葬儀社主婦なむ子です。




2010年も早くも最初の1か月が消化されようとしております。






一年・・というと、漠然と長いなぁ~と感じますが




これが365日というふうに長さの単位を与えられ、




さらに例えば『1月28日』なんて名前までつけられると




もうこれは漠然とした一日ではなく




自分にとってかけがえのない一日を与えられているのだと




感じられて、嬉しくなります。




※特に1月28日が南無家の記念日というわけではないのですが・・・






さて。




私たちは、葬儀社という立場から




いろんなご家族にかかわってお仕事をさせていただいております。






ほんと・・・。






いろんな方がいて、人の人生の最後のかかわりというものが




ドラマや小説以上に奥深いものだと考えさせられる場面も多いのですが




その中でひとつ感じたことを書かせていただきます。






ウチなどはマニュアルのほとんどない個人葬儀社ですので




良く言えば、見積り、サービスなどにある程度の融通が効きます。




(悪く言えば"赤字"にもなりうるという・・・おそろしや・・)




ですので、現場で担当する者の裁量で、




例えば、ご親戚みんなが21,000円の供花を出されるのであれば




予算的に15,750円の方であってもお花を変えたりはせずに




黙って同じものを用意するとか、






お料理のことに口うるさいご親戚がいるけど



葬家さんに予算の都合がつかない・・・という場合は




これまた黙って寿司桶をサービスさせていただくとか




本膳料理に一品外出しを追加させていただくとか、






あるいは通夜時に親戚から




「返礼品が小さい。云々・・・」とぼやきが出るようであれば




告別式の後の本膳返しにそっと和菓子のお土産を用意するとか、






ま、どれもこれも葬家さんの経済状況やご親戚との折り合いなどを見て




(このままではせっかくのご縁の関係がギスギスしちゃうかな)




といった場合に、折を見て潤滑油をさしていく・・的な感覚なのですが




そのときに思うことがあります。






まずですね。




こういったサービスは確かに潤滑油にはなるんですけど




ハッキリ言っては担当者の自己満足が第一のような気がします。




一度喜ばれたからといって毎回それをしたとしても




きっと最初の体験ほどには喜ばれないと感じると思います。




逆に、葬家さんからすれば




「ちょっと教えてくれれば自分で用意できたのに!」なんて




ご気分を害される一端になっちゃうかも・・・。




ですからあくまで特例・・・現場の空気で「必要だ!」と




ピリピリ感じた時にこそ手を打つべきの隠し玉ですね。






ですからそうしたサービスを特別に感じることも




ましてや恩着せがましくずっと心に置くこともよくないことです。






ただ・・・受け取り手の心情はいかがでしょうか?




もしサービスを「当たり前のことだ」と思ってしまったら




心に何も残らないのではないでしょうか。




恥をかかせないようにお花の大きさを統一してもらえたのでしたら




よりいっそうそれらのお花が美しく思えてくると思います。




同じようにお料理を一品サービスしてもらえたのでしたら




よりいっそう美味しく感じられると思います。






葬儀の場は心身ともに疲れていて、悲しみに押しつぶされていて




周りの人にまで気を使っている余裕はないかもしれません。




でも、そうであっても、人が自分に何をしてくれているのか、




周囲の人にどれだけ力づけられているのか、




というアンテナは取り外しちゃってはいけないと思います。






葬儀の場は悲しみの場・・・ではなく本当は慰めの場。






周りの人の心遣いが遺族を癒してくれていることに




やはり気が付き、素直に感謝することが大切なのではないでしょうか。




そうしたときに、残された人たちの心に




やさしい暖かい思いが満ちてくると思います。