葬儀社主婦なむ子です。



お別れの場面において一番大きな感情は


“悲”・・・という気持ちでしょうか。


『心と非(そむくの意)とで、心の思いに反する気持ちの意。

転じて「かなしみ」の意を表す。』



“かなしい”より、“さびしい”かもしれませんね。


“寂”


『うかんむり(家)と叔(静かな意)とで、家の中に人声がなく静かな意。

ひいて「さびしい」意を表す。』


今まで当たり前のようにそばにいて、

空気のように自然に受け答えしていた相手が

もはや、その空間にいないことの寂寞(せきばく)感。


とはいえ「寂光浄土」とは仏の住んでいるところであって

解脱した悟りの境地、とも言われておりますので

『寂』自体は、故人にとって「さびしい」ことではないのでしょう。



気持ちを表す漢字には“心”が用いられることが多いのですが

“つくり”に充てられる文字はまた

何通りもの人の心のありようを示しているようにも感じられます。


“想”は“思”より、より意味深いものに感じます。


“想”


『心と相(すがた・見るの意)とで、心に形・すがたを

思い浮かべる意を表す。』


“愛”


本来の字は『心と旡』の組み合わせです。

『心と旡(つまる意)とで、胸に満ちる愛情の意。』


“愛”はもう、心が「受」に収まっているという形に注目ですね。


“慈”


『心と茲(はぐくみ育てる意)とで、はぐくみ育てる心の意。』


“懐”


『りっとう(心)とカイ(いだく意)とで、心にいだく「おもう」意。』


わたしの心にあるお別れの場に満ちている“心”というのは

このような雰囲気の心ですね。



逆に、“感”を強要するかのような葬儀を目標にしている

葬儀社さんもあるようですが、

あれはどうなんでしょうねぇ。


“感”

『心とカン(うごく意)とで、心が動くまたは動かされる意。』


そんな起伏に富んだ心の動きを湧き起こさせることは

ほんとうにお別れの場にふさわしいことなのかどうか・・・。


しみじみとした、静かであたたかい“心”のありようが

わたしは好ましいな、と思うのですが。


あ、そうそう。


“忌”は葬儀でよく目にする文字ですね。


『心と己(おそれる意→畏)とで、おそれはばかる意。』


死は、不吉でありうとましいもの、というだけではありません。

死を畏れること、これもまた大切なことです。




話は逸れますが。


“忙”も、“忘”も、「心を亡くす」と書きますよね。


「忙しい、忙しい」をしょっちゅう口にしている方もいますが

それこそ、言ってどうなるの?という類の言葉だと思います。


「忙しい」と言われた相手がそうしているわけではなく

結局は自分の心の持ちようでしかないのですよね。

平静な心を失って、「忙しい」ように錯覚しているだけなんです。


葬儀社さんは昼も夜もない仕事ですので

一見忙しい業種のように見えますけど

もしそれを「忙しい」というのであれば

その人の心の余裕の問題だと思います。


時間がないのにやることはいっぱいある

これが「忙しい」状況だと思いますが、


海外のツアーでお土産物屋さんをはしごしている、というのは

「忙しい」範疇に入るでしょうか?


「忙しい」と口にする、または思う心には

相手をうとんじる、

そういう気持ちもまた入っているといえますね。