徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

新潮日本古典集成別巻 四
南総里見八犬伝第六輯
巻之五下冊


第六十回 胎内寳現八射妖怪 申山窟冤鬼託髑髏

     胎内寳(たいないくぐり)に現八妖怪を射る
     申山(しんざん)の窟(いわや)に冤鬼髑髏(えんきどくろ、幽霊)を託(ゆだ)ぬ


(その1 ここから)

 その時、犬飼現八は鵙平(もずへい)の長話を終わりまで聞いて、嗟歎することに耐えず、

 「たしかに世の人の様々で、得難い孝子(身内孝行な子供)を持ちながら、このような情けのない親もあるのだろう。それにしても、その子の賢なる、素直な心は呉竹のようで、世に出る機会を捨てて、菩提の道に進んだというのは、とても惜しい事ですね。さあ引き上げましょう」

 と膝を進めて、笠を引き寄せて、

 「なあ、翁よ庚申山の奇異怪談は、赤岩と犬村親子の事だけが、とても詳しく話されて、日数を重ねて旅寝の憂苦(うき)を忘れるほどまで、慰めてくれた。たまたまこの地に来たのであって、さる霊山の壌(つち)を踏めば、後々までも語り草になる事にもなるだろうが、今回は急いで人を探しているので、心も急いでいるから、また戻って来てみようと思う。そのような事なので、かの山の麓路を、過ららないのは、私の志の示すことなのだ。したがって、翁の意見に従って、弓箭を買って行こうか。おぬしが良いと思う物を、取り出して、早速打ってくれないか」

 と言われて、

 「はい」

 とみを起こし、鵙平は微笑みながら、再び外の方を仰ぎ見て、

 「あれを御覧下さい。日影は逃げて、あそこの榎(えのき)をはずれています。七つになろうとしていますから、今から急がれても、神子内村(みこうちむら)で日が暮れるでしょう。そうとはいってもあの村には旅籠屋はありませんので、今宵はお気持ちをまげて、私の宿で、あかし下さい、と勧めても、忌まわしいとは思いますが、ここで旅籠の銭を欲しがるのかと、さもしい事を物々しげに、脅して懲らしめて、旅行く人の足を止めたりしているのだろうと、思われては、痛くもない腹を探られるのに似て、口惜しいことです。弓箭はあなた様の望みの物を、自分で選んでください」

 と応えて、やがて左右の手に、掻掴(かいつか)んで持ってきて見せると、現八は、これはどうかと選び取った半弓(はんきゅう)を、

 「では、これを」

 と渡すと、鵙平は、そのまま柱に押し当てて、弦を引っかけて、二筋の猟箭(さつや)を番えて、引き寄せると、その間に現八は、腰につけた銭を解きだして、弓箭の値をとらせつつ、急ぎ出ようとすると、鵙平は、なお懇ろに、

 「ご客人、路地を油断することなく、あの神子内を通り過ぎて、麓の村まで急いで行って下さい。ここから峠まで、およそ三里半の道ですが、山の中ですので、四里以上にもなります。もし、この風が北に向かえば、雨になるかもしれません。心得てください」

 と繰り返し、田舎気質の誠意をみせた言葉に現八は、ありがたく思って別れを告げて、手早く笠の紐を結んで、掴んだ猟箭を背負って、帯にはそのまま収めていてが、手束弓を小脇にしっかりと抱えて、おぼつかないが麓への道を、足を信じて急いだのだった。

 そして、犬飼現八は、今まさに道を急いで、頻りに進んで、自身が危ういのも考えずにいて、

 「茶店の主人の問わず語りは、ただの世渡り方便だ。土俗の話は何も無い。出発が遅れたので、今宵の宿を探すのに、難しくなってきた」

 と侮っていたので、導者を雇わず、ただ弓箭を携えて、登る山路は二里あまり、神子内村をやや過ぎて、峠を目指して急いでいたが、頃は九月の初旬、日影は短く、すでに黄昏れて、空は曇って山もさらに暗くなった樹下の蔭で、行く手もわからなくなり、心も流石に不安になり、腹の内で思うのは、

 「このようになるとは、わからなかったが、闇では使えない弓箭よりも、買うべき物は松明だったのか。ああ、くやしいが、自分の手抜かりだった。そうであれば、神子内から、峠村への道のり、一里半と聞いていたが、すでに二十余町も来てしまったが、ここから進むのも、退くのも、どっちもどっちだ。目の見えない者も、京へ登るということわざもあるのだから、暗さを怖れることはない」

 と気持ちを励まして、どことも解らない、山路を辿るのも果てしない長い夜で、更けぬ程にとかろうじて、行けども行けども、人にも会わず、西か東かと問う事も出来ず、迷い入ること、幾町となり、沢辺伝いに登ること、二、三里になるほどに、麓村には到着できず、牡鹿の声のみ聞こえていた。

 「ここまで来ると里へは、なお遠いだろう。どうしたらよいだろうか」

 と思い、道を疑い、危ぶみながら、不安な心を抱いて、後悔の臍を噛むまで、またつくづくに思いながら、

 「不知案内の深山路を、妙法暗夜に辿ってしまい、ここで明ける夜を待つべきだろう。いやいや、ここに留まると、猛獣毒蛇の愁いを防ぐ、方法があるとは思わないが、ただ、命運を天にまかせて、夜が明けるまで走ればどこかで、里に出て人にも会えるだろう。それでは」

 と思って、なおも上り下りしながら、また数十町を行く程に、思いがけなく、最も大きな石門の側に来たのだった。




(その1 ここまで)