そこにひとりの近習、廊下から体を折り曲げながら入り、恭しく額を床に付けて、
「堀内蔵人(ほりうちくらんど)、お召しに応じて東条より参上いたしました」
と申し上げると、義実は眉をよせて、
「私は貞行を呼んだ覚えは無いぞ。五十子の病状を聞いて、自ら来たに違いない。それはともかくとして、私も聞きたいことがある。丁度良い、こちらに来させよ、早く早く」
と近習を急がせると、しばらく左右の侍従を下げさせ、欣然(きんぜん:喜ぶ様)として待っていた。すると蔵人貞行は、東条に在城して久しく民に対して心篤く撫育し、一郡既に収まっているが、日に三省の教(毎日に三度反省し過失がないようにすること。論語の学而「吾日に吾が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝えしかと」)を実践して、しばらくも油断すること無く、全てにおいて勤めを励んでおり、昨年、滝田に来たときにもゆっくりともせず帰ったのに、今ここに来たというからには、義実は近くに招きよせて座らせて、
「蔵人恙ないか。あなたが東条を治めてから、私は三虎(さんこ)[注2]の誣事(しいごと:謀)などを聞くことがない。その忠心による政治がなされていることを、とてもよろこんでいるぞ。この度は、参府したのは五十子が危篤であることを聞いてその安否を確かめるためにきたのであろう」
と問うと、貞行は、ようやく頭をあげて、
「ご命令ではございますが、かつて君命を受けてからかの一城をまもること、わたくしの職分ですので、こちらに参府する気持ちを、請い願わず許可無く、参ったのではございません。火急の件が発生したと、物もとりあえず参着した次第です。さてあの件を命じられたのは、お戯れでございましょうか。」
と言うとすぐに、
「まあ蔵人よ、私の心は悩みが多いのだ。何がたのしくて戯れに汝をはるばる呼ぶものか。まず何ものかが私の命をあなたに伝えて、誘ったにちがいない。呼んだという証人はいるのか、いないのか。」
と激しく言い立てると、貞行はわけがわからなくなったが、騒ぐこと無く、
「ご命令を疑うのは恐れおおいことです。しかしながらひとつ、事の次第をお知らせいたします。昨日老いた雑色(ぞうしき;雑役人)で主君からの使いであることを告げてきたので、東条へ来て、見てみると知らない者でした。怪訝に思いながら恭しく君命を承ると、その使いが、わたくしに次のように言いました。
『この度の奥方のお願いにより、御屋方様みずから富山に赴き、伏姫君を捜索されると、ほとんどの用意を行っている。その山は晴れること無く、悟られないよう狩を行うように、有名な高峯なので、非常時の備えがなければならない。しかし従者を多数率いていくのは不便である。そこでこの度の共には和殿(貞行のこと)をと考えられ、急に招集された。わしはこのような高齢で洲崎の窟(いわや)のほとりにいる、名も無き下司(げす)だが、あの山の案内をよく知っているし、道案内にとして召し抱えよ。このお使いを受けてくれれば、老足ではあるが走り来よう。すなわちこれが殿の御教書(みぎょうしょ)である』
そして、襟に掛けたものをうやうやしく解き下ろして渡してきて、私がそれを見ると翁の口上と符合していて、露ばかりも疑うことが出来ず、この翁を帰すとやがて、馬に鞍をおき、乗って従者が後に続くのを待たずに夜間、道をいそぎ御館(みたち)に参りました。そして全ての事が違っておりました。さてはあの翁こそくせ者に違いないと思いましたが、なまなましい話でありますし、受け取った御教書はこちらでございます。これをご覧下さい。」
と懐から、さっと取り出して義実に手渡すと、義実はかさかさと音を立てて開き、
「これはいったい、どういうことであろうか」
と貞行の方に引き向けて見せると、貞行は再び驚き、
「わたくしが昨日見たときは文字はここに一つも無かったのに、今、如是畜生発菩提心、と二行八字が現れたのは奇妙でございます。」
と呆れること半時あまり、そして言葉を失っていた。
------------<<注釈>>-----------
[注2]三虎(さんこ)
[注2]三虎(さんこ)
ひとりが虎が出たと言っても信じられないが、三人が言ったのなら信じる、という意味で根の葉の無い噂や嘘でも、多くの人が口にすると真実と同じようになってしまうという故事。戦国策魏巻第七に書かれている(赤地部分)。
戦国策 魏巻第七:龐葱與太子(三人成虎)
龐葱與太子質於邯鄲。
謂魏王曰、
今一人言市有虎、王信之乎。
王曰、
否。
二人言市有虎、王信之乎。
王曰、
寡人疑之矣。
三人言市有虎、王信之乎。
王曰、
寡人信之矣。
龐葱曰、
夫市之無虎明矣、然而三人言而成虎。
今邯鄲去大梁也遠於市、而議臣者過於三人矣。
願王察之矣。
王曰、
寡人自為知。
於是辭行、而讒言先至。
後太子罷質、果不得見。
謂魏王曰、
今一人言市有虎、王信之乎。
王曰、
否。
二人言市有虎、王信之乎。
王曰、
寡人疑之矣。
三人言市有虎、王信之乎。
王曰、
寡人信之矣。
龐葱曰、
夫市之無虎明矣、然而三人言而成虎。
今邯鄲去大梁也遠於市、而議臣者過於三人矣。
願王察之矣。
王曰、
寡人自為知。
於是辭行、而讒言先至。
後太子罷質、果不得見。
---------------(書き下し)-------
龐葱(ほうそう)、太子と與(とも)に邯鄲(かんたん)に質(ち)たり。
魏王に謂(い)って曰く、
今、一人、市に虎有りと言はば、王之(これ)を信(しん)ぜんか、
王曰く、
否(いな)、と。
二人、市に虎有りと言はば、王之を信ぜんか、と。
王曰く、
寡人之を疑はん、と。
三人、市に虎有りと言はば、王之を信ぜんか、と。
王曰く、
寡人之を疑はん、と。
龐葱曰く、
夫(そ)れ市の虎無きや明らかなり。
然(しか)り而(しか)うして三人言へば虎を成す。
今邯鄲は大梁を去ること市よりも遠く、
而うして臣(しん)を議する者は三人に過(す)ぐ。
願はくは王之を察せよ、と。
王曰く、
寡人、自(みずか)ら知るを為さん、と。
是(これ)に於(おい)て辭(じ)して行く。
而うして讒言先(ま)づ至(いた)る。
後(のち)、太子、質(ち)を罷(や)む。
果(はた)して見(まみ)ゆるを得(え)ず。
魏王に謂(い)って曰く、
今、一人、市に虎有りと言はば、王之(これ)を信(しん)ぜんか、
王曰く、
否(いな)、と。
二人、市に虎有りと言はば、王之を信ぜんか、と。
王曰く、
寡人之を疑はん、と。
三人、市に虎有りと言はば、王之を信ぜんか、と。
王曰く、
寡人之を疑はん、と。
龐葱曰く、
夫(そ)れ市の虎無きや明らかなり。
然(しか)り而(しか)うして三人言へば虎を成す。
今邯鄲は大梁を去ること市よりも遠く、
而うして臣(しん)を議する者は三人に過(す)ぐ。
願はくは王之を察せよ、と。
王曰く、
寡人、自(みずか)ら知るを為さん、と。
是(これ)に於(おい)て辭(じ)して行く。
而うして讒言先(ま)づ至(いた)る。
後(のち)、太子、質(ち)を罷(や)む。
果(はた)して見(まみ)ゆるを得(え)ず。
(その4 ここまで)