チャイコフスキー | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

ピョートル・チャイコフスキーは1840年ロシアで生まれ、1893年に死去したウクライナにルーツを持つロシア人の法律家・作曲家だ。法律家だったのは幼少期に音楽的才能を見出されてはいたものの、法律家として法務省の下級官僚となり働いていた。21歳になるころ、ロシア音楽協会(1862年ペテルブルク音楽院に改組)のクラスに入学したときから、音楽家としての道を目指すようになる。高等教育を受けた人が音楽教育を受けて成功した最初の人だ。

 

モスクワに居を移すと、ペテルブルク音楽院のモスクワ支局がモスクワ音楽院となり、チャイコフスキーはそこの楽理の教師となる。1868年頃にロシア五人組と出会い交流を温めるものの音楽的には距離を置いていた。ただし、ロシア土着音楽に寄っていったのは自然の流れだったと思う。ピアノに絡めていうと、有名なピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 作品23は、1875年に完成、初演をモスクワ音楽院長のニコライ・ルビンシテインに依頼するが、酷くけなされたので、ドイツのピアニスト、ハンス・フォン・ビューローに献呈し初演を行ってもらった。これが大好評でヨーロッパ中で演奏された。この結果から、ニコライはチャイコフスキーに謝罪している。当時のロシアの音楽界をけん引していた、アントン・ルビンシテイン(ペテルブルク音楽院)とニコライ。ルビンシテインの兄弟は、ヨーロッパの音楽をロシアに根付かせるために多大な努力をはらった。その結果、20歳そこそこで入学してきたチャイコフスキーを音楽家として育て上げ、デビューまで厳しく育成した。そのおかげで現在、チャイコフスキーの音楽を僕たちは愛することができるのだ。

 

下の動画はアルゲリッチによるピアノ協奏曲第1番。スイス交響楽団で指揮はデュトア。

 

このピアノ協奏曲第1番をニコライが「演奏不可能」とした理由だが、ひとえに速度に対する打鍵数の多さにあると思われる。これはピアニストの体力を奪うとともに、第3楽章でのアグレッシブな打鍵はすごく消耗する。僕は中学1年から取り組んで完全に演奏できるまで2年ほどを要した。

 

アルゲリッチの演奏は、完全に独特で、様々なテクニックが披露されているので、この動画はとても参考になる。彼女の後年にもデュトワとともに再演しているが、このときはオーケストラをピアノがけん引して音楽を作るという、前代未聞のコンサートになった。もちろん音源は発売された。

 

上に参照した動画を見ていると、手首が鍵盤に対して常に平行に保たれたまま、様々な演奏スタイルを繰り出しているのがよくわかる。手首のポジションを保つことは、演奏による体力を消耗しないという利点がある。

 

僕は、この曲の第3楽章が大好きで、そのために第1楽章がある、といってもよい。これは構成美を追求したチャイコフスキーならではの楽曲だろう。