しかし、義実は金碗孝吉の話に従う様子もなく、
「その話は、私にはできすぎたものに思えるな。奇襲というのは良い考えだが、寡(か:少ないこと)をもって衆(しゅう:多いこと)と戦うのはとても難しい。まして、私たちは浮浪の身である。何を理由に味方の兵を集めることができるのか。今、主従三、四人で滝田の城を攻めれば、かまきりがカマを振り上げて、荷車に立ち向かうのと同じではないか。できる話ではない。」
と話を打ち切って去ろうとすると、金碗八郎(孝吉)は跪いたまま、義実の方に進み、
「私の言っていることが、中身のない話に聞こえるのも仕方がありませんが、ここの二郡の多くの民、百姓は、あの定包という逆賊に虐げられ、恨みは骨の髄にまで染みております。しかし、権力におさえこまれ、武力を恐れて、長い間、定包に従わざるを得ませんでした。人として、義を貫くのは、草木が日光を求めて向きを変えるのと同じです。義実様、今ここで神餘のために、逆賊を討ち、民衆の苦渋から救うとして、旗を揚げられれば、蟻が甘い蜜に集まるように、物が響いていくように、皆が喜んで、遠くからも集まってきましょう。もうお一人ではございません。仁義の戦に命を投げ出し、生きていつかは定包を討とうと思っていた者がいかにたくさんいるとお思いでしょうか。この孝吉は、そのような者の中の一人ですので、多くの人々を定包に知られないように集めるために、簡単な計画がございます。それというのは、」
と、義実の側でその計画を打ち明けると、義実は、
「なるほど。」
と答えて、すぐに頷いた。側で聞いていた氏元達も、
「それは面白い、面白い」
と感嘆していたが、孝吉の姿をしげしげと見つめて、
「無念だなぁ、金碗殿。忠義のためとはもうせ、お主の皮膚は瘡に包まれて、少しも昔の面影がなくなっているではないか。そのような姿では味方を集めるには難しいのではないか。お主を知っている人がいても、名乗っても、そうとは思わないであろう。もし、その瘡がすぐに治る薬があればよいのだがなぁ。」
と慰めれば、孝吉はそれを聞いて、自分の袖をかきあげて、
「昔の主人のために身を削り、このような姿になってしまいましたが、あの逆賊を滅ぼすことができれば、望みは叶ったも同然です。もともと私のために集める軍、兵士ではございませんから、面影が変わったとしても、まったく問題はありません。そのように心配なされれませぬように。」
と言いながらも、腕をかきなでていた。義実はしばらく黙考し、
「志はよくわかった。そうとはいっても治る皮膚病ならば、治すことが先決であろう。漆(うるし)は蟹(かに)を嫌うという。だから漆を使う家では、蟹を煮ると漆を流してしまうので、気をつけているという。そこで私が思うところ、お前のその瘡は、漆の毒に触れたためにできたものだ。身体の中から出てきたものではないだろう。蟹を使って、その毒を溶かせば、すぐに治るのではないか。やってみてはどうか。」
と言うと、孝吉は義実の智に感激し、反論することなく、
「この浦には、蟹が多くいます。何とか試してみます。」
と返事をした時に、ちょうど運良く、海民の子達が頭の上に竹で編んだ魚などを入れた籠を頭にのせてこちらに向かってきた。貞行と氏元は急いで、
「これこれ」
と子達を呼び止め、
「何が入っておる」
と尋ねると、それは蟹であった。
「これは、よかった」
と笑いながら、全部の蟹を残らず買い取ると、その数は三十余りあった。義実はこれをみて、
「このようにせよ」
と瘡に塗る方法を教えると、孝吉はそれをまねして、生きたままの蟹の甲を裂いて、その中身を自分の全身に塗っていった。その間に貞行達は、腰から火打ち石を取り出して、打ち鳴らし、松の枯れ枝を折って、火をつけ、たき火をして、残った蟹をあぶりながら、蟹の甲を取り、足の殻を取り除いて、孝吉に与えると、一つも残さず食べてしまった。すると、先ほどまで臭かった膿血は乾いて、瘡蓋はかくとポロポロと落ちていき、ほとんど全身が治っていった。実に著しい薬の効き目である。神仏が忠義のある狐を使って、不思議な事を起こすのに似ている。
「おお、これは不思議だ、不思議だ」
と氏元は、貞行と一緒に、治っていく孝吉の身体の全身を眺めながら感激し、
「あれをご覧下さい」
と指さしてみると、孝吉は馬が歩いた後の水たまりを鏡代わりにして、自分の顔をつくづく眺めてながら、感涙を流しながら、
