ロマン派歌劇の王 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

リヒャルト・ワーグナーは1813年ザクセン王国ライプツィヒに生まれ、1883年イタリアのヴェネツィアで死去。彼の歌劇は自作で独りでシナリオから音楽まで書き上げたものだ。ロマン派主義的な華麗さ・悲愴さを過激に演出して、発表当時の観衆を沸かせた。また失敗も多かった。ライプツィヒ生まれというと日本ならば、東京生まれといったところか。リヒャルトが生まれると実父が死去し、母は再婚。再婚相手がユダヤ人のルードヴィヒ・ガイヤー。家庭内での音楽演奏会など多く行われ、兄弟も音楽家を目指していく。そしてウェーバーと親交を持つようになった一家で、リヒャルトはウェーバーにあこがれるようになる。そしてリヒャルトが15歳のときベートーベンの音楽に心酔し、音楽家を目指すとともに、当時ヨーロッパではやり始めていた演劇にも興味を持ち、劇作家への道も視野に入れるようになる。このころすでにピアノ曲などの作曲を行っている。しかし初期のワーグナーの楽譜は紛失(戦争の影響か?)して見つかっていない。

 

下の動画は、ポロネーズ ニ長調 作品2 WWW23、連弾曲である。1831-32年に作曲。

この陽気なフレーズとポーランド風民謡のリズムが非常に心地よい。同じフレーズを繰り返し、興奮を高めるという手法が、すでに表れていて、実にワーグナーらしい楽曲だと思う。

 

下の動画は、「ピアノのための大ソナタ」イ長調、作品4、1832年作曲。

 

作品2と4を比べてみると、連弾とソロ、という違いはあるが、ベートーベンの音楽に通じているように感じられる。特に作品4は、知らない人が聞けばベートーベンと区別できないと思う。というのも、1830-31年にワーグナーはベートーベンの「交響曲第9番 合唱」のピアノ用に編曲している。これは現存する編曲作品中最初のものだ。

 

下は交響曲第1番 WWW 29、1832年作曲。

ワーグナー、実は交響曲をこの第1番しか完成させていない。この楽曲の中のフレーズは後の作品に転用されていて、彼にとって実験的な楽曲だったのではないだろうか。

 

さて、歌劇の方だが、これは有名すぎてここに取り上げる必要もないだろう。

ただ、晩年の作品として、最後の歌劇作品「パルジファル」WWW 111, 1877年作曲、1882年初演のために再度書き直す。この歌劇は「舞台神聖祝祭劇」とよばれ、1872年にワーグナーがバイロイトに移住し、ルートヴィッヒ2世の援助によってバイロイト祝祭劇場の建設を開始する。1876年に劇場がが完成、2年前に差曲していた「ニーベルングの指環」を初演。しかし失敗。多額の借金を負うことになった。

 

バイロイト祝祭劇場の音響機能が独特で、この音響に合った演奏と音楽が、この「パルジファル」である。この楽曲はバイロイト以外での演奏を禁じている。また、指揮者もヘルマン・レーヴィ(ユダヤ人)に一任していた。

ユダヤ人排斥者と認識されているが、僕の中では単にメンデルスゾーンが嫌い、というだけだった気持ちが周囲への影響力などから、広がっていっただけなのではないだろうか。同じライプツィヒにいて、超天才・イケメン、家族そろって美しい、しかもとんでもない裕福、人間性も良いといったメンデルスゾーン一家に対して、売れない歌劇作家は嫉妬したに違いない。ワーグナーの大きすぎる自尊心は、嫉妬にって自分自身を傷つけたがゆえにメンデルスゾーンへの攻撃となった。また、ワーグナーを含めて家族、子供らはナチズムとは一定の距離を置いていた。ただ息子ジークフリートの夫人ヴィニフレート(イギリス人)はジークフリートが死去するとヒトラーに公私共に接近した。しかしジークフリートの長女フリーデリントは母のナチス好きを嫌いアメリカに亡命する。

 

一方でブラームスとは親交を結びながら音楽論で対立する、といったことを繰り返していた。本音では仲の良い二人だったのだろう。ワーグナーの死去の報せを聞いたブラームスは、合唱練習を中断して弔意を表したという。

 

第二次世界大戦後、バイロイト祝祭劇場はアメリカ軍に接収されたが、ヴィニフレートの長男ヴィーラント(ワーグナーの孫:舞台演出家)に返還され、1951年、フルトヴェングラー指揮でベートーベンの交響曲第九番合唱が演奏され、バイロイト音楽祭が開催された。のちに舞台照明による演出技法は、第一次世界大戦後流行していた新即物的演奏をカール・ベームが行い、高い評判となる。これらは「新バイロイト様式」として舞台芸術家のお手本となっている。