モーツァルト 大ミサ曲 ハ短調 K.417a(K.427) | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

今日はクリスマスイヴだ。個人的な話だが、うちの家系では、男子は15歳になった日の早朝「お水取り」という儀式を父とともに行う。奈良東大寺二月堂の修二会とは違う儀式だ。いわゆる昔の元服と同じ意味合いがあり、いろいろと面倒な手続きの後、形だけだが日本刀を父より拝領する。これが「穢れ」の排除とこれから受ける「穢れ」への防御のために、父の刀と金打(きんちょう)して終わり。日本刀は本家の持ち物なので、送り返してしまうので、本当に儀式のためだ。

 

こんな家柄なので、16歳の時にクリスチャンへの宗旨替えを父に話したら、伯父を巻き込んで、めちゃくちゃ怒られた。僕自身が今後西洋音楽を続けていく上でキリスト教への理解は必要だと感じていて、棲んでいた近くの教会へ時折手伝いに行き、かなり感化されていたのもある。結果的に許されなかったのだが、手伝いをするのは良いということで落ち着いた。実際叔父がカトリックへ宗旨替えをしたところ、伯父から絶縁されてしまったぐらいだ。信教の自由は憲法上の権利ではあるものの、強い信念がない限り難しい。父は浄土宗から日蓮宗(母方)へ宗旨替えしている。このときは、父はほぼ祖父から勘当状態だったため、もめなかったようだ。

 

高校時代棲んでいた地域はキリスト教の信者が多数いる場所だった。といっても小さなパイを数多の宗派、分派が奪い合っている状況で、手伝っていた近所の教会でも50名(10軒程度)ほどが主たる信者で、日曜礼拝の聖歌隊を構成するのもやっと、で神父も貧していた。手伝いは、オルガン弾きと聖歌隊の指導。小中学生や主婦を集め、コーラスを教えるのは面白いし、聖歌隊に参加している人々も楽しくなってきて、週末かならず礼拝に参加するようになってくる。日曜礼拝を始める前に神父はリヤカーを引いて鐘をならし、「はじまりますよー」と町内を回る。その時、子供が居ればお菓子を渡して、教会に来るように誘う。キリスト教ではない人にとってみればいい迷惑だっただろうが、子供達は楽しみだっただろう。

 

そんな小さな教会でもクリスマスというか聖誕祭は非常に重要な儀式だ。信者はみな正装で、女性が自分で作ったレースのベールが、いつもとは違う雰囲気だ。いつも礼拝は昼間に行われるが、この日ばかりは夕方から始まり、ろうそくで明かりをとるので、よけいに幻想的になる。「ミサ」はイタリア語、MISA。英語ではMASS。

 

モーツアルトの大ミサ曲はイタリア語では「GRAN MISA」。このK.417a(K.427)は未完成のミサ曲で、「レクイエム」K.626に次いで有名。大ミサ曲は1787年に彼が誰の依頼も無く書き上げて、コンスタンツェと結婚し、父レオポルトの許可を得るために、妻が素晴らしいソプラノ歌手であることを示すために作曲したものだ。

 

構成は第1曲「キリエ」、第2曲「グローリア」、第3曲「クレド(前半部分が未完、後年研究者によって加筆されたものが演奏される)」、第4曲「サンクトゥス」、第5曲「ベネディクトゥス」、「アニュウスデュイ(未完、演奏されない)」で構成されている。

 

リンクの動画は、バーンシュタイン指揮、バイエル放送交響楽団とその合唱団。

 

キリエは自筆譜が残っている。冒頭の部分が以下の画像。一番上の段がヴァオリン。

 

ミサ曲としては未完成ではあるものの、モーツァルトらしさが十分に発揮された宗教音楽で、新妻コンスタンツェを連れてザルツブルグの父レオポルトを訪れて、そのときに地元の教会に献呈しようと考えていたらしいが、コンスタンツェの妊娠発覚によってザルツブルグ訪問はできなくなった。翌年1783年にザルツブルグへ帰郷し、完成している部分と、以前作曲した部分で補って初演、このときコンスタンツェはソプラノ・ソロを担当した。すぐにウィーンに戻り、未完部分に着手するが、完成させることが出来なかった。新妻の故郷ザルツブルグでのソプラノ歌手としてのデビュー、お披露目的な意味合いが強い楽曲だったため、目的を達成したので、モーツァルトは急速にこの楽曲完成への意欲が失われたか、依頼された楽曲でないため、お金にならないと考えたか、未完の理由はそんなところだろう。

 

モーツァルトといえば、頭の中に楽曲のすべてがあり、それを譜面にしているだけ、という天才説がはびこっているが、天才といえども大規模な構成や儀式様式などを踏まえたとき、破綻無き音楽を作譜するためには、相当のエネルギーが必要であるということを、この未完の大ミサ曲は暗に語っている。