「私の皮膚は見えているところもなく、かきつぶした瘡が、あっというまに治っていきました。この事は文武の道に精通されている優れた武将のおかげでございます。名医は国をも治すと申します。私は物の数にも入りませんが、乱れた国を平和に治め、民衆の苦難を救ってくだされば、それが本当にまことの仁術でしょう。さて、ここは麻呂、安西の領地ですので、すでに鯉を釣りあげる期限を過ぎておりますが、彼らもまだ手出しはしてこないでしょうが、とはいっても時間の余裕もありません。先ほど申し上げたように、はやく移動いたしましょう。」
と、感謝の気持ちを込めながら、義実主従を説得し、ぼさぼさの髪をかき上げて、まとめて頭の上で短く束ね、紐で髻(もとどり)を結い、腰には縄の帯を締めていたが、隠し持っていた匕首(あいくち)をさして、小湊という浦に向かって、義実主従を先導していった。
--------------<<余談>>---------------
余談1:武士の名前
この八犬伝でも同様だが、武士の名前は長い。たとえば、主人公の一人である、義実は、
里見治部大夫義実
である。もちろんこの名前は一国の領主として朝廷に認められた後の名前であるが、
姓:里見
役職:治部大夫
諱:義実
である。
里見治部大夫義実
である。もちろんこの名前は一国の領主として朝廷に認められた後の名前であるが、
姓:里見
役職:治部大夫
諱:義実
である。
しかし、結城では「又太郎御曹司」と呼ばれている。御曹司は里見家の嫡男を意味しているが、「又太郎」は字(あざな)である。これが本名。したがって、役職名を省くと、
里見又太郎義実
というのが「姓・字・諱」となる。一方、義実の家臣は、杉倉木曽介氏元、堀内蔵人貞行と書かれていて、これは、「姓・役職・諱」の表記になっている。安西三郎大夫景連、麻呂小五郎兵衛信時は「姓・字・役職・諱」であるが、神餘長狭介光弘、山下柵左衛門定包は「姓・役職・諱」の表記である。今回の話の中心人物となる金碗八郎孝吉は、「姓・字・諱」である。このような表記の違いに、作者はどのような意図があったのか考えてみる。
姓は、家系を示すファミリーネームであり、里見氏の場合新田氏から派生した家系である。金碗孝吉の場合、本人も言っているように神餘の妾が産んだ子であり、金碗が傍系であることをその読みからも示している。字を比べてみると義実の「又太郎」とは正式な嫡男であることを期待してつけられた名であることがわかる。景連や信時は何らかの理由で、自分より前に生まれた子をさしおいて家を継いだと想像できる。
諱は「忌み名」といわれるように、口には出してはいけない名で、字は通称である。実際八犬伝でも逃亡中の義実のことは「君」や「殿」「主(しゅう)」というように呼ばれている。諱を呼ばれると言うことは、恨みをもっているという何らかの意味合いを含んでいると言って良いだろう。
一方、字を明らかにしていないのは、義実の家臣杉倉氏元、堀内貞行、神餘光弘、山下定包などである。字がわからないというと実は本性をさらけだしていない、実に不気味な感じを醸し出していて、家臣の二人はその実力がまだまだ発揮されておらず、果たして老臣とは言いながら、役に立つのかたたないのかわからないし、神餘光弘はほぼ実体のない愚かな領主だし、山下定包は悪知恵の働く不気味な存在である。
幕末の志士である坂本龍馬の龍馬は字、諱は直柔(なおなり)という。だから彼の死後、我々は坂本直柔と呼ばねばならないのであるが、小説の影響か、字をそのまま使っている。その方がいまでも生きて活躍しているかのような錯覚を覚えてしまうのは、何時までも坂本龍馬に生きていて欲しいという思いからなのかも知れない。
なお、私の八犬伝の現代語訳では、主人を呼ぶときも「義実殿」というように諱呼びをしている。これは現代人の名前が諱も字も一体となったものになっているため、使い分けることで誰が誰と会話をしているかわからなくなるためである。
参考:逆説の日本史3 古代言霊編、井沢元彦、小学館文庫
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余談2:漆かぶれに蟹の汁
金鋺孝吉の漆かぶれを蟹で治療しているシーンが描かれているが、本朝食鑑(ほんちょうしょっかん、人見心大により元禄十年(1697年)に刊行された本草書。主に食法、滋養、毒性について記述されている)にも漆かぶれに沢ガニが有効であることの記述がある。よく知られた治療法だったようだ。
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(その3 ここまで)