百人秀歌(百人一首) 第81 あわじしま....(源兼昌:みなもとのかねまさ) | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

81 源兼昌  金葉和歌集
 淡路島かよふ千鳥の鳴く声に いく夜(よ)寝覚めぬ須磨の関守

 作者は平安後期の歌人。宇多源氏で、源俊輔の子。最終官位は従五位下・皇后宮少進(こうごうぐう・しょうじん)。堀河院・歌壇の下部集団である忠通家・歌壇で活躍しており、永久4年(1116)の「堀河次郎百首」の作者の一人である。

 話は現代に下るが、今年亡くなった淡島千景という宝塚歌劇団出身のスターの芸名は、この和歌を基にしたものだ。素敵な芸名だ。

 さて、「金葉和歌集・冬」にこの歌は見え、前書きとして、

 關(関)路千鳥といへる事をよめる


 とある。

 「関路の鳥」とは中国春秋時代、孟嘗君がにせの鶏の鳴き声で函谷関(かんこくかん)を脱出したという「史記」の故事にある。この百人秀歌60清少納言の歌も、この関路の鳥を踏まえたものである。今一度書き出してみよう。

 夜をこめて鳥の空音にはかるとも 夜に逢坂の関は許さじ

 清少納言は万寿2年(1025)頃亡くなり、源兼昌は大治3年(1128)頃はまだ生存していたので、当然面識はない。ただ、陸路の逢坂から、海路の須磨へと変化したというのは、船運技術の向上発展がこの100年であったということだ。平安後期の瀬戸内海は、海賊が頻繁に出没し、それを取り締まる武門も、お互いに船舶航行技術を日進月歩で開発していったのだろう。そういった時代のインフラをもイメージできるのが、撰歌集の面白いところだ。

 本歌は四句切れ。「淡路島~寝覚めぬ」が「須磨の関守」に掛かる。折句を見てみよう。

冠:あかないす
沓:まのにぬり

 となり、これを合わせると「あかないすまのにぬり」=「飽かない須磨の丹塗り」=「須磨の丹塗りには飽き足りないな」となる。

 歌意は

淡路島の見えるこの須磨の浦では飛び交う海鳥の多さで、関守も幾晩も眠りを妨げられているそうだ」。

 変である。通常海鳥は夜に鳴いて飛ぶことなど無い。鳥目というぐらい、暗闇では鳥は目が見えない。見えるとすれば、猛禽類。夜飛び交うコウモリを捕食するフクロウなどだ。しかし鳴かないから、夜に海鳥が騒ぐというのは何かがあるということだ。折句を再度検証しよう。ポイントは「丹塗り」だ。「丹」は朱色のことだから、折句は「須磨の浦を朱で染めても、染めても満足できない」という意味になる。だから須磨の関守は夜もおちおち寝ては居られないのだ。こう考えていくと「丹」の正体は「海賊」ということになる。「にぬり」=「荷盗り」にも通じる。

 もう一つ考えられるのが「丹塗り」の鳥居だ。宮島・厳島神社の海上に立っている丹塗りの鳥居は、有名だ。神社の創建は推古天皇期までさかのぼることができるが、この丹塗りの鳥居は平安後期に平清盛が厳島神社を祀る際に建立されたものが原型だから、兼昌の歌が詠まれた頃には、もっと簡素な形の鳥居があったのかもしれない。「丹塗り」を神社の意味に捉えると、「あかない」の「あか」は仏教で言う神仏に捧げる水のことになる。したがって、この歌全体の意味は、

 海上交通を守る神社に捧げる閼伽(あか;水のこと)も無く、末法の世も近づき、海上では海賊が夜も横行し、海鳥たちもその騒ぎを聞きつけて、声を上げて飛び回っている。須磨の関守も、夜だからといっておちおち寝ては居られないそうだ。物騒な世の中になったものよ。

 初句の「淡路島」というのは王家にとっては実に忌み嫌う名称である。というのも奈良時代、藤原仲麻呂が橘奈良麻呂の乱を未然に防ぎ、淳仁天皇を即位させ、恵美押勝の名を賜り、太政大臣となって権勢を振るった後、孝謙上皇が道鏡を寵愛したので、それを除こうと軍兵を起こした(恵美押勝の乱、または藤原仲麻呂の乱)が失敗し、それを後押しした淳仁天皇は、廃帝となり淡路島に流された。そのため淳仁天皇を淡路廃帝と呼んだ。淡路島へ流される時点では恵美押勝と淳仁天皇の関係は疎遠となっており、このとき王家、朝廷の勢力は二分されていて、淡路廃帝と京をしきりに通う公家、官僚も多くあり、淡路島から逃亡をはかるが、捕縛され暗殺されている(という説がある)。
 こういう点を考えてみると、実は「淡路島」の浮かぶ須磨の浦を読んだのでは無く、

 朝廷や王家に二心を抱く者があり、その人の邸宅へ夜な夜な通う人々がいるらしい、おちおち番人は夜も寝ていられない

 といった意味にも解釈できる。金葉和歌集の成立が大治2年(1127)だから、それ以前にこの歌は詠まれている。1110~1120年あたりは、京では延暦寺などの僧呂による強訴が横行、瀬戸内海や九州では朝廷の荘園政策に反抗した豪族が兵を起こして反乱していた。そのために、平正盛(清盛の祖父)が総大将となって、京や九州の反乱兵を討伐している。一方で、そういった反乱を煽る者も朝廷内の公家にはいたようだ。なにしろ荘園停止令は、私有地である荘園を王家の天領とするものだから、表では天皇の勅命には逆らえないが、裏ではなんとか荘園没収を防ぐよう反乱させていたのだ。こういった状況を官位の低い兼昌はつぶさに見ていたに違いない。後年の出家の原因はそういった点にあるのではないだろうか。定家はおそらく知っていたにちがいない。


狂歌
81 淡路由良城安宅殿の家来  かさぬ草紙
 阿波讃岐伊予土佐までも旱(ひでり)にて 四石(よんごく)のうちに大豆(まめ)は壱石(いっこく)

 この家来の給料が切米四石だったのだが、ある年、四石の内の一石が大豆で渡されたので、この歌を書いて家の門の外に貼り付けた。この歌を知った安宅(あたぎ)殿は、これを褒めてこの家来に知行五十石を与えたという。

 「四石」=「四国」=「阿波・讃岐・伊予・土佐の4つの国」がかかっている。「阿波」=「粟」ではなくて「大豆(まめ)」でまだよかった、という皮肉も込められている。「旱」は「日照り」で米が不作だったのだろう。