39 右近 拾遺和歌集
忘らるる身をば思はず誓ひてし 人の命の惜しくもあるかな
右近は平安時代中期の歌人。右近衛少将藤原季綱の娘である。父親の役職名が愛称である。醍醐天皇の中宮穏子(やすこ)に仕えた女房。彼女が女流歌人として活躍したのは主に村上朝で、内裏で行われた歌合わせに出場している。また、元良親王、藤原敦忠、藤原帥輔、藤原朝忠、源順(みなもとのしたごう)らと浮き名を流した。
この歌は相聞歌であるが、一説には送り先が藤原敦忠だそうだ。敦忠は時平の三男、権中納言、三十六歌仙に名をつなれる名人である。通称、枇杷中納言、本院中納言。
さて歌、初句「わすらるる」は「忘すらる・る」で、受け身「忘れられる」と、尊敬を意味する「らゆ」が「る」に転化し、しかも自然にそうなるだろうという自発性の「る」がかけてある。「みをば」の「をば」は格助詞「を」+係助詞「は」で、動作の強調、「ことさら~を」という意。「おもはず」は二つの解釈が有り、「無意識に、思いかけず」と「意外にも、心外だが」。「ちかひ」は「誓う」で神仏、相手と約束を交わすこと、もしくは自身で決意することだ。「てし」は完了助動詞「つ」の連用形+接続助詞の終助詞的活用「し」。「誓ってしまったし、~だ」といった感じになる。
上句だけ訳してみよう。
「もう私の事など忘れられてしまったのだと思ったら、思いかけず神仏に祈ってしまったのだけれど、」
下句「人の命の」、「人」=「他人」、「いのち」=「命」=「尊」=「あなた」。「惜しくも」は「惜しい」=「大切なものを失いたくない、心残りだ」、「も」は接続助詞で、「惜しく・けれども」となる。「ある」は、「散る・離る」で、離ればなれになるという意。「かな」は終助詞「か」と「な」の連語で、ここでは納得がいかないという思いをあぶり出す。下句は以下のように読む。
「他の女房に大切な尊を奪われて離ればなれになるなんて、口惜しくて、ほんとうに納得がいかないわ」
我ながら女性の心情をうまく表現できないところに、惜しくもあるかな、であるが、ざっとこんな感じだろう。だから、相手は元良親王ではないかと思う。「命」=「尊」という暗喩は多くの歌で詠まれているからだ。元良親王は百人一首にも名を連ねている、陽成天皇の第一皇子。陽成天皇が光孝天皇に譲位した後に生まれた皇子だ。
しかし、それもちがう。
冒頭のプロフィールで「中宮」という名詞をおいたが、これは藤原穏子が醍醐天皇に嫁ぎ皇后になった後に作られた職位だ。時間軸で流れを見てみよう。
昌泰4(901)年 穏子、醍醐天皇に入内、女御となる
延喜9(909)年 従三位
延長元(923)年 皇太子保明親王薨去、立后・中宮に冊立 中宮職設立
延長8(930)年 醍醐天皇譲位・間も無く崩御、朱雀天皇(寛明親王)即位
天慶9(946)年 村上天皇(成明親王)即位
実は息子の朱雀、村上ともに皇后を立てなかった。中宮に止めておいたために、3朝に渡って、王家の妃は穏子だったのだ。その中宮などの后妃に関わる事務一切を行う役職だ。現在の皇室、宮内庁における大夫職とほぼ同じで、皇后、中宮、皇太后などに並列に官位官職がならぶ。だから、穏子は中宮の王家側の長であり、絶対的な権限を持っていた。こういったことができたのは、父関白・藤原基経の力があったことで、王家の皇后にもこのようにして、管理制御しようと考えたのだろう。
さて、もう一つ思い出さなければならないのは、醍醐天皇がなぜ突然に延長8年に息子の寛明親王に譲位し、すぐに崩御したのかという事件だ。キーワードは「菅原道真」。無実の罪で筑紫・大宰府に一族もろとも左遷し、死後その怨念が清涼殿に雷を落とし火災を出す。これに驚愕おそれた醍醐天皇は、慌てて譲位、恐怖の中、数日で亡くなる。右近は、穏子の側で、その当たりの様子は子細に見ていたに違いない。
もう一度歌をみてみよう。
忘らるる身をば思はず誓ひてし 人の命の惜しくもあるかな
「身(み)」は「みちざね」の「み」だ。そして「人」=「ひと」=「一(ひと)」、「命」=「尊」=「天皇」である。「ひと・の・みこと」=「天子」なのだ。訳してみよう。
「道真公のことは、決して忘れられないとずっと、お祈りしておりましたのに、御上の御霊はおかくれになりました、これからというときに、ほんとうに残念でなりません」
この歌のキーポイントは「ひと・の・いのち・の」の「の」の反復だ。そして「おしく~かな」がくれば、これは寂寥の歌だ。浮き名を流す女房だが、やはり仕えていた方の御上が亡くなるのは、かなり大変な事件だ。ましてや普通の死に方ではない。だとしたら、それを得意の歌で残したいという思いがあったとしても不思議ではないだろう。
そして、この歌を送ったのは、やはり元良親王だろう。延長7年10月に彼の40歳の祝いに妻の修子内親王(醍醐天皇皇女)は紀貫之に歌屏風を作らせている。中宮からも当然祝いのなにかがあっただろうことは予想できる。そして、醍醐天皇崩御の後、この歌を送り、「あなたは嫡流でなくてよかったわね、呪われなくて」という皮肉を込めて送ったのかも知れないし、本当に嘆き悲しんで、送ったのかもしれない。他の恋仲相手では、格が落ちる。
狂歌。
39 細川幽斎 室町殿日記
忘れても質には置かじ大鼓(おほつづみ) ひつた流しに流すひの口(くち)
あるとき、秀吉が能興行を催した。樋口久左衛門(=「ひの口」、大鼓の名手)が「自然居士(じねんこじ)」のさざなみ(曲の最後の場面、人買いに買われた少女を救出に成功し、喜ぶところ「元より鼓は波の音」)を面白く、演舞したので、見ていた者は大いに感動した。そこで秀吉が細川幽斎に、「この能はどうであったか」と歌を一句詠めと催促したので、上のように詠んだという。樋口久左衛門は、その後、摂津国700石を与えられ、徳川幕府にも仕えた名家となった。
「ひつた」=「畢た」=「おわる」で、「ひつた流し」は、場面の最後の大団円。訳すと、
「鼓の歌はたとえ忘れたとしても、大鼓を質屋に置いて金をひきだすなんてことはしないでしょう、なにしろこの演目の一番良いところを、さらに面白く歌い上げた、樋口殿のことですから(ですから、殿、褒美をたくさん授けて下さい)」
といった感じだろう。