんせい)にあらたまり、また寬正六年には文正に改元された。これは元年だけで、次に応仁と改められた。これもわずかに二年で文明と改元された。応仁の内乱が治まって、戎馬(じゅうば:戦争に用いられる馬、戦馬、軍馬)の蹄や戦後処理など、名前だけになった華の洛(みやこ)は、もとの春辺(はるべ)に戻っていった。やや長閑(のどか:平和で静か)になったのだが、この頃の事では、文明五年春三月に山名宗全が病気で死去した。五月になって今川勝元もまた病で死去。ここにおいてその他の合戦は決着がつかないまま終わってしまった。これを応仁の兵乱という。この文明の年号のみ長久で、十八年まで続いた。ここに年序を僂(かがなえ:指折り数え)れば、伏姫の事があり、丶大が行脚の啓行(かしまたち)し、前巻の長禄二年から、今、文明の末に至って、すべて二十数年のことである。この間に犬塚信乃(いぬづかしの)が生まれる以前の事を書いた。この巻ではまた嘉吉の時に起きて、文明の頃までについて書いている。
 
-------------------<<本文>>------------------
 
 後土御門天皇の御宇(ぎょう:天下を治めている期間)、常徳院足利義尚公、将軍であり、寬正、文明の頃には武蔵国豊嶋郡、菅菰(すがも:巣鴨)、大塚の郷界(さとはずれ)に大塚番作一戍(かずもり)という武士の浪人がいた。その父匠作(そうさく)三戍(みつもり)は、鎌倉の管領、足利持氏の近習だった。永享十一年(1439年)、持氏滅亡のとき匠作は精悍にも忠義の近臣と謀って、持氏の子の春王と安王(はるおう・やすおう)両公達を護りながら、鎌倉を脱出して、下野国に赴き、結城氏朝(ゆうきうじもと)に引き取られて、主従その城に立て籠もり、寄せ手の大軍を引き受けて、篭城戦を重ねて、士卒の心一致して、たゆまぬ気色はなく、嘉吉元年(1441年)四月十六日、巌木五郎(いわきごろう)が敵に寝返り、思いがけなく攻め破られて、大将の結城氏朝父子だけでなく、身方の諸将、恩顧の士卒、前後を振り返らず突出して、憤激突戦し、時がかわって、一人も残らず討ち死にして、両公達は生け捕られた。
 
 このとき大塚匠作は、その年に十六歳になる一子番作一戍を招きよせて、息を吐く間も無く、
 
「寄る年波の老いた身なので、生き死にの海でどちらになるのか、百年千歳の後までもと、守ってきた両公達が、ご運つたなくなるに及んで、防戦は遂に敗れ、諸将撃たれて城は落ち、主君は辱められることになったので、臣たるものの死すべき時がきた。しかしお前は游悴(へやずみ)である。まだ君に仕えた身では無いので、ここで犬死にすべきではない。先に鎌倉から逃げたとき、お前の母と姉の亀篠(かめざさ)は、わずうかな由縁を頼って、武蔵国豊嶋の大塚に避難させた。あそこはお前も知っているように、我が祖先の生国で、苗字(みょうじ)の荘園だったが、今では名前のみで、すべて他人のものとなっているのだ、誰が母等を養うのか。これもまた不便な事だ。お前は命をながらえて、大塚の郷に赴き、父の最後の様子を話して、母に仕えて孝行を尽くせ。そうはいっても私は犬死にはしない。若君とらわれたといえども、柳営(りゅうえい:将軍の居るところ)のご親族、さすがに金枝玉葉であるので、すぐにはお命が危うくは鳴らないだろう。私も一方を切り抜けて、密かに後を追って、折りよければ両公達を、開放しようと思う。しかし大廈(たいか:大きな建物)が傾くとき、一木(いちぼく)をもって支えるのは難しい。事が成らなかった時は、討ち死にして黄泉へのお供をするだけである。これはこれ、主君重代の佩刀(はかせ:大刀)は村雨と名づけられている。この佩刀には、様々な奇妙な話が多くある中で、殺気を含んで抜き放せば、刀(かたな)の中心(なかご)に露がしたたるという。ましてや人を斬るときは、したたりがますます流れるようになり、鮮血(ちしお)を洗って刃を染めないという。たとえとして、葉先(刃先)を洗うように村雨(むらさめ:強く降ってすぐに止む雨)のように水がしたたることから、村雨[注1] と名づけられた。実に、源家の重宝であったので、先君持氏は、はやくから春王君に譲られて、護身刀(まもりかがた)としておられた。若君は捕らわれたけれど、今、その佩刀は私が持っている。私がもし本意を遂げられず、主従命を落としてしまえば、この佩刀も敵にとられてしまう。そうなると遺恨が残ってしまう。ゆえに青前はこれをあずかってくれ。若君が死を逃れて、再び世に成出てくだされば、一番にはせ参じて宝刀(みたち)を返し参るのだぞ。もし、撃たれてしまったならば、これは将君(はたくん)父の形見である。これを主君と見たてて祀り、菩提を弔ってくれ。努々(ゆめゆめ)疎略(そりゃく:ぞんざい、おろそか)にしないように。心得たか」
 
と説き示し、錦の袋に入れたまま、腰に帯びた村雨の宝刀を我が子に渡したのだった。番作は二八の少年だが、その心は逞しく、人並み以上に勝っていれば、もちろん思うところがあるようだが、一言半句も逆らわず、恭しく跪いて、件の宝刀をうけとり、
 
「ご安心下さい、ご教訓をありがたくかたじけなく、すべて心に留めて忘れずにいたします。小祿(しょうろく)といっても我が父は、鎌倉殿(持氏)の家臣です。私はまことに不肖ではございますが、君父が死ぬかも知れないとみていましたが、逃れたので安心しています。そうはいっても名を惜しんでは誹りを得ましょう、父子共に死地にまいれば、名聞(みょうもん:世間の噂)で、君父によくないでしょう。命永らえて、母と姉を養えとおっしゃるのは、お慈悲が私の身一つだけでなく、親子三人へのことだと、そのように推量いたしました。とはいえ再会は不可能だと思い、お別れでございますれば、私がお先に出ていきましょう。せめて親子で、虎口を逃れたかったのですが、父の鎧の威毛(おどしげ)がとても華やかで目立ちますので、雑兵の革具足、袖を解き捨てたものを用意しましょう。是へ早くお召替ください」
 
と慰めてかいがいしく、落ちるための支度を急がせれば、父はまだ乾かない涙を目尻に溜め、拭いもせずにニコッと笑い、
 
「番作、まことによく、言ってくれたな。天はだた血気にはやって、親子で死んだとしても、争わず、口答えをせず、と思ってみればなかなか、親に似ないほどの孝心である。もとより覚悟の事であるので、私も雑兵等に混じって一体となって虎口を逃れよう。しかし、親子が一緒に奔り逃げれば、謀とばれてしまう。お前は先に早く落ちよ。私は搦め手より、道を入れ違いに走り去ろう。さあ急げ急げ」
 
と苛立つ声も、矢叫びの音に紛れながら、攻め入る敵軍、必死の城兵、撃たれる者もあり、撃ち返す者もあり。名も無き端武者は足にまかせて、風に落ち葉を閃かすように、塀を越え、溝(ほり)をわたり、道なき道を探して、四零八落(ちりちりばらばら)に逃げ失せたのだった。この混乱の中、大塚親子も、かろうじて城中から逃れ去り、親は子を見返ったが、ついにその影を見ることは無く、子もまた親を探したが、会うことは決して無かった。
 
 そもそもこの一条(くだり)の物語は、肇輯第一の巻端(かんたん)に述べt、結城合戦での落城のとき、里見季基の遺訓で、嫡男義実を逃がした時と、同日の事で、彼は義による智勇の大将、こちら(大塚匠作)は誠忠譜代の近臣で、官職はもとよりその差(しな)があり、何かを実行するのも、恩義の為に身を殺して、その子のために教えを残し、心はぴったりと合うように、人の親の慈しみを持ち、自ずから誠を実践していた。

-----------------<<注釈>>---------------
[注1]村雨(むらさめ)
 八犬伝に登場する、刀「村雨」または「村雨丸」は架空の刀である。実物の刀もあり、延宝六年(1678年)に津田越前守助広が鍛えたもので、長さ二尺七寸五分の刀がある。刀身の両面に倶梨迦羅龍(くりからりゅう)が彫られており特別重要刀剣に指定されている。
 
 妖刀「村雨」も現代は噂のように言われているが、それは八犬伝の物語の刀のことで、あたかも実在したかのように広がっただけである。
 
 妖刀として「村正(実物)」があげられる。村正は伊勢国桑名の刀工で、千子村正と呼ばれ、千子派の刀工である。同銘で六代以上続いた名匠。刀の特徴は切味である。また若干ながら他の刀に比べ重いため、比較的激しい近接戦闘を得意とした三河武士に好まれた。徳川家康、豊臣秀次などが所有し、実戦用として使われている。江戸時代に入り、不孝な伝説のおかげで人気が無くなったが、伊藤博文、西郷隆盛は愛用した。
 
 写真は、村正の写しである。波紋はのたれ(大きく波打った模様)。鎺(はばき)に黒金を使っている。刃渡り二尺五寸(約75cm)。体配は刀身の反りが小さく、村正の特徴を写している。これに薄い刃がついていれば、本物になってしまうが、見るからに切味鋭そうである。
 
(その1 ここまで)