その蜑崎の話を、義実はよく聞いており、
「氏元のその夜の戦いぶりは褒めるべきだろうが、少し計画が不足している。景連が急に寝返って信時を討とうとしたからには、何か理由があるはずだ。普通、指揮する者は二人はいらない。信時と景連は共に私を討とうというので、急いで組んだのだから必ずおかしなことになったはずだ。それを氏元は見落として、安西に誘われるままに信時を殺したのは、味方の利のためではなく、景連のためになってしまった。ところで、その後安西はどうしていたのか。」
と聞くと、蜑崎十郎は、
「その景連ですが、その夜のたたきでは征箭(そや)を一条(ひとすじ:箭の単位は条)も射てきませんでした。そしていつのまにか前原の柵から退いてしまいました。」
と答えると、義実は扇を持って、膝を叩き、
「そうか、ならばすでに景連の奸計(わるだくみ)がわかったぞ。私たちの滝田城を攻めたとき、勝敗の行方はわからなかったが、定包は天の神、地の神にも憎まれた、人も許さぬ逆賊であり、いったん定包に利があったがそれがいつまでも続くとは、景連は思っていなかったのだ。そして、定包がついに滅亡して、義実がその領地を得たために、安西にとって信時はただ勇ましいだけの男であり、役に立たないと考えたのだ。だから一緒に戦をすれば簡単に負けてしまうことをおそれて、この義実と手を組むように見せかけて、氏元に信時を殺させ、景連はその隙に乗じて、信時の平館を攻め落とし、朝夷郡を奪い、領地としてしまい、私たちと互角の勢力を作ろうとしているのだ。叩いた扇が外れても、私のこの推理は間違っていないだろう。」
と、事の本質を示すように詳細に述べ終わる頃、氏元からの二度目の中心が到着し、
「信時が討たれたところ残兵が乱れ、さわいで逃げるのを追いかけずに、氏元は軍兵をまとめ東条に帰陣しましたが、何を考えているのか景連はすでに、前原を退き、平館の城を乗っ取り、麻呂の領地の朝夷一郡を自分の物にしてしまいました。犬が骨を折り、鷹がそれをよこどりしたように、氏元の働きは成果がありませんでした。殿より軍兵を差し向けてくだされば、氏元が先陣を承って、朝夷だけだなく、景連の根城を攻め落として、この怒りを晴らしたく思います。どうかよろしくお願い申し上げます。」
と口上を述べると使者は孝吉、貞行らに書簡を渡した。金碗も堀内も、このことで主君の観察力、道理を悟る優れた才能に感動し、ひれ伏すと、
「はやく、景連を討ってください。」
としきりに勧めたが、義実は頭を横に振った。
「いや、安西は討ってはならない。私が定包を滅ぼしたのは、ひとりの栄利を願うのではない。民の苦しみを救うためである。それは私を押してくれた諸人の力によって、長狭、平郡の領主となっただけでも、私の幸せである。景連が残忍で強いというが、定包と同じではない。その本心はどうであろうとも、志を私に寄せて、木曽介氏元が信時を討つ際に、彼はいち早く平館の城を落としたことを妬ましいといって、戦を起こし、土地を争い、野蛮な振る舞いに及んで、人を殺し、民を損なってしまえば、それは私がしたくないことである。景連の悪巧みが成功して、平館がとられ、それでもなお飽きずにこちらに攻めてくるのであれば、その時は雌雄を決すべきである。そうでなければ、領地の境界を守り、手出しをしてはならない。皆、この旨を心得るように。」
と丁寧に諭したので、孝吉、貞行は、反論することなく、左右に控えている近習ら、蜑崎ら使者と一緒に感激し、さらにひれ伏して、
「昔の聖賢(聖人と賢人)よりも優れていらっしゃる。」
とひたすら称賛したのだった。そして義実は自ら氏元に手紙を書き、彼を褒め、諭して、安西を討つことを禁じ、
「人の物をとろうとして、自分の手元を忘れてはならぬ。諺(ことわざ)に、『飽きることをしらない鷹は爪が裂けてしまう』というように、城に籠もり守ることだけに注意を払うように。」
と戒めて、蜑崎十郎らの使者を東条に帰したのだった。
-------------<<余談>>------------
徳について
里見義実の政治観には「徳」による政治、いわゆる「徳政」がある。したがって、「徳」のある者は衆人から推されて主君となり、政治を司ることができるが、「徳」の無いものは、あるいは主従の関係を逆転させるような悪行を行った者が、政治を行ってはならないという考えのもとに、定包を討ち、自身の安房を治める方針としている。
この「徳」という文字だが、白川静によれば、つくりの部分は「直」と「心」でできていて、その意味は「ただしい」「こころ」である。へんの行人偏(ぎょうにんべん)は、「人が道を行く」という意味を表す部首である。したがって、「徳」とはただしい心を得るために人が進むべき道、もしくは人が得た、ただしい心そのものである。ここで「ただしい」という意味が漠然としているが、「直」の「目」に呪力が抱かれており、得られた内面的なものが、外部の行動へと導かれる何らかの力をも意味しているのである。これが「徳」が思想的背景を持つようになったのではないだろうか。
面白いことに日本書紀では天皇の「徳」について様々なことが書かれているのだが、古事記には書かれていない。これは日本書紀が「徳」の思想を敢えて取り入れて、古代天皇を評価したとも考えられる。したがって、日本書紀が書かれた時点で「徳」の思想は日本に定着していたのであろう。
例えば日本書紀の仁徳天皇の部で、兄の太子稚郎子(いらつこ)から帝位を譲られたときに「天下(あめのした)の君として、万民(おおみたから)を治める者は、国を蓋(うだきおお)う天(あめ)のようであり、それを受け入れれる大地のようでなければならない」と天子のあるべき姿を述べ、次いで「仁(ひとをめぐみ)孝(おやにしたがうこと)を隅々まで広め、その御代は長久でなければならない」と天子が期待する仁と孝の二つの徳について述べている。
古事記下つ巻の大雀(おほさざき)命(仁徳天皇)部では大郎子(おほいらつこ=日本書紀の稚郎子と同一人物)が早世したので大雀命が天皇になったとあり、そのときの言葉の記述は無い。
ここで、兄の太子稚郎子の処遇について日本書紀はかなり丁寧に記述している。古事記で早世したという部分についてなぜ、早世したのかという点について明らかにしている。というのも先の天皇である応神天皇が朝鮮半島の戦国時代にどっぷりとはまってしまい倭国も戦時体制であったため、天皇が画期的に交代することで、人民の意識を転換させる意志があったのではないか、もしくはそうだったことを後世に残したかったのではないかと思われる。これが日本書紀と古事記の記述の差であろう。
閑話休題、仁徳天皇(この時点でまだ即位していないが)は先帝の朝鮮半島の戦後処理に追われ、兄の稚郎子も活躍していた。しかし、何らかの問題が生じ稚郎子は自死する。その際に仁徳天皇は「兄王(このかみのきみ)の志を奪ってはならないことを知った。兄が生きていれば天下(あめのした)が容易に治められてはずなのに」と嘆く。なぜ、稚郎子が自死したのか、その理由はわかっていないが、本来ならば兄が継ぐべき帝位を譲られた形であったために、津田左右吉も述べているように中国思想の徳について取り上げたのだろう。津田の歴史観に諸手をあげて賛成するわけでは無いが、日本書紀は養老四年(720年)であることから、中国的大乗仏教も道教(儒学)も導入されている時代で、編纂の過程でそのような思想によって歴史的事実を解釈し肉付けしていくというのは当然のことだと想像できる。
話がそれるが、確か『東観漢記』(とうかんかんき)の「顕宗孝明皇帝」(=後漢の2代明帝:在位57年-75年)部に書かれている文章と日本書紀の仁徳天皇が即位するまでのストーリーが似ている部分があるとされている。日本書紀(日本紀)自体の成立目的が正確にわかっていないが、欠けた「天皇紀」や「国紀」を補うように天武天皇が命じたのであれば、その書き方は大陸の影響を十分に受けたのは間違いない。一方「古事記」については、稗田阿礼の記憶と「旧辞」などの散逸していた資料をあつめて編纂しているため、日本書紀にくらべて淡々としているので当時の思想背景をさぐるのが難しい資料である。
さて、もう少し具体的に「徳」について考えると、よく「人としての器」といった表現がある。これは「徳」が入る「器」を示している。器量、力量とはこの「徳」を他人が計ったものである。また仏教における「功徳」とは「徳」によって行った結果を伴うものである。さらに「自分」という言葉のように「自身の器の分限」を表現しているが、これらはすべて、「徳」の量を示すものである。そして礼記(らいき、孔子)に「徳は得なり」とあるように、「徳」は獲得可能な能力である。したがって、里見義実などは為政者として自分にどのような徳を持ち、どのように行動したらよいか、といった思い(行動基準としての徳)が常にあり、意識した言動となったにちがいなく、それがまた周囲には「徳」のある器量の大きい人物に見えていくのである。
さらに、八犬伝ではこの「徳」について様々な出来事を通して、読者が理解し、理想の人物像を描き、心を寄せていくことになる。
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(その2 ここまで